井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

無表情な子供の演奏

2010-08-29 00:10:15 | ヴァイオリン

例えば「キラキラ星」を弾くのに、特段の表情を要求されることはない。しかし、ヴィヴァルディの協奏曲、ダンクラのエア・バリエなどを弾くようになると、さすがに考えさせられる。このあたりで、なぜか大変豊かな表情で弾く子供と「キラキラ星」から一貫した態度で弾く子供に分かれてくるからだ。

豊かな表情も曲者で、「大人に気に入られるにはこうすれば良い」との発想で、感じたふりをしている子供の演奏もある。夏休みの宿題の代名詞である「読書感想文」で見られるのと同じ現象だ。「読書乾燥文」と揶揄した人がいたが、当人は全く感じていないものの、大人にこういうことを言ったり書いたりすると「受ける」ことを素早く読み取る能力の持ち主は結構いるものだ。でも、その嘘つき状態は、いつか終焉の時がある。その時、本当の自分がわからなくて右往左往してしまう。なので、感じたふりの演奏よりは無表情でも正確な演奏の方がましだと筆者は思う。

無表情の原因にヴィブラートがあるのではないか、という考え方にも至りやすい。確かに、このあたりで、かけられる子供とかけられない子供がいる。かけられる子供は1年目からかけられる。これが一見「歌って」聞こえるのも確かだ。でも、よく観察すると、そうでもないことがわかるケースが大半である。

筆者自身は第4ポジションを使えるようになってからヴィブラートを教えることにしている。それまではノン・ヴィブラートで構わない。それ以前にかけられるようになった子供はそのままにしておく。敢えて禁止するものでもない。(ちなみに筆者は大学で初めてヴィブラートのかけ方を教わった。ヴァイオリン界とはそのようなところだ。)

表情は、ヴィブラートだけで表現されるものではない。

筆者自身、大学に入って早々、田中千香士先生から表情の乏しさを指摘された。その時もヴィブラートに原因があるかもしれないということから「腕のヴィブラート」を習った。しかしその後に一言「でも、クラリネットはノン・ヴィブラートだよなあ」

救いになったのは、大学4年から師事したM先生の言葉。

「何にも言われないでも、歌っちゃう人っているのね。生まれつきできちゃう人ね。でも、前もって計算して準備して演奏すると、それを上回る説得力を持つことができるの。」

その準備の方法を必死になって吸収しようと努めた。でもそれには20代の時間全てが必要だった。筆者にとってはそのくらい大変なことだったのである。だから子供の無表情は当たり前田のクラッカー。

なぜそんなに表情の獲得が大変か?

それは、私たちが日本人だから、という一点に収れんされる。

演奏するのは西洋の曲なので、西洋人の考え方で構築しないと、妙なものができあがる。そんなこと簡単にできる訳がない。

これを解決するには、表面的で構わないから、とにかく西洋流の型を理解することだろう。そのポイントは「発音の仕方」と「リズム」。

発音は、はっきりと。基本的にはアタックの後でふくらまないこと。

リズムは以前に書いた「拍子と緩急アクセント」のことと同じである。

場合によっては、すぐできるかもしれないし、気が遠くなるほどの時間がいるかもしれない。これは気長にやっていただくしかないと思う。

一方で、全く別のアプローチもある。日本の曲をやるのである。「あんたがたどこさ」とか「こもりうた」みたいなものは、全て感性で処理できるはずだ。意外と無表情にはならない演奏に自信を深めることもあるだろう。本当は、日本の曲をたくさんやって、技術を身につけてから、西洋の曲をやるのが、正しい方法だと思うのだが、まだまだ日本の曲の教材がないのである。「白い本」の「春の海」もとばされるのが通常だし・・・。

ちなみに井財野の曲は全て日本語で考えられているので、みなさん感性で弾けます。教材曲も準備中です。早く作らないとね・・・。


なぜゲーム音楽か(1)ジャングル大帝

2010-08-26 21:45:07 | アニメ・コミック・ゲーム

これからは「ゲームを芸術に」、という主張にいたるまで、前記事はプロセスをかなり省略して書いた。ここで、実際は様々なことを思い出していたのである。このプロセス、結構重要な気がしてきた。何があったか・・・。

