井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

学生街の喫茶店②

2021-10-16 18:27:33 | 日記・エッセイ・コラム
小学校の謝恩会だったか学芸会だったかで「《学生街の喫茶店》をやろう(歌おう、だったかな?)」という声があがり、ついては私が電子オルガンで伴奏することになった。

誰かがドーナツ盤(45回転EP)を貸してくれ、それを基に伴奏を考える訳だ。今で言う「耳コピ」である。

その立場で聴くと、実にユニークな伴奏になっていることに気づく。

前奏はヴァイオリンのトリルだけ、と言って良い。歌の直前も、通常のドミナント「Vの和音」ではない。

そしてさらにユニークな間奏に度肝を抜かれる。コーラングレの不思議な旋律、調性感が薄くて、コブラの笛吹のような節回し。

おまけに終わりが終わりに聞こえず、このまま演奏したら2番が歌えないかも、と不安になった私は、学校の音楽の先生に相談した。

音楽室で先生とレコードを聴く。

先生が「これは何のリズム?」
私「タンゴ。」

あのー時のーレベル高かったー、と歌いたくなるようなハイレベルのやり取りの後、8小節の間奏を4小節に短縮してやろう、ということになった。

そして、それまで電子オルガンなど弾いたことのない私が、ペダル鍵盤つきで本番をこなすのである。

嬉々としてやったような気がする。
何せ、ボタン一つでいろいろな音がするというのは、数年来の憧れだったから。
コーラングレだから、何とかオーボエの音が出るストップの組み合わせを使い、普段聞き慣れた電子オルガンサウンドとは違う音が出せた、と私は満足。

この演奏は保護者も聴くことができた本番だった。

同時にもう一組、別のチームもいて、そちらは《てんとう虫のサンバ》だった。
そちらは鶴岡さんという女子が、やはり電子オルガンで伴奏していた。
何の工夫もない、いわゆる電子オルガンサウンドの音色で、しかもEマイナーをいつもEメジャーで弾くセンスの無さ、と小バカにしていたのだが……。

家に帰ると、母が
「鶴岡さんの方がきれいな音だったわねぇ」などとのたまう。

まったく、どいつもこいつも、このユニークさがわからないとは、と小学生高学年男子はずっと憤慨し続けていたのだった……。

《学生街の喫茶店》ぜひ間奏に注目していただきたい。滅多に聞けない芸術性があるので。

学生街の喫茶店①

2021-10-16 17:38:37 | 日記・エッセイ・コラム
筒美京平、小林亜星に続いて、すぎやまこういち氏が亡くなった。
ついに一つの時代が終わりを告げた感が強い。

すぎやまこういちさんはお会いして一緒に仕事をしたこともあるだけに、そのショックもそれなりに大きいが、それよりも偉大な業績を遺されていることを讃え、幸せな時間を過ごさせてもらったことを感謝したいと思う。

私個人の思い出は「ビッグGM」と《オーディオ交響曲》だけど、ここではもっと一般的な《君の誕生日》、いや違う、《学生街の喫茶店》の話をしたい。

我々の世代にとっては、ドラクエよりずっと大事な歌だったと思うからだ。

クラスメートに金子という男がいて、一緒に「文芸クラブ」というのに入った。小学校の正課クラブの一つである。
私自身は、そこで何をやってたか少しも思い出さないのだが、その金子は「学生街の喫茶店」という小説を書こうとしていた。

「学生街に一軒の喫茶店があった。」
と書き出すのだが、その後が続かない。そのうち時間がきて、クラブの時間は終わる。

次の週、また原稿用紙に書き始める。
「学生街に一軒の喫茶店があった。」
その後どうしようか、と彼は毎時間悩んでいた。

要するに、基本が間違っているのである。何か書きたいことがあって書くのではなく、「学生街の喫茶店」というカッコいい言葉があるから、それを使ってとりあえず書いてみた結果がこうなった訳だ。

