受けてきた教育、巡りあった先生方が、どれもどなたも伝統的でオーソドックスな方法をまずは学ぶべし、というものだったので、それ以外のことはあまり考えずにここまでやってきた。
しかし世間はそうでもない。
あるコンクール(未成年対象)で、一度出た評価に異を唱えた審査員がいたのだ。
「本当に皆さんそう思っているか確認してほしい」とその方はおっしゃった。
コンクールでこれをやり出すと結論は出なくなりかねないので、このようなことは滅多に起きない。起こしてはいけないかもしれない。
が、場が収まらなかったので、結果に賛同するか改めて採決をしたのである。
結果は変わらなかった。やはり皆さん本当にそう思って採点していた訳だ。
しかし、私は異を唱えた審査員の方に賛同した。なぜならば、問題になった演奏は「とても面白い」けど「非オーソドックス」だったからだ。
「とても面白い」ことで評価を受けた子どもは、その後どうなるだろうか。
毎回「とても面白い」演奏ができれば良いだろう。そういう人はホロヴィッツやギトリスになれるタイプであろう。しかし、そういう人はもともと子供のコンクールなど受けてこないように思う。
大抵は「変わっている」だけで、大して面白くもない演奏をするのである。
当然評価もされない。
その子どもは思うだろう「あの時は評価されたのに……」
ここで「あの時の評価」が一過性のもので、それ以上のものではない、と判断できるならば、大物の可能性がある。
しかし大抵はそうならない。どんどん変な方向に行くか、挫折感を味わって止めてしまうかが多い。
これを一言で言ったら「あの時の評価に潰された」となるだろう。
本来の評価は「ここがこういう理由で良かった、一方こちらはこの理由で改善するともっと良い」というものだろう。
しかしコンクールの場合、それはちょっとできない。講評用紙である程度補える場合もあるが、それがないコンクールもある。これは仕方ない。そういうものだ。
だとしたら「非オーソドックスな演奏」を評価するべきではない、というのが持論である。