たまたま最近、手塚治虫の「ジャングル大帝」を手にすることがあった。私はストーリーに対する記憶力が弱いのは自慢したいくらいで、同じ本や漫画を何回でも楽しめるのである。「ジャングル大帝」も何度も読んだ。また読んでみるか、と手にとって数十ページ読んだところで、もう先に進めなかった。パンジャがつかまる、殺される、レオとお母さんが船で連れ去られるが、レオは海へ脱出・・・もうダメ、涙が出そう・・・。

ストーリーだけでも泣けるのだが、漫画を読みながら頭の中では、ある音楽が流れる。もちろん「ジャングル大帝」の音楽、冨田勲の名作である。これはTHE CLASSIC、アニメ音楽でこれ以上のものは全くないと私は言い切りたい。これに比べりゃ、ディズニーなんて問題外、ジブリは論外、それ以外は蚊帳の外、と言いたいくらい。

テーマ音楽は平野忠彦先生が学生時代の、いわゆるアルバイトで歌っている。同級生の間では、平野先生は即、「ジャングル大帝」の先生であった。もうこれは絶対的な存在。同期の声楽科の友人は「長9度の音程をとる時は、いつもジャングル大帝を思い浮かべるんだ」と言っていた。

曲の冒頭から「長9度」!、1オクターヴと2度の跳躍がある旋律、こんなこと誰が考えつきますか、と万人に問いたい。「風と共に去りぬ」(タラのテーマ)、「オズの魔法使い」(虹をこえて)、「ピノキオ」(星に願いを)いずれも1オクターヴの跳躍、これが通常の限界だろう。「ジャングル大帝」は長9度の次に1オクターヴの跳躍、また長9度と続くメロディ。

これだけでも独創的だが、サビの転調がまたたまらない。いきなり同主調の平行調だよ!それを皮切りに遠隔調をいくつも経めぐる。でもメロディはフラットが数個つく程度で、歌いにくさは生じない。つまり一般には、これほど高度な和声処理がされていることは気づかない。

伴奏音型もボレロ調になったり、ミニマル風になったりと芸が細かい。大変な手間暇をかけた結果、大衆を喜ばせ、専門家をうならせる、至高の作品が生まれたことになる。

と、ここまで書いて気づいた。私は手塚治虫のファンだと思っていたが、どうやら「ジャングル大帝」のファンというのが正確なようだ。その証拠に「鉄腕アトム」「火の鳥」「ブラックジャック」、そこまでの思い入れはない。

それは何故か?

やはり音楽の力なのである。冨田勲の音楽の中でも、ベスト3に入る傑作と私は位置づけている。(あとはNHK大河ドラマ「勝海舟」と合唱曲「ともしびを高くかかげて」)

それに比べて今のアニメ映画の音楽の貧しさよ、と言わざるを得ない(おじさんです。)

もちろん、30年経ったら、おじさん達がポケモンを論じる日が来るだろう。その時、音楽が話題になるだろうか。大した話はできないに違いない、と私はみる。それに引き換え「ジャングル大帝」は音楽だけでも、これだけ語れる。これを豊かな文化と言わずして何と言う。

だからと言って、現在「ジャングル大帝」の音楽で騒いでいるのは私だけかもしれない。これは、冨田さんがその後シンセサイザーに入り込んでしまったので、この音楽にあまり執着しなかったし、商売熱心でもなかったからだと思う。(それでも交響詩みたいな音楽物語のアルバムが出て、日本フィルが演奏している。)

その後、商売熱心な方が出てくるのだが、それはまた次回。


ゲームを芸術に

2010-08-23 23:13:01 | アニメ・コミック・ゲーム

東京商工リサーチの調査で2009年度の給与所得上位30位等が発表された。リーマン・ショック以来不景気な話ばかりの昨今、この結果はまさに(サラ)リーマン・ショック。

