井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

面白い演奏とオーソドックスな演奏

2022-01-26 10:24:00 | ヴァイオリン
受けてきた教育、巡りあった先生方が、どれもどなたも伝統的でオーソドックスな方法をまずは学ぶべし、というものだったので、それ以外のことはあまり考えずにここまでやってきた。

しかし世間はそうでもない。

あるコンクール(未成年対象)で、一度出た評価に異を唱えた審査員がいたのだ。
「本当に皆さんそう思っているか確認してほしい」とその方はおっしゃった。

コンクールでこれをやり出すと結論は出なくなりかねないので、このようなことは滅多に起きない。起こしてはいけないかもしれない。

が、場が収まらなかったので、結果に賛同するか改めて採決をしたのである。

結果は変わらなかった。やはり皆さん本当にそう思って採点していた訳だ。

しかし、私は異を唱えた審査員の方に賛同した。なぜならば、問題になった演奏は「とても面白い」けど「非オーソドックス」だったからだ。

「とても面白い」ことで評価を受けた子どもは、その後どうなるだろうか。

毎回「とても面白い」演奏ができれば良いだろう。そういう人はホロヴィッツやギトリスになれるタイプであろう。しかし、そういう人はもともと子供のコンクールなど受けてこないように思う。

大抵は「変わっている」だけで、大して面白くもない演奏をするのである。
当然評価もされない。
その子どもは思うだろう「あの時は評価されたのに……」

ここで「あの時の評価」が一過性のもので、それ以上のものではない、と判断できるならば、大物の可能性がある。

しかし大抵はそうならない。どんどん変な方向に行くか、挫折感を味わって止めてしまうかが多い。

これを一言で言ったら「あの時の評価に潰された」となるだろう。

本来の評価は「ここがこういう理由で良かった、一方こちらはこの理由で改善するともっと良い」というものだろう。

しかしコンクールの場合、それはちょっとできない。講評用紙である程度補える場合もあるが、それがないコンクールもある。これは仕方ない。そういうものだ。

だとしたら「非オーソドックスな演奏」を評価するべきではない、というのが持論である。

サン・サーンス:ヴァイオリン協奏曲第3番

2020-09-02 20:24:57 | ヴァイオリン
NHKFMで「アイザックスターン変奏曲」という特別番組を5日間にわたって放送していた。

そこでこの曲が放送されたのだが、これは特別に懐かしいものだった。
その音源、LPレコードは私が高校生の時の新譜で、やはりNHKFMでその頃放送された。それをカセットテープに録り、何回となく聴いていたからだ。

それだけでなく、クラシック好きの同級生が「ダビングしてもいいか」と言われて貸し出しまでした。
その友人が言っていたことも忘れない。「サン・サーンスって冗談音楽の作曲家かと思っていたよ」

そのように、付随する思い出も含めて、さまざまなことを思い出させ、同時に当時聞き取れていなかったディテールまで共に迫ってきて、感慨深い録音の放送だった訳だ。

同時に「アイザックスターンは過去の人」という今の認識が、当時の「現在の人」という認識に重なる感激も味わってしまった。
不思議なことに、そこで今演奏しているような錯覚まで感じてしまったのである。

一体、この音源、LPだかCDだかわからないけど、この40年間に何回放送されたのだろうか。5年に1回、放送か試聴かされたとしても10回も聴かれていないことになる。実際は多分それ以下ではないだろうか、などということも考えてしまった。

スターン50代の演奏、改めてその素晴らしさに触れ、それが長い間眠っている現実にも、感じるところ大だったとでも言っておこうか。

サン・サーンスの曲は、ほぼ全ての曲のメトロノーム表示があてにならない。大体速すぎる。そして、一定のテンポではなかなか音楽的な表現ができない曲が多い。

なので、楽譜に書いてない緩急をつけるのが通例である。特にユダヤ系ヴァイオリニストはその傾向が強い。

他方、グリュミオーなどは、その緩急をほとんどつけずに素晴らしい演奏を遺している。
私などは「フランス系の本流は、やはりこちらだろう」と思ってしまう。

そういうことを考えていくうちに、スターンの演奏は全く聴かなくなってしまった。

多分今回、数十年ぶりに聴いた。
そして私の認識が、いつの間にか歪んでいたことに気づかされた。

確かに第1、2楽章は緩急が少しついているが、本当に少しだった。そしてスピード感溢れる第3楽章は、ほぼ一直線の演奏。
まさにサン・サーンスの意図をストレートにくみ取って表現したと言って良いのではないだろうか。

