井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

つばめ族復活か?

2010-05-31 00:53:07 | まち歩き

約20年前、福岡市内の繁華街、天神地区には「つばめ族」「かもめ族」と言われる人々が歩いていた。鹿児島本線を走る特急つばめ、長崎本線を走る特急かもめ、それらに乗って、鹿児島、熊本、長崎、佐賀の人たちが福岡まで出かけ、またそれらに乗って帰っていく。その、日帰り集団を指して「つばめ族」「かもめ族」と(マスコミが)呼んだのであった。

その後、バブルが崩壊し、自然消滅したような感がある。これは、福岡にいるとそう思うだけで、実は意図的に撲滅、駆逐、(何だか悪い言葉しか出てこないな)させられたと言えるだろう。

九州のあちらこちらに大規模な商業施設が建てられたのであった。特にJR九州は、小倉と長崎と鹿児島に「アミュ」という施設を作った。これが結構すごい。特に鹿児島は、その名も「アミュラン」という観覧車まで作ってしまった。こんなものを作るのは大阪だけだと思っていた。しかも大阪のは駅近くに観覧車があるのに対し、こちらは駅ビルそのものに作ったのである。

長崎も最近街中に観覧車ができたが、これは長崎バスの本社ビル、駅とはちょっと離れている。しかし長崎ですごいのは建物そのものではない。アミュのほかにも「夢彩都」など、駅周辺に施設が次々にできた時のキャッチ・フレーズである。

【ストップ・ザ天神】

このフレーズがあちらこちらのポスターで躍っていた。市内を走る路面電車の中吊り広告にも「ストップ・ザ天神」である。

<長崎の皆様へ>

この話を長崎県外ですると、例外なしに笑いが起こります。ご承知おきを・・・。

ものの見事に功を奏して、かもめ族は撃退されたのであった。

一方のつばめ族は大半が熊本県人と言われていた。熊本は特急で80分、バスでも2時間、それに対し鹿児島は特急で5時間程度かかるのだから、そう多くの人がくるはずはない。

ところが6年前、九州新幹線が部分開通してから、少しずつ変化がおき始めた。何せ最速で2時間20分で鹿児島-福岡を行き来できるようになったのだ。

加えて、週末限定の「つばめ2枚きっぷ」というものが数年前から発売されるようになった。朝の6時台の数本と終電近くの数本限定にのみ乗れるきっぷで、値段が1万円。来年、九州新幹線が全通すると多分このきっぷはなくなるだろうから、1万円で往復できるのは今のうち、という訳で、私も時々利用させてもらっている。

それでも、福岡からの利用者は少なく、大抵ガラガラだ。その認識でいたら、鹿児島の方から「きっぷが取れない時がある」という話を最近きいて仰天した。

どうも、鹿児島ではかなりの人気らしい。早朝の新幹線なのに満席のこともよくあるのだそうだ。鹿児島の「つばめ族」の台頭である。鹿児島のアミュ、いつもかなりの人手で賑わっているのだが、福岡に出かけたい人は、どうやら後を絶たない、ということであろう。

さあ、いつまで続くか?新幹線全通と同時に安いきっぷは無くなるはずだ。それと同時に「つばめ族」も消えたりして・・・。


ソリテア@龍国寺音楽会

2010-05-27 21:18:20 | 井財野作品

福岡市の西にある糸島市、その一角にある龍国寺で5月16日、第2回目の音楽会が開かれた。

そこで拙作、独奏コントラバスのための「ソリテア」が演奏されるため、招待されて伺った。

プログラムは、

・シェーベリー:トゥーネナ

・デュポール:エチュード第8番

・J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第6番より「サラバンド」「ガヴォット」

・エンリコ・マイナルディ:三つの日本の歌

・井財野友人:独奏コントラバスのための「ソリテア」

・クープラン:コンセール

・ロッシーニ:二重奏曲

演奏者は東京交響楽団の首席チェロ奏者、ベアンテ・ボーマンさんと、元東京交響楽団のコントラバス奏者、西依智子さん。

曹洞宗のお寺のお堂にところ狭しといすが並べられ、仏像の前に舞台が設えられ、その近くには座布団が置かれる、といったオーディトリアム。どれだけ詰め込んでも150名がいいとこだそうだ。壁の反射は期待できず、欄間で遮られる音もあり、かなり制約のある音響条件かもしれなかった。

しかし、キンキラキンの吊りもの(何と呼ぶのか名前を知らない)で雰囲気は豪華、それにも増して満員の聴衆、演奏者と聴衆の作り出す空気は最上のもの、演奏会はこうでなくちゃ、という理想が実現されていた。

万雷の拍手で呼び込まれるせいか、演奏者のお二方ともニコニコして登場する。これが嬉しいし、またお二人ともお話がおもしろい。西依さんは、かつて東京交響楽団の青少年向けコンサートでナレーターを手馴れーたー調子でされていたのを目撃して感服したことがある。ボーマンさんは宣教師でもあるそうで、お説教は本職みたいなものかもしれないが、こちらも日本語で立派にお話をされていた。スウェーデン人だけれど、来日して30年、今や本国より日本での生活が長いとのことで、考えようによっては当然かもしれないけれど、日本語を解しようとしない欧米人もいるから、やはり敬意を抱くのであった。