以下、上位3社の社員平均年齢と平均給与。

1. スクウェア・エニックス・ホールディングス 41.2才 1780万円

2. フジ・メディア・ホールディングス 44.3才 1452万円

3. MS&ADインシュアランスグループ・ホールディングス 46.6才 1422万円

以下、三菱ケミカル、TBS、スカパー、住友商事、三菱商事、三井住友FG、東京海上HDと続く。

東京の民放キー局は全て30位以内、NHKはいない。金融機関も案外少ない。もちろん、持ち株会社が多い。これらの会社には若い新入社員はいないから、例えば新入社員いっぱいの普通の銀行と直接比較にはならない。

で、問題は1位がゲーム会社ということ。

話は跳ぶが、現在放送中の「ゲゲゲの女房」を観ていると、3、40年前の漫画界の活気と熱気がわかる。同時に、学校で「漫画なんか読むな!」と度々言われた記憶がよみがえる。でも、このドラマを観ると、実に真摯に漫画に取り組んでいることが伝わってくる。その甲斐あって?今や国立マンガ図書館を作ろうかなどというご時世になっている。大体、今になってわかるのだが、みんな漫画は読んでいたのである。学校の成績とは無関係だったことも、ここで論ずるまでもない。

そして、この漫画に相当するものが、今は「ゲーム」と言わざるを得ないのではないだろうか。

正直言って、子供たちがゲームに熱中している姿には辟易としている。しかしこのご時世、高給取りが嫌いだと言える親がどれだけいるだろうか?

それならば、ゲームが芸術にまで昇華するべく、全てが動いていくことを考えたいものだ。

具体的には、ゲーム音楽はまだまだ貧しい。ドラクエのすぎやまこういち氏のように良心的なものは、なかなか少ない。ポケモンにJ.ウィリアムス並の音楽がついていればハリウッドを凌駕できる。そうすると音楽は独立して発展し、20世紀後半の映画音楽、百年前のバレエ音楽の地位に位置づけられる。白鳥の湖やスターウォーズと同様、万人が音楽だけでも楽しもうよ、ということが期待できるのに、残念である。

実は、福岡のゲーム会社と共に現代音楽祭を今年開く計画があった。だが、ゲーム会社の認識が低く、ゲームを芸術になどという発想そのものに理解を得られなかったようである。これもつくづく残念である。井財野もゲーム音楽を作ってみたいなぁ。


日本のこれから

2010-08-14 23:51:32 | テレビ番組

毎回、テーマが大きすぎて、この時間内には入りきれないことを討論するこの番組が、結構好きである。しかし、そうは言っても長時間番組なので、なかなか観ることはできない。今日は久々に観ることができた。日韓併合から100年、ということで日韓関係がテーマだった。

絶対、平行線をたどる、と思っていたのだが、考えていたほどではなく、個人的には「あ、やはり韓国とは仲良くしておく方が良い」という結論に達した。

番組では同時通訳の方々も活躍されていたが、実は両国にとって一番同時通訳がしやすい言語、それは日本語にとっては韓国語、韓国語にとっては日本語だ。もう一つモンゴル語というのもあるのだが、メリットを考えると日韓がはるかに凌駕している。

番組中に小倉先生が発言されていたが、基準になる哲学・思想のようなものの共通理解が必要だとのこと。これも儒教文化をベースに考えると、それほど大変ではないのでは、と思えてくる。

日韓の考え方の違いも紹介されていたが、西日本の考え方はやや韓国寄りだし、九州はもっと近いかもしれないと思った。

注意すべきは元補佐官の岡本氏の発言。10年後、20年後、中国が発展した結果、私たちはどうなるか、ということ。

中国もアジア、欧米人よりは話が通じ易いところはある。しかし、先ほどの同時通訳で考えても、中国語は語順が違うから、その段階で既に韓国語と同列ではない。

思想、哲学、全て言語がベースにある概念だから、これは大きい。換言すれば、日本のことを一番理解してもらえるのは韓国人か、ということも頭をよぎる。

それで思い出したことがあった。先日、鹿児島で京セラの社員の方から伺った話である。

鹿児島には京セラの工場がいくつかあって、24時間体制で稼働しているそうだ。その中で夜間のシフト、これが時給が千数百円あるとかで、毎日働くