井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

マーラー:交響曲第4番 第2楽章〈イカすヴァイオリン〉

2010-04-29 23:54:25 | オーケストラ
各楽章にいろいろ思うことはあるものの,ヴァイオリン弾きとしての関心は,この第2楽章に集中するだろう。ここで,コンサートマスターによる独奏ヴァイオリンが披露されるからだ。それもただの独奏ではない。「スコルダトゥーラ」と呼ばれる変則調弦によるものである。

各弦を全音分高く調弦する。そのため,2台目の楽器を用意して演奏することになる。楽譜も移調楽器として記されるから,ソロ・パートのみフラットが2個多い。楽譜に「ラ」と書いてあると,実際には「シ」の音が鳴って,それは開放弦(左指を押さえない)で演奏されることになる・・・ヴァイオリン弾きにとっては,かなり混乱する状況である。

なぜそんなことをするかというと,安っぽい音を出させたいからだそうで,楽譜にも「フィデルのように」と書いてある。カントリー&ウェスタンなどで使うフィドルのこと(と言っても楽器としてはヴァイオリンと同じなのだが)で,さらに言えば,これはあくまでも死神の踊り,悪魔が弾くヴァイオリンの伝統に則って作曲されている。

西洋では,神聖な楽器はトロンボーンを代表とする金管楽器,世俗的な楽器はヴァイオリンを代表とする弦楽器と古来から決められている。天使はラッパを吹き,悪魔と乞食がヴァイオリンを弾くのである。弦楽器と金管楽器が対立するのは,太古の昔から決められていることなのである。それに日本人が従う必然性はないと思うのだが,上述の伝統楽曲の歴史がある以上,とりあえず知らなくてはいけない。

・タルティーニ:悪魔のトリル
・リスト:メフィスト・ワルツ(ピアノ曲なのに冒頭は「調弦」をしている!)
・サン=サーンス:死の舞踏(これも「スコルダトゥーラ」)
・ストラヴィンスキー:兵士の物語

これにマーラーのこの楽章も組み込まれる訳だ。

ヴァイオリン弾きにとっては,曲が表現しようとしているものよりも,曲が要求している技術が悪魔的である。

過日トップサイド(コンサートマスターの隣席)を頼まれた。コンマスではないから,まあ気楽なもんだと思いきや,とんでもなかった。短いけれどサイドにもソロがあった。それだけなら交響曲第1番にもあるし,驚くにはあたらない。
問題は,コンマスが弾くパートが全音低く書いてあり,それがチラチラ目に入って,その度にドキッとすることだ。違う箇所を読んでいるのではないか,という錯角に陥る。ただでさえ,弾きにくい音楽なのに・・・。
弱音器も,付けたり外したりとせわしない。マーラーの楽譜は注意書きが多くて,弱音器の付け外しの指示を読み取るのも容易ではない。

コンマスのソロも,たった1小節のために通常のヴァイオリンに持ち替えなければならない箇所もある。ここまでくると「いじめ」かと言いたくなる。

先日,変則調弦を試してみた。弦が切れるんじゃないか,駒が表板に食い込んで表板が割れてしまうんじゃないかと,それだけで心臓に悪い。一音上げたつもりで,実際にはかなり低めだったりして,調弦だけでも一苦労。その上,最初はどんどんピッチが下がっていく。楽器も「いやだいやだ」と言っているようだ。
全く人騒がせな楽章だ。

そこまで苦労する独奏ヴァイオリンなのに,印象的な演奏というのは無いものである。やはり「安っぽい」音を狙っているから,あまりヴァイオリンの魅力とつながらないのは確かだろう。それに,試して気付いたが,変則調弦する楽器に,上等なものを使うのは抵抗がある。恐らく皆さん,あまり高級でない楽器を使われているのではないか?

唯一覚えている演奏は,今は亡き田中千香士先生のものである。芸大定期,管弦楽研究部の演奏会におけるもので,右腕が何かうごめく感じの姿が記憶に残っている。死神だけれど生き生きと,先生の言葉を借りればイカすヴァイオリンとでも言おうか。

今の言葉で言うと「イケてる」と言うようだが,千香士先生はあくまでも裕次郎の世界から抜け出すことなく,「もっとイカすヴァイオリン弾いてよ」としばしば言われたものだ。演奏家で「イカす」「イカさない」という表現を使う人が他にいただろうか?

そんなことを思い出すイカす楽章であった。


マーラー:交響曲第4番 第1楽章〈西郷輝彦〉

2010-04-26 21:50:59 | オーケストラ

筆者は,いかにもドイツ・オーストリア民謡由来のクラシック音楽の旋律というのはあまり好きではない。民謡そのものは結構好きなのも多いのだが,それがリファインされてクラシック音楽になってしまうと,なぜだか魅力を感じなくなってしまうことが多い。

と,抽象的に述べても何のことだかわからないであろうから,具体例を挙げると,リヒャルト・シュトラウスの旋律が筆頭に挙がり,ブラームス,シューマン,シューベルトあたりの一部がひっかかってくる。その観点によるのだが,当初,この第1楽章の第1主題は,あまり好きになれなかった。モーツァルトもどきにしか聞こえない。(上述の作曲家にも,時々モーツァルトもどきが現れる。○○モドキは苦手である。マグマ大使のニンゲンモドキは恐かった。)

この見方をガラッと変えてくれたのは「西郷輝彦」さんである。

昔,今井美樹扮する主人公が,ある建物の一室に入ると,迎えてくれたのがカッコイイ中年男性(西郷輝彦),バックに流れていたのがマーラーの交響曲第4番第1楽章の第1主題,というテレビドラマがあったのだ。それはそれはゴージャスで,皮張りのソファに身を置いて,ブランデーでも傾けるのが似合う音楽に聞こえた。

この状況の音楽,モーツァルトではダメなのである。ある程度,低音がズンズンなって,どちらかというと大音量で鳴らしたいからである。でもワーグナーではダメなのである。大音量過ぎるから。その点,マーラーのこれはエキセントリックに強弱がつくから,それが途切れがちな会話を合の手のようにちょうど埋めてくれるのである。

ドヴォルジャークでもダメである。日本の都会の風景から突如ヨーロッパに飛び込む感じが重要なのだ。遠き山に日は落ちる小学校の校庭を連想させてはいけない。その点,マーラーのこれは実にモーツァルト風で,典型的なヨーロッパを感じることができる。

このドラマの主題歌はユーミンであったが,他に覚えていることがほとんどない。ストーリーを覚えるのも苦手である。今はウィキという便利なものがあるので,それで調べてみると,1988年,TBSで放送した「意外とシングルガール」というもののようだ。なぜ,これを見ていたのかも覚えていない・・・。

ついでに,第2主題の後半一部は冨田勲さんが「UFOに呼び掛ける旋律」として使っていたのが印象的。原曲はフルートを使うが,冨田さんはソプラノ・リコーダーを使って,小学生の集団に吹かせていた。(ような気がする。場所が長良川だったかリンツだったか,全くいい加減な記憶しか残っていないので,御存知の方いらっしゃったら,教えて下さい。)

いずれにせよ,西郷輝彦さんのお陰で,途端にカッコイイ音楽になってしまった第1楽章,爾来,これを聴くと大変幸せな気分に浸れるようになったのであった。


マーラー:交響曲第4番 第3楽章〈ティンパニの勇姿〉

2010-04-24 01:24:05 | オーケストラ

マーラーの交響曲の妙な特徴に,前後の交響曲のモチーフが出てくることがある。だから,という訳ではないと思うが,連日第5番を演奏するビータ(演奏旅行)の移動中に,この第3楽章を聞かせてくれた先輩がいた。1985年の秋である。

このビータで筆者はマーラーの5番を8回も弾いた。なのに,さっぱり頭にはいらない。ほとほとマーラーに嫌気がさしているところに,「聴いてみないか」とカセットテープレコーダーごと貸してくれたのだった。毎日マーラーで体力を消耗しているのに,聞きたいなんて思うやつの気がしれない。と,思わないでもなかったが,退屈していたから,それでもありがたく聞かせてもらった。

お陰さまで気付いたことがあった。「これかぁ!」

ウォルター・ピストンの「管弦楽法」という本があって,高校時代から熟読玩味していた。そのお陰で,掲載されている譜例は大抵覚えていた。で,その譜例と御対面?したのである。

一つはcampana in aria(英語で言うベル・アップ),ホルンの朝顔部分を高く持ち上げて吹くところ。
もう一つはティンパニの叩き方。通常,一つの楽器は一本のマレット(バチ)で叩くものだが,この楽章には2本のマレットを同時に使って叩くところがある。楽譜も重音の形で書かれている。

これがまた,バカでかい音がする箇所である。全曲中で一番大きな音がするところだ。実演の時は是非ティンパニに注目しながら,その大音量を楽しんでいただきたい。両腕を同時に打ち下ろすティンパニストの勇姿が目に焼き付くだろう。前後の時間経過を考えると全体の黄金分割点付近でもあり,ここが全曲中のクライマックスと言って良い。以来,筆者の中心楽章も第3楽章にシフトする。

しかし,読響定期の時も,この箇所は目にしていたはずで,なぜクライマックスに感じなかったのだろう?結局,1時間をきる第4番といえども,筆者の頭の中には入らなかった,としか言えない。


マーラー:交響曲第4番 第4楽章〈シャンシャン馬〉

2010-04-22 00:00:15 | オーケストラ

筆者にとって,マーラーはわからないところだらけの作曲家である。いつかはわかるようになりたい,と思って20年以上が経過した。それでも,その思いは断続的に続いている。それは,とりもなおさず,やはりマーラーに魅力があるからなのだ。

マーラーは,断片的に聞くと大変魅力的な音楽として楽しむことができることが多い。なので,バラバラにして「マーラー・ショートショート」というのを作ってみたらどうかと考えたこともある。一見成功しそうだったのだが,ひとくさり終わると次の断片が聞きたくなって,結局全部そのまま聞くことになったりして,何のためのショートショートかわからなくなったので失敗。

でも一曲全部聞くと,何だか消化不良感が残るという,筆者にとって妙な音楽なのである。

その中で,1時間内に納まる交響曲の1番と4番は,数少ない「わかったような気がする」曲である。1番の方は,本当にわかった感じがする曲といえる。で,4番を考えた時・・・

筆者の頭の中が支離滅裂だったことを今頃発見した。各楽章で,こうもバラバラな思い出を持つ曲は他に思いつかない。ひょっとしたら,筆者と同じような思いを抱いている方もいらっしゃるかもしれない・・・という勝手な思い込みのもと,それを整理してみたくなった。マーラーだって,分裂症の気があるのだから,似たようなものかもしれないし・・・(とまた勝手な思い込み)。

実演を始めて聞いたのは,東京文化会館における読売日本交響楽団の定期演奏会。(指揮者も忘れてしまった。1980年か81年あたりの演奏会。)当夜で一番印象的だったのが,ソリストの常森寿子さん,つまり第4楽章なのである。第1楽章と同じ形が出てくるのだが,第4楽章が始まってから常森さんが舞台に出てくる,つまりオペラのように演奏中に登場する,というのが,とにかく強く印象づけられた。

当時,常森さんは「夜の女王」で大変人気のソプラノだった。その人気歌手がシャンシャンシャン,という鈴の音バックに演奏するのである。この鈴の音というのも,この曲の魅力の一つだ。宮崎県の民謡に「シャンシャン馬道中」というのがある。これとは全然関係ないのだが,筆者は勝手にこの部分を「シャンシャン馬」と名付けている。

以来,しばらく筆者の中で,第4楽章は中心楽章だった。鈴がシャンシャン鳴る交響曲なんて他にはない。これだけで気分が良くなってしまう。そしてソプラノの歌が何とも幸せに聞こえてしまう,という楽章である。


梅鶯林道はなぜコンチェルトばかり?