ことほど左様に、「学生街の喫茶店」は小学生高学年男子の心をとらえていた。

世の中激変中

2021-09-07 10:41:55 | 日記・エッセイ・コラム
世間のことを勉強すると、無数の知らなかったことが後から後から出てくる。

なので「変わらないもの」を追求することが幸せにつながるだろうと思っていたところがあった。

でも、そうでもないらしいことにも気づくのである。

変わっていくのが世の中だ、と平家物語の昔から伝わっている。いわゆる「諸行無常」。
変わっていく波に乗ってこそ、幸せにたどり着くこともある訳だ。

さあ、どこに行くのか。

これがわからない。
わからないから面白い、という考え方もある。

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ、とのこと。

という訳で、歴史を少し勉強していたら、なかなかショックな事も多くて、また先に進めないことしばし、だ。

もう少し気楽に生きよう、とかいろんなことを考えていた。

気楽に、

洗面所の蛇口である。

バブル期にシンク?から液体せっけんと空気が出るものが出てびっくりしたが、経費がかかるためか、普及しなかった。

それから30年、今度は蛇口から同じことをするものが出てきた。


諸行無常、歴史は繰り返す、か。


お世辞と謙遜

2021-04-28 18:55:00 | 日記・エッセイ・コラム
「お世辞と謙遜は、時間の無駄だと思っています」
と言った人がいた。

それは言い過ぎでしょう、と普通はなるが、その人の環境を考えると、そうも言いたくなる気持ちもわかってくる。

昔から、優秀な女性ピアニストになぜか多いのだが、お互いに賛辞と謙遜をいつまでもやっている場に遭遇することがあった。

こうなると、いつも批判的な人が多いヴァイオリン、フルート、ソプラノの方が健全に見えてくるくらいだ。

本当に素晴らしい人同士は、お互いに「ありがとう」とか「嬉しい」で済ませておけば良いのに、謙遜大会が始まると、そこまで素晴らしくはない人々にとっては、かなり居心地が悪い空間が誕生したことになる。
そうなると時間の無駄と言っても過言ではない。

そのような環境から生まれた前述の発言だと推測した。

もちろん、状況によってお世辞や謙遜も必要だとも思う。
何事もちょうど良いのは難しいのである。

エスカレーター警察はいないの?

2021-02-09 21:50:15 | 日記・エッセイ・コラム
世の中全て「ちょうど良い」を判断したり、実行したりするのは、とても難しい。

日本人みんなが気をつけたおかげで、感染症が見事に抑えられたことは、とても嬉しい。
毎年ひいていた風邪を、今年は全くひいていない。ましてやインフルエンザなぞ、どこにも見かけない。これはありがたいことだ。

しかし、飲食店が20時で閉まったり、この寒空の中、窓を開けて走る電車などは「ちょうど良い」から逸脱している、と見る。

先日は、電車の窓を開けてまわるおじさんに遭遇した。よほど頑強な体の持ち主なのかもしれないが、少なくとも私は体温が下がり、抵抗力が弱まり、病気になりやすい状態になる(から、やめていただきたい)。

一方「マスク警察」に遭遇したことはないが、寒空の中を歩きまわるには、マスクが暖かいので、とても具合が良い。冷たい空気が、直接のどに入るのを防ぐという意味で、マスクは効果があると思う。ウィルスを防ぐ意味はなさそうだが、それでも意味を見いだせる。

一方、炎天下の夏は、熱中症の危険度が上がるので、基本的にやめたが良いと思う。なのに、昨年の夏は皆さんマスクしていたなぁ。「ちょうど良い」ではない例である。

とにかく、ここまでマスク着用が徹底し「マスク警察」まで出現するとは、感心するやら……やら。

国民に「お願い」するだけで、ここまで徹底した習慣になったのは、生まれてこの方初めてだ。

他方、同じ国民に「お願い」しても、全く見向きもされないことがある。

エスカレーターである。

「二列で」「エスカレーターでは手すりに捕まって」
と、日本エレベーター協会が何年も前から呼び掛けているのに、誰も従わない。

二列の方が輸送量が増え、待ち時間も減るから、混んでいる時は二列の方がずっと良いのに。

「習慣だから」という人がいる。
そうかもしれないが、これは比較的最近の習慣だ。

私が初めてヨーロッパに行った1985年、ドイツの地下鉄のエスカレーターに「Rechts stehen」(立つのは右)と書いてあって、感心したのだ。
話には聞いていたが、その習慣を目の当たりにしたのは初めてだった。

つまり、この時点で日本に「片側空ける習慣」は無かったのである。

だから、長く見積もって30年の習慣だ。

されど30年、ということか?

エレベーター協会の言う事に従うと、「場の空気を乱すヤツめ」という目で見られる変な状況になっている。
エスカレーター警察、誰かやらないかなぁ。