まだまだ血気盛んなアイザックスターン、やはり永遠の憧れの存在だと改めて思った時間であった。

ロード:ヴァイオリン協奏曲第6番

2020-08-25 23:54:23 | ヴァイオリン
7番と8番は、多くの人が練習するけど、6番はあまり聞かない。

しかし、弓先のアタックが付けられない向きには、このあたりの協奏曲はとても役に立つ。

とは言うものの、6番はあまり知らないので、この際、少々探求してみた。

そして、あまり取り上げられない理由が一つわかった。

第3楽章である。

モーツァルトに似ているから、その調子で弾き始めると、途中から全く弾けなくなる。
途中が弾けるテンポで弾き始めると、最初が随分鈍重で、非音楽的だ。

これは面倒だ。
弾くのが必須、という訳ではないから、これだと誰も弾かない傾向がすぐに生まれそうだ。

今、見向きされていない理由が、よくわかったような気がする。この曲は第1楽章だけ練習する曲と見なそう。

単調な練習の繰り返しの向こうにあるもの

2020-07-31 07:47:53 | ヴァイオリン
先日、偶然ヤンキースの田中将大選手のドキュメンタリー番組を見た。

その中で、毎日キャッチボールをする重要性について話していた。
それは、ウォーミングアップであると同時に、重要な基礎訓練となのだそうだ。
この単調な訓練を続けることによって、さまざまなボールを投げられることになる、というような話だった。

まさに、音楽家と共通する話題である。

一流を目指す人間は、どのジャンルでも同じような努力をする訳だ。

問題は、一流を目指さない人間を教える時だ。私が教える対象は、ほとんど一流を目指さない方々なので、その皆さんに、このような単調な訓練をさせるのは至難の技である。

いや、至難の技ではないかもしれない。指示するだけなら誰でもできる。
一流を目指さない方々は、訓練も徹底しないのが普通である。

訓練しないでも、できたような「錯覚」を与えられると、教師としての評価は上がるかもしれない。しかし、これはとても難しい。

やはり、一流を目指さない方々には楽しんで訓練してもらうのが良いのだと思う。これも実際にはとても難しい。

そこで、やはり「楽しいエチュード」の出番、なのだろうか。

この方法、楽しいかもしれないけど、効率はとても悪い。単調な訓練をした方が、確実に上達は早い。

でも、それはそう思ってくれた場合の話だ。
単調な訓練は、大抵永続きしない。なので「楽しいエチュード」の方が結果的には上達するのかもしれない。

しかし、楽しいエチュード、作るのは大変である。

それで今、ベリオ、ローデ、シュポアの協奏曲を見直している。
これは人によって「楽しいエチュード」になるかもしれないから。
(私自身は音階、アルペジオの訓練の方が好きだったけど。)

現在数人にお試し中のエチュード協奏曲、果たして成果はいかに❗️

クロイツェルを称えつつ、それに代わる新エチュードを……

2020-07-17 07:50:30 | ヴァイオリン
今年、惜しくも亡くなられたピアノの多喜靖美先生は、ピアノの練習曲に独自のオブリガートをつけて、アンサンブルの学習曲をいくつも作っていらした。
「ヴァイオリンも作ればいい……」
と言われ、そうか……と、考え続けたのだが、それから数年経過してしまった。

ヴァイオリンの練習曲は、正直言って面白くない曲が多い。これにオブリガートをつければ、ひょっとしたらすごく美しい曲に豹変するかも、と夢見て、いろいろと試みてはみたのである。

しかし、いくつかはまあまあの域に到達したのだが、これをレッスン中に弾くと、生徒さんが何をやっているのか、よくわからない、という事態を引き起こし、レッスンの邪魔でしかない、これでは本末転倒である。

そして、ある時気づいた。
そうか、逆をやれば良いかもしれない。

古今の名曲を練習曲にして、二重奏に仕上げるのである。

練習曲に伴奏をつけるアイディアは、実はかなり昔からある。名教師達はピアノ伴奏をしながら、ドント等のエチュードをレッスンしていた、との論文も出ている(緒方恵)し、私の先生もクロイツェルにピアノ伴奏をつけてくれていた。

しかし、ヴァイオリンのレッスンの場合は、やはりヴァイオリン伴奏の方が何かと都合が良い。

そして、二重奏前提なら練習曲にあまり旋律要素を持たせなくても良さそうだ。

という次第で、クロイツェルのエチュードを下敷きにして、名曲エチュードをいくつか作ってみた。

これは楽しい、ともっぱら一人で悦に入っている。

第1作目はクロイツェル9番の代わりの「指を速く動かすためのエチュード」。
下敷きはフォーレのレクイエムから《イン・パラディズム》。
さあ、何人天国へ送れるかな……。