井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

一つ話すと十の返事

2017-10-19 19:58:46 | 受験・学校
「これは何だろう」
と、先生が何かを問いかけたとする。

するとたちまち10人くらいの児童生徒が「Aだ」「Bだ」「Cだ」と言いだす。

平均的な学校ではあまり起きない現象だが、レベルの高い小中学校では日常的に見る光景である。

ベテランの先生だと、ここを上手にさばくのだが、例えば教育実習生だと往々にしてパニックに陥る。

何も応えられず、児童生徒の側に静かに失望が広がる。
このような状況を何度か見た。

反対に、見事に受け答えて「明日からでも先生として来て下さい」と言われた人も稀にはいた。

十の質問を全て答えるのは不可能だが、不満を残さないには、なるべくいくつかには反応すべきだ。そのために、かなり勉強が必要だ。

勉強すると、話の流れの本質に一番近い質問がどれだかわかってくる。その一つに応えれば、他の人もその流れに乗ってきて、不満は残らないはずなのだが、そこに至るまで先生の修業は続く…。

マジックナンバー3・5・7

2017-10-15 09:33:00 | 日記・エッセイ・コラム
昔から言われていることでもあるが。

何か説明する時にまず「要点は三つあります」と言うと、とても頭が良い印象を与えることができる、とその昔、「頭の体操」で有名になった多湖輝先生の本に書いてあった。

人間は三つのポイントなら理解しやすい。なので、どんな話でも三つにまとめてしまう。そうすると相手に伝わりやすいからだ。

また、ヒトが一度に認識できる対象は3、5、7のいずれかだと、昔のテレビ番組で紹介されていた。4とか6をいっぺんに把握するのは難しいのだそうだ。これを称して「マジックナンバー」という。

そんなことを思い出したのは、ヴァイオリンを練習するのを観察していた時。
よく「10回繰り返して」とか、深い考え無しに言ってしまったりする。一流の人々も10回、20回の繰り返しは当たり前だから、単なる一つの目安でそう言ったりするのだが、つぶさに観察すると5回め、あるいは7回めでできることが多いようなのだ。

なので、最初から7回繰り返すつもりで練習して、それでできなければ一旦やめた方が効率的かもしれない、と思った。

東京五輪音頭2020

2017-10-13 07:42:00 | 音楽
1964年の東京オリンピックのために作られた曲が、リニューアルして再度使われるのだそうだ。

やはり日本人は「音頭」が好き、を確認してちょっと安心。

しかし、五輪音頭を超える新曲は生まれない、という現実にちょっとがっかり、である。

この約半世紀前の五輪音頭、私が知ったのは早くても大阪万博より後だ。「世界の国からこんにちは」の前に三波春夫はこんなものも歌っていたんだ、と思ったし、万博の歌より「冴えないな」と思ったものだ。
(そう考えると「世界の国から~」は大変な名曲だ。)

あの東京オリンピックの時、私は2才11カ月。この3才になっているかいないかで、オリンピックの記憶はかなり変わってくる。
私の記憶は、閉会式の時「ほら、聖火が消えるよ。(テレビを)見て見て!」と誰かに言われたくらいしかないのに対し、5月生まれの同級生は、重量挙げの三宅選手の「えいっ」を覚えている。閑話休題。

五輪音頭の少し後になるが、NHKで「ふるさとの歌まつり」という番組があった。そのテーマ曲の作曲者が五輪音頭と同じ古賀政男で、やはり音頭で作られている。ほぼ同工異曲なのだが、私としては「ふるさとの歌まつり」の方が良く出来ているように感じる。

時代は下って1984年のロサンジェルス・オリンピック、J.ウィリアムスのファンファーレには度肝を抜かれた。5分くらいの行進曲になっていた。

その頃のラジオ番組で誰かが「それにひきかえ、日本は音頭。」
こんな古ぼけた代物しか残っていない、みたいな評価もあったのだ。

一方当時の私は、アメリカ人が「ラプソディ・イン・ブルー」ならば日本人は「ラプソディ・イン・オンド」でしょう、と本気で考えていた。

なので、結局五輪はジャパニーズ・スピリッツあふれる「音頭」になったことは、嬉しいと言えば嬉しい。
しかし、世界の度肝を抜くことができないのは寂しい。
安倍マリオの方がすごかったな。

そう言えば、その後で小池都知事が旗を振っていたなあ。

2020年、このお二方の行く末も、ちょっと気になるオリンピックである。

スター誕生はいつ?

2017-10-11 07:08:00 | ヴァイオリン

筆者の学生時代は約30年前、声楽においてテノール人口がとても少なく、日本人はバリトン民族とか何とか言われていたものだ。芸大の受験者もバスの方がテノールより多かった。


それが20年ほど前になると、テノールの受験者が激増したのだ。一挙に日本人の声が甲高くなった・・・はずはない。


芸大の先生曰く「三大テノールの影響」


ちょっと高い声が出る男どもが、我も我もと受験に参加したようなのだ。






さて、10年ちょっと前、少子化の波に逆行して、コンクールのヴァイオリン受験者が増えていった頃があった。比例して芸大のヴァイオリン受験者も多かった。


芸大の先生に伺った「ハカセの影響ですか?」


芸大の先生曰く「そう・・・かな・・・?」


かなり歯切れの悪い返事だった。






ところで数年前から、東京芸大が直接子供の教育に乗り出し始めた。


「あんなの、私学いじめよ!」と私学関係者の大御所が言ったら、


「いえ、そういうことではなく・・・」と芸大関係者。


ここのところ東京芸大も受験者が激減し、すでに邦楽科は定員割れを起こし始めた。


この受験者の減るペースは少子化のペースよりも激しいそうで、そこに東京芸大は危機感を持ったとのこと。なので、とにかく音楽に関心を持ってもらう子供を増やそう、というのがまず第一義なのだそうだ。


もっともらしい説明で、嘘ではないと思うけと、筆者としては、ついにバブルがはじけたか、という感じが強い。


つまり少子化が始まっていたにも関わらず、ヴァイオリンの受験者が増えていたのは「バブル」だと思うのだ。


名付けてハカセ・バブル。


筆者は幸か不幸か、太郎氏とは入れ違いだったので面識はないけれど、ということはちょっと下からずっと下の人まで、太郎氏と面識がある年代がいる、ということになる。


その年代の皆さんと芸大の教員の皆さん、ほとんどが、このハカセ・バブルを認めないような気がする。(特に太郎氏より年上の皆さんは。)


でも、ほとんどの皆さんは、このハカセ・バブルの恩恵を被っているはずだ。受験者が多いのはもとより、筆者でさえ「情熱大陸」を弾いたことがある。パガニーニが弾けなくても情熱大陸さえ弾ければ、大ウケ間違いなし!だったでしょう?


全日本学生音楽コンクールの全国大会のプログラムには、出場者全員「共演したいアーティスト」を書く欄がある。旧聞で申し訳ないが、3年前にはここに太郎氏の名前が3回も書いてあるのだ。3回も出てくるのはあと小澤征爾のみ。(ちなみに最多は5人の佐渡裕。)


スターが出てくれば、そのジャンルが盛り上がるのが常識だ。野球やサッカーはコンスタントにスターがいるし、愛ちゃんが出てくれば卓球に、ヤワラちゃんが出てくれば柔道に、と日本人は動いてきた。


そして太郎氏は20年以上、ヴァイオリン界を盛り上げてくれた訳だ。すばらしいことである。


もちろん今からもずっと盛り上げてもらいたい。一方で20代30代の中からドクター次郎とかマスター三郎とか出てきてくれないのだろうか。東京芸大が子供育成に手を出すより、はるかに効果があると思うのだけれど・・・。


作品の解釈は作曲者の死後始まる?か②

2017-10-09 19:32:00 | 音楽
もう少し詳しい説明が必要かもしれない。

楽譜を全く読まないで歌うのは不可能。
推測であり感覚的だが、楽譜を8割くらい読むと、大まかなことはわかる。そこで「あとは歌いながら読めば良いだろう」と、歌う方に努力をかたむける。

確かにこれで9割程度楽譜を読めたところに達するだろう。

しかし、残りの1割に、見落としたニュアンス等々があって、それをコレペティトールから指摘され「凄い」と言っているのではなかろうか。

と、これは若手のお話。

ベテラン、つまり團先生の指揮で直接歌った方まで同じように「凄い」と言われると、ことはそれほど単純ではなくなる。

様々なことを考えたのだが、結論はこうだ。

作曲者が目の前にいれば、楽譜の細かいところなど読まなくとも、直接尋ねれば良いのである。作曲者だって、譜面に書ききれなかったこともあるだろうし、譜面と少し違っていても「それはそれでいいか」と作曲者が思えばそこまでだ。

となると、作曲者がお亡くなりになって尋ねようがなくなった時、初めて本格的に楽譜の「解釈」というものがスタートするのだろうか、と思ったのである。

ベテランの場合は、作曲者存命中のスタンスから抜けきれないゆえに、最終的に「コレペティ凄い」になってしまうのかな、と思った次第である。