井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

詰め込み教育の成果

2018-01-29 17:48:00 | 受験・学校
つめ込み教育は、とかく批判の対象になりやすい。
私も、例えば歴史の年号を丸暗記させられるのには閉口したから、これを詰め込まれるのには反対である。

が、大まかに百年単位の把握は、逆に常識として必須だろう。鎌倉時代と江戸時代とどちらが先だっけ、などといちいちスマホで調べているようでは、先が思いやられる。

なので、思考力を育てるのに、ある程度の知識は必要だし、詰め込まないと話にならない状況もたくさんある。

ある教育評論家の本に書いてあった。「思考力を伸ばすのは難問奇問の類である。」なるほど。

この「難問奇問」も40年ほど前に槍玉に上がった。そして「共通一次試験」が始まった。

しかし、共通一次世代から、まだノーベル賞受賞者が出ているから、それだけ見ると共通一次が悪者には見えない。

だって共通一次、5教科7科目1000点満点の試験を全員受けさせられたのだもの。現在のセンター試験よりずっと大変だった。

が、私は大学入試よりも義務教育に注目する。

1970年台の学習指導要領は、戦後最高にハイレベルだったのだ。この成果だと思っている。

興味深いのは、このハイレベル指導要領は経済界の要請で、ときの経済企画庁が作成した、と堺屋太一氏が昔のテレビ番組でおっしゃっていた。

そしてその「負の遺産」が「落ちこぼれの増加」としてクローズアップされ、共通一次導入につながったと一般的には説明されている。

では「正の遺産」は無いのか。

ここを世間があまり見ようとしないのがもどかしいのだが、既述の通り、例えばノーベル賞受賞者がいることが、わかりやすい実例だろう。

そのハイレベル指導要領、例えば小学校で習う漢字が百字くらい多かった。今 思い返してクラスの周りの人間を考えても、これが負担だとは思えない。中学校になったら あと二千字覚えるのだ。こちらの方がよほど負担だ。それに、漢字は使うのだ。年号や化学式とは違う。

あと数年で授業のやり方が大きく変わるかもしれないが、知識を軽視すると とんでもないことになりかねない。
ナポレオン・ヒル曰く「知識はパワー」である。

思考力を育てるには知識が必須、そのためにある程度の知識を詰め込むことは正しいやり方だと思う。

思考力を高める

2018-01-21 08:40:43 | 受験・学校
20年くらい前「ゆとり教育」が始まった時も、思考力を高めるために実施するのだという講演を聴いた。
曰く、問題課題を少なくして、その分 考える時間に充てれば良いというもの。
アメリカの大学生は高校までにじっくり考える訓練ができているから、入学時には日本人に全く及ばないが、卒業する時は完全に日本の大学生を追い抜いている、とのこと。

そうなのか…と、その時は何も疑わずに信じた。

結果は皆さんご存じの通り。学校のようなマス教育では、じっくり考えさせる指導など無理なのだ。

その後、ゆとり教育に異を唱える本にいくつか出会った。それによると、アメリカ人がじっくり考えるとは言いきれないようである。
ただ相手を言い負かす術には長けているが、それは近所の売店のおばちゃんでもできるそうだ。
思考力がある訳ではない。

今度こそ騙されないぞ。

アクティブ・ラーニング

2018-01-18 20:43:00 | 受験・学校
数年前から文科省が言い出して、全ての授業にその視点を求められている。

先生の話なり指示を聞いて行動する受け身の授業ではなく、授業を受ける側が主体性をもって自主的に行動するもの、というような説明だった。

音楽なんて自主性がなければ何もできないから、全てがアクティブ・ラーニング、と思っていたのだが、どうもそれだけでは済まないものがあることが報道されていた。

「授業をしない先生」が紹介されていた。班分けして、班内では生徒が生徒に教えているのを先生は監督しているという構図だ。
言ってみれば メダカの学校「誰が生徒か先生か」

いわゆる知識は、昨今 スマホで検索すれば済む。それよりも思考力を育成しなければならない。

自分で考えた結論ならば感動を伴うから、多少時間がかかっても忘れず、生きた定着する。

それだけ聞けば至極ごもっとも、実に正しい意見である。

しかし、ここで似たようなことが昔もあったのを思い出す。

「ゆとり教育」である。

あの時も、ゆとりがあるから考える子供が育つと言われたのだ。
それと どう違うのだろうか。

アクティブ・ラーニングは否定しない。が、メダカの学校はいただけない。思考力の伸ばし方は、もっといろいろあると思う。

トマトは野菜か果物か

2018-01-13 20:07:05 | 受験・学校
昨今は、問題を読みたいなどとは全く思わなくなったセンター試験。にもかかわらず英語の問題をほんの少しだけ読んだら、こんなことが書いてあった。

トマトは野菜か果物か。一般的には野菜だが、生物学的には果物だ。果物の定義は種が果肉に入っているやつのことだから、キュウリもカボチャも果物だ。なぜそれが問題になるかというと、1890年頃のアメリカでは野菜が課税、果物が非課税だったからだ。
それをめぐって法廷で争われたが、結局「野菜」として扱う、ということで一件落着。

ふーむ。果物の定義なんて、考えたこともなかった。
センター試験、勉強になります。

さあ、このセンター試験もあと何回かで幕引きだ。

あと何回かな…。

これは知っておくべきなのかもしれないが…知らない。

しかし、ちゃんとご存知の先生もいらっしゃった。

今の中学3年生が、ストレートに進んだ場合、そこから変わるのだそうだ。
変わって良くなると良いのだが。

虹と雪のバラード

2018-01-10 21:21:00 | 日記・エッセイ・コラム
前記事で、人生の応援歌が増えたと書いたが、それを聞いて励まされたかと言うと、否である。

テレビの字幕を読んで、ああ応援歌なんだ、と思った次第で、耳からは何も飛び込んでこない。

だいたい言葉の無駄遣い、言葉が多すぎて、かえって印象に残らないのだ。
もちろん昔だって、さだまさしさんのように饒舌の歌はあった。でも、ものすごいインパクトがあって、強烈な印象を残す。

ひるがえって最近の歌はというと、伝わる人に伝わればいいでしょのような、自己満足的な歌ばかりに感じる。
これじゃ素人でしょ、と言いたくなる。

どれもこれもつまらん歌ばかり、と思っているかたわら、ラジオから時々懐かしい歌が流れてくるのを偶然聞いた。

しかし、偶然にしてはすごいことに、同じ歌を3回聞いた。「虹と雪のバラード」である。

これだよ、これ!

1972年の札幌オリンピックのために作られた歌だが、日本で作られたオリンピックのための音楽で、最高傑作ではなかろうか。

ついでのことながら、札幌オリンピックはファンファーレも素晴らしく、また、あまり知られていないが山本直純作曲の行進曲も私は好き。

そして「虹と雪のバラード」。
トワ・エ・モワの歌声が良い。
作曲の村井邦彦氏の作りは職人芸。
前半はパッヘルベルのカノンを代表とするシャコンヌバス風、後半のサビはヴィヴァルディを代表とするロザリオ風反復進行、これだけで骨格を作っている。

この二つの、いわばテンプレート、通常どちらかをサビに持ってきて盛り上げるのだが、二つとも含む例を筆者は寡聞にして知らない。

プロの技である。

オリンピック関係の音楽も、1988年のソウル以降ろくなものがない。
だから、本来なら平昌関連の音楽を流すところなのに札幌オリンピックが流れてしまうのだと推察する。

オリンピック選手が体ボロボロにしながら頑張っているのだ。応援する音楽も、それにふさわしい最高のものを作ってほしいなあ。