2010-04-18 01:00:43 | 梅鶯林道

 ピアノの友人が,かれこれ20年は言い続けている。「ヴァイオリンの人達が,コンチェルトばかり弾き続けるのは,絶対に良くないと思う」

 20年間,主張し続ける人はご立派!

 確かに,ピアニストはみんなソナタで育つ。それによって,音楽というのは,どのように組み立てていくものなのか,体でわかる訳だ。ある年の学生音コンは,しっかりそれが試された良い機会になった,と以前にも書いたことがある。

 片やヴァイオリン,さあ,この駆け上がり,行くぞ,はずすなその音,よし、決まった,次は重音,こっち高め,こっち低め,よーし・・・とスポーツだかサーカスだかと見紛うばかりのことのみ考えている時間が長い。たまには(?)音楽作りも考えたいものであるから,かの友人の説は正論である。

 で,時々小学生同士の二重奏を聞く機会があり,この問題とは正面から向き合うことになる。なぜコンチェルトばかりなのか,一番考えられる要因は,ソナタでは演奏技術の習得が効率良くできないことだろう。

 あのパールマンが言っていた。
「ピアノは押したら音が出るから,すぐ解釈の問題にいける。ところがヴァイオリンときたら,音が出るまでにいろいろやらなきゃならないから,なかなかそこには到達しないんだ。」

 どんな楽器でも,最初に「楽器を鳴らす」訓練から始まる。鳴らないことには始まらない。コンチェルトは「鳴らしまくる」形態だ。この訓練にはうってつけである。

 これがニ重奏ソナタになるとヴァイオリンがピアノの伴奏をする箇所も出てくる。フォルテも弾けない人がピアノで弾くなんてことをしていたら,楽器がいよいよ鳴らなくなっちゃうよ,と指導者は心配してしまう。

 なので,バロックのソナタならば伴奏部分がないのでOKとなる。ヘンデルが重用される所以である。

 ならばバッハもOKだろうと,小学生に弾いてもらったことがある。結論はNG。
 できなくはないが,かなり難しい。バッハのチェンバロとのソナタは,いわゆるバッハのポリフォニー楽曲で,始まったら最後までテンション張りっぱなしなのである。小学生には過酷だった。
 これがヘンデルだと,しばしば中断があるのでOKとなる。

 同じような理由で,ベートーヴェンも向かない。フレーズの長いものが多く,仮にフレーズは長くなくても,たたみかけるように続くベートーヴェンの音楽は途中で息つぐ暇もなく,やはり小学生には無理がある。

 という次第で,フレーズの長い曲が多いために子供は敬遠,これが二つ目の理由。

 ではフレーズの短いモーツァルトはOKか?

 ここで三つ目の理由が浮上する。ニ重奏ソナタは相手あっての物種,一人では学習できない。殊にモーツァルトはオブリガートつきピアノ・ソナタが大半を占めるため,ピアノ同伴でないと音楽作りの勉強はできない。
 モーツァルトほどではないにせよ,他の作曲家の作品もピアノ無しでは音楽にならない。このあたりが,コンチェルトやバロックのソナタと大きく違うところだ。

 とは言え,音楽作りの学習も取り入れたいからドヴォルジャークのソナチネくらいやっても良いような気はする。大人の学習者であればソナタもお薦めできる。

 昨日会った小学生「将来の目標は『メンコン』です!」と言っていた。ソナタがやりたい訳ではない,というのも一般的な姿であろう。メンデルスゾーンに早く到達するには,ソナタなどで時間を取られたくない,という本音もあるかな?

 とにかく上述のような理由が確実にあるのだから,堂々とコンチェルトや小品ばかりやり続けるとしようか。