井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

ヤン・クレンツとイヴリー・ギトリス

2020-12-27 22:35:42 | 音楽
ヤン・クレンツというポーランドの指揮者が今秋亡くなった。

私にとっては素晴らしい指揮者だったのだが、周囲の人間が大して注目しなかったので、ずっと心の中で生きていた方だった。

まだ学生だったのだけど、読売日本交響楽団のエキストラ奏者に呼んでもらえた時期の話である。
当時読響では「名曲シリーズ」という定期的公演があり、そこに呼ばれ始めた頃、事務局の間違いでダブルブッキングされたことがある。(1982年の10月だったような記憶がある。もしくは1983年。)
席に座ろうとしたら別の人が座っていて、どういうことだろうと思ったら、結局私を間違って呼んでしまった結果、となった。

「ゴメーン」と言われて、代わりにすぐ頼まれたのが、翌月の定期演奏会だった。

毎月の自主公演は当時「定期」と「名曲」の二本立てだったが、その後定期演奏会に呼ばれたのは一回しかないことを考えると、定期の方のエキストラが格上、という扱いだったのだろうと思う。

それで乗れた演奏会がヤン・クレンツ指揮のもの。これにはおまけがあって、大阪公演も翌日に付いていた。初めて行った(当時の)大阪フェスティバルホールでも演奏した。

しかも、エキストラはコンチェルトの時は降り番なので、コンチェルトはゲネプロの時に客席で聴ける。(当時、N響のみ、コンチェルト時に楽員が降り番で、大抵のオケはエキストラが降り番だった。)

さらに、ソリストは当時ものすごい話題になったイヴリー・ギトリス。この3年前までは、なぜか日本では全く無名のギトリス。それが50代で名人芸を披露するヴァイオリニストとして日本デビューした時は衝撃だった。レコードをあまり買わない私でも数枚買ったくらいだし、演奏会にもいくつか行った。

そのギトリスが、世にも珍しいモーツァルトの5番を弾いてくれたのは二度と忘れない。吉田秀和風に表現するなら「一音めをノンビブラートでデクレッシェンドし、2音めをモルトビブラートでクレッシェンドする演奏を、私はほかに聞いたことがない。」

正直言って、できれば別の曲を聞きたかったが、それは贅沢というものだ。

さて、クレンツである。

曲はバルトークの《管弦楽のための協奏曲》、いわゆるオケコン。

これが、無駄がなくてすっきり明快な音楽にしあがって、私はとても感激していた。

ところが、読響の好みには合わないのか、ほかの楽員の皆様は淡々としたものだった(ように思えた)。当時の読響はフリューベック・デ・ブルゴスのとかハインツ・レークナーのようにオケを疲労させる指揮者だと燃え上がる団体だった(ような気がする)。

そうか、みなさんあまり好みでないのか、と私は一人胸の奥にしまいこまれ、時々思い出しては「良かったなあ」と思いにふける対象になっていた。

アンコール曲はモーツァルトの交響曲第39番のメヌエット。これを最初だけ指揮すると、途中で退場してしまい、オケだけが演奏を続けるのである。
この演奏がまた何とも生き生きとしていて「粋だなぁ」と思ってしまう。(指揮者がいなくなるスタイルは何度か真似させてもらった。)

クレンツとギトリス、どちらも一期一会だが、私の心に深く刻まれた経験である。

FM番組でクレンツの逝去を知って、感慨にふけっていた時に、ギトリスの訃報にも接した。
御両名の冥福を祈ります。

「燃えた花嫁」と「キャッスル」

2020-12-11 20:57:02 | 日記・エッセイ・コラム
10年前は韓ドラばかり、ひっきり無しに放送していたBS民放、数年前からミステリー物、サスペンス物の2時間ドラマ再放送に移り変わっている。私にとっては良い傾向である。

と言って、普段は全くテレビは見ない(ようにしている)のだが、時々親元に行くとテレビがついているので、どうしても見てしまう。

そして、やはり警察物のドラマを見てしまう。それは、もともとミステリーが好きなこともあるが、それ以上に日本の風俗の変化を確かめるのがとても面白いからでもある。

そこに山村紅葉という女優さんが頻繁に登場する。大して素晴らしい演技をしている感じは正直言ってしないのだが、私と同世代なので応援したいと思う。

その山村紅葉さんのデビュー作が「燃えた花嫁」と、その後知って、俄然応援する気になったのは確か。

それは、この「燃えた花嫁」のロケの一部が「キャッスル」で行われたからに他ならない。

東京芸大が何故か京都大学になって、そこの学生食堂という設定。
小食堂と呼んでいたスペースの隅に座ったのは、田村正和、藤吉久美子、坂上二郎のお三方。

「田村正和が来てるっ!」という噂が練習室の廊下を駆けめぐり、「エーッ」と駆けつけるバカは当時の私。

行くと三重くらいの人垣が。

「あんな飲み物、見たことがない」と内緒話をする学生達。フルーツ片の載ったジュースなんて、今考えても学生食堂らしくない。運ぶウェイトレスはエキストラさんと思われる人で、キャッスルのスタッフではなかった。

学生も、そんなに暇ではないので、入れ替り立ち替り見物をしているから、粘っていると、しっかり見ることができた。

それで私は、藤吉久美子さんをナマで見ると、こんなに綺麗な人なんだ、とひたすら見とれていたのだが、大半は田村正和に大騒ぎだった。

今でも付き合いのある作曲家、同級生のY氏は「田村正和のサインもらっちゃった」とはしゃいでいたのも思い出す。

一方、通りがかりの調律係の職員さん、「誰が来てるの?」「田村正和ですよ」「それ誰?」
という人もいた。

「あ、坂上二郎もいます。」
「ああ、坂上二郎ね。」

この瞬間、故坂上二郎氏の偉大さを思い知ったのであった。

あの時代、坂上二郎を知らない人はいなかったと思うが、それも今は昔の物語、なのだろうなぁ……。

「キャッスル」のレモン戦争

2020-12-06 22:16:58 | 日記・エッセイ・コラム
私の10年上は「全共闘世代」と言われる人達で、大学に行くと「我々ワァー」とメガホンを持ちながら叫んでいた。

ちなみに、大学の教室の椅子と机が固定されたのは、学生紛争の反省からきているそうだ。全共闘世代は、教室の椅子と机で「バリケード」を作って戦っていたのだそうで。

東大の安田講堂で派手な騒ぎがあった頃、そこから20分ほど歩いた場所にある東京芸術大学では学生紛争はあったのか。

美術学部を中心に(比較的地味に)あったそうだ。武蔵野美術大学や多摩美術大学の学生が応援にかけつけたが、そこで東京芸大生のエリート意識が出てしまい、中心になるべき闘争以外のところで後味の悪いものだった、という美術学部の職員の証言を記憶している。

多分その頃の話だと思うのだが、キャッスルの「レモン水」が値上げをする、それで学生と「闘争」になった、という伝説を聞いたことがある。

1杯20円か25円のものが30円になる、それはけしからん!ということで、キャッスルVS音校生で「戦争」になったらしい。

今聞くと、それがなぜ戦争にまで発展するのかわからないし、そうだとしても実にのどかなほほえましい話、当時の言葉で表現すれば、とても「カワユイ」話である。

で、その攻防たるや、レモンをどれだけ薄く切ったらレモン水ができるか、学生とキャッスルスタッフで大実験をやったそうだ。

そして、少し薄く切ったら値上げせずにレモン水を作れる、という実験結果が出たのだが、キャッスルのマスターが、涙ながらに、
「でも、値上げしないとやっていけないんです」
と訴え、幕切れになった、という話。

たかがレモン水に、これだけ熱意を傾けた先輩のエネルギーには敬服する。

しかし、こんな学生を相手に営業してくれたキャッスルの皆さんにも頭が下がる。

今から振り返ると、このように「どうでも良いこと」に一所懸命情熱を注いだ、昭和の青年達の話であった。