それで拙作の「ソリテア」。西依さんは最大限の努力をして下さって、これが一番面白かったとおっしゃってくれたお客様もいらしたのはひたすら感謝。しかし作者としては自分の未熟さを見せ付けられたようでもあり、身の縮む思いで会場にたたずんでいたのは確かである。

コントラバスに関しては、まだまだ勉強が足りないから、また勉強しなくては・・・というところ。

それはともかく、演奏者の心意気が聴衆を惹きつけ、互いに幸せな空間を生み出す、といった場に居合わせることができたのは幸いだった。それさえあれば、知らない曲が並んだところで、問題にはあまりならない、ということも再確認した思いで会場をあとにしたのであった。


オーケストラのネーミング

2010-05-24 19:02:42 | オーケストラ

クラシック音楽のオーケストラは通常「管弦楽団」と翻訳される。クラシック音楽以外だと,ただの「楽団」になることが多い。
オペラなどの劇場付随のオーケストラではなく,演奏会専門のオーケストラだということを明示する名称としてシンフォニー・オーケストラというのがある。これは「交響楽団」と訳される。

さらにフィルハーモニーという言い方がある。これは「音楽(ハーモニー)を愛する」という意味だそうだが,歌や舞踊に従属するのではなく,主体的に音楽を奏でたい,という意味がこめられているのだろう。実質はシンフォニー・オーケストラと同じである。フィルハーモニック・オーケストラとかフィルハーモニカーという言い方もあるが,これらはなぜか「フィルハーモニー管弦楽団」と訳されている。

ところが,日本のオーケストラの正式名称は「フィルハーモニー交響楽団」を名乗るところが多い。昔のニューヨーク・フィルが一時的に「ニューヨーク・フィルハーモニック・シンフォニー・オーケストラ」だったが,やがて改称されたから,日本独自の言い回しになっているのではないだろうか。気にしなければどうということはないのだが,変だなぁと思い始めると,やはり妙な感じは否めない。

同じく,大阪シンフォニカー交響楽団というのがあって,これは翻訳すると「大阪交響楽団交響楽団」になるから,という理由で,この4月から「大阪交響楽団」に改称したそうだ。これで混乱も解消。めでたしめでたし。

<以下は40代以上限定の話題>

改称にあたってのあるインタビュー・・・

「・・・シンフォニカー交響楽団だと,交響楽団交響楽団みたいで変ですからね。」

「なるほど。『殿様キングス』と同じですね。」


いい天気になれなれ

2010-05-18 21:20:22 | 大学

筆者の通った中学校には「アナライザー教室」というのがあった。各座席にスイッチがあって、それを押すと、教壇近くに置いてある機械に結果が集約されて、スイッチAを押した者○名、Bを押した者△名、というのが電光掲示板でわかるのであった。

その装置を使う前に必ず試運転がある。

「ではまず、全員Aを押してください。押しましたか?(そうか、こことここは電気がつかないな。球切れかな。)はい、では挙手で・・・」

このアナライザー教室が役に立った記憶は全くない。昭和40年代のハイテクはこの程度のローテクであり、さらにローテクの挙手に及ばなかった。こんなものに税金が投入されたが、誰も文句を言わなかった。世の中全てが、このような中途半端な製品であふれており、それが当たり前、そのような中途半端な製品を作り、買うことで社会が成り立っていたのだから、文句を言う筋合いではない。

今日の会議で、それを思い起こさせる機械が披露された。ソクラテック・ナノという。21世紀は、まず無線である。端末がカードになっていてボタンが6個。それを押すと電波がコントローラへ飛び、コントローラにつながるパソコンで集計され、結果はスクリーンに映し出される。

元々は授業で使うために購入されたのだが、数ヵ月後には教授会にも導入されて、投票に代わる集計マシンとして使われるそうだ。空中都市008の世界だなぁ。

それに先立って、まず試運転である。二択や四択の設問が用意されていた。クイズ高校選手権の問題から持ってきたそうで・・・。大学の先生の会議の席上であるから、淡々と、目はランランと。

「シーザーサラダはシーザーさんが作った。」(これは正しいそうだ。)

「ホワイトハウスに初めて住んだのはワシントン。」(これは間違い。建設が間に合わなかったとかで最初に住んだのはジョン・アダムズ。)

