井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

わかる演奏に必要なもの

2008-06-25 22:55:56 | 音楽

ある映像を資料として頂いた。オープンスペースにおける学生のピアノ演奏が映っている。曲はバッハの平均率とドビュッシーのアラベスク第1番。

何気なく見ていたのだが、聴衆が一人、映像に収まっているのにふと気がついた。 この聴衆がピアノを聴いたり聴かなかったりするのである。 最初のバッハは全く聞いてない。アラベスクが始まってしばらくすると聞き始める。そして中間部の後、再現が始まると、また聞いていない。

これだけだと、特に珍しい現象ではない。興味深いのは、演奏のある要素の有無と、相関関係があったからである。

試しにピアノやヴァイオリンを勉強している大学院生に映像を見せ、演奏の良し悪しをどう捉らえるか、きいてみた。

回答は様々、和音のタイミング、音色、テンポ設定等々。しかし、私が期待したものは残念ながら出て来なかった。

映像の演奏で、あったりなかったりしたもの、それは「拍子」あるいは「強拍」である。

バッハは、それがまるでない演奏だったので、客は全く聞いていない。

アラベスクも最初は強拍なしの演奏。上体の動きを見ると8拍単位の7拍目にピークが来ている。右手の旋律に合わせた動きであり、左手のアルペジオを旋律的に捉らえた動きとも言えるだろうか。(8拍単位と言えば謡曲だ。日本人的感性が、などというのは穿ち過ぎ?) この部分を院生は問題にしなかったが、客にはそっぽを向かれたところである。

そして中間部。ずっと1、2、―、4、1、2、―、4という具合にシンコペーションが続く音楽で、3拍目や7拍目にピークを持っていきようがない。結果的に1拍目に強拍が生じている演奏だった。まがりなりにも客が聞いてくれた部分である。

聞いていない時は友達とおしゃべりするような人が映像の聴衆である。クラシックを聞き慣れている人ではない。それだけに、正直な反応が興味深い。

一方、院生がああだこうだと演奏の問題点を指摘したのは、強拍が顕れている部分がほとんどだった。

その昔、齋藤秀雄先生が「曲の構造がわかる演奏が良い演奏」とおっしゃった。 拍子がわかるというのは、最低限の構造がわかることではないだろうか。院生は「わからなかった」演奏部分にはノーコメントで、「わかる演奏」の部分に関して好き嫌いを述べた感もある。

また、欧米の音楽において拍子は快感なのだ。その快感の要素が含まれているならば、耳馴染みのない曲でも聞いてくれるのだ。この映像はそのことも証明してくれる。

拍子の概念は基本中の基本。しかし、これをわかるようにするには大変な努力がいる。 どうか学生院生の皆さん、一日も早い理解を、と願っている。