こんな気楽な会議ばかりだったら楽しいんだけど、なんて思っていたら問題発生。

「電話の天気予報サービスの番号117は、いい天気になれなれからきている。」

ちよっとたんま。大学の先生は、一般には全く気にしないことを取り上げては問題にしてみせるのが特徴である。今回問題視したのは、何を隠そう、筆者自身である。

「時報が117で、天気予報は177じゃないですか?」

集計がストップした。議事進行係の職員が、

「ああこれ、コピーペーストで持ってきたもので・・・」

ところが、それで終わってしまった。フォロワーが全くいない。皆さん再び淡々とボタンを押し始めた。近くに座っていた技術科の先生がボソッと、

「いい天気になれなれだから177かもしれないな・・・」

ちょっと待ってよ皆さん。117と177の区別も知らんとね!元電電公社の家族達は、幼少のみぎりから教育されている。「時報はピッ、ピッと鳴る、天気予報は、天気になれなれ。」技術科の先生が知らないとなれば、あとは推して知るべしだが。

これ、電話帳の最初の方にも書いてあったんだよ、といきり立っても始まらない。

そのうち、哀しみが訪れてきた。筆者でも天気予報はテレビか携帯電話のサイトしかみなくなっている。(でも時計合わせは117だが。)これだけ電話離れが起きているということ、時代の流れというものなのだなと、しみじみ感じない訳にはいかなかった。

ちょっと前にプッシュホンの計算サービスが終了した。筆者も使ったことがない。存在さえ知らない人がいてもおかしくない。(でも、これ夢があったんですよ。うちの電話が巨大コンピュータにつながって計算やってくれるってね。)

117と177、ともに長生きしてほしいなあ、と思わずにはいられなかった。


響きを作る

2010-05-13 00:29:43 | オーケストラ

オーケストラの楽器において「オーケストラで演奏する時とソロで演奏する時,演奏法が違う」という考え方には抵抗がある。基本的に同じ技術を用いており,同じ習練を積まなければならないはずだから。

でも,実際には時々違うことがある。例えば,ソロでは全く使えない弱音もアンサンブルでは有用である。他にも探せばいろいろ出てくることだろう。

過日,あるオーケストラの練習を見ていて愕然ときたことがあった。ヴァイオリンが一斉に伴奏音型の8分音符を弾くところ,ほぼ全員が自分で響きを「止め」ながら弾いていた。これは恐ろしく貧しい音がする。
その演奏者には音楽の専門教育を受けた人間もかなり含まれていたのみならず,私が教えたはずの人々も何人もはいっていて,そのような弾き方をしていたことにショックを受けたのである。

ソロ曲で,そのような伴奏音型は出てこないから,チェックができなかったかもしれない。でも,私自身その技術をレッスンで覚えた記憶はなく,オーケストラを弾いている時,様々な指揮者が要求する中で覚えてきたような気がする。

だが一方,田中千香士先生からはオーケストラ奏法のチェックも受けていたことを思い出す。
「レッスンの時は,まあ良くなったけど,オケの時,相変わらずあんな弾き方をしていちゃダメ。」
などと言われたなぁ。私も時々,オーケストラでの奏法チェックをせねばならない,ということか・・・。

率直に言って,残響の多い会場では気にならないが,そのような場所で常に演奏できる訳ではないので,演奏者が作り出す響きというものに注意を払う必要は恒常的に生じる。

具体的には,音を切る(出すのを止める)時,弓を止めてしまうのではなく「止まる」,あるいは音がでないけれど,少し弓を動かしたまま余韻を作るような弾き方ができると,あの貧しい響きが豊かに変じるはずだ。

「オートマチックの車のブレーキを踏んだまま止まるとガックンとくるでしょ?でも直前にブレーキをゆるめるとスッと止まるじゃない。あの感じ。」

と,話すことができた演奏者には説明してみた。

で,その後の演奏を観察したのだが・・・相変わらずガックン,と弾いていた。

一朝一夕でできることではないかもしれない。でも10年ヴァイオリンを弾いていて,気づかない,できないという現実は,由々しき事態であろう。

「まあこんなことは,ヴァイオリンの技法書にはどこにも書いてないしな」と,一旦思ったものの,念のためガラミアンの本をのぞくと・・・ある・・・(-.-;)

「デタッシェ・ポルテ détaché porté」始めにこころもち大きな音を出し,徐々に音を軽くしていくもの。アクセントをつけるのではなく,音符の出だしにおいて注意深く選んだ圧力と速度を加えることによって弦の中へいくぶん食い込んでいくようにして弾くのである。

さすがはガラミアン,お見それしました。

ついでに,例としてプロコフィエフの協奏曲第2番第1楽章が挙げられていた。今年の学生音コン,高校生の課題曲だ。通常のデタッシェとデタッシェ・ポルテの交替の例だが,いわゆる「地味な難しさ」の典型である。そして,多分これができたからといって評価が目にみえて上がるということも,あまり期待できない。(振り返るな,審査員席,である。)

オーケストラにおいても「ここは『デタッシェ・ポルテ』で!」などと要求しても,まず通じないだろう。ジュリアード卒業生が多いと思われるニューヨーク・フィルあたりでも「何か懐かしい言葉を聞いたな。なんだっけ?」という反応かもしれない(これは単なる憶測)。

つまり,術語は必ずしも覚えなくとも良い。しかし,響きを自ら作り出すことは常に考えるべきだし,注意を喚起することも常に必要ということだ。そのためにこのデタッシェ・ポルテの練習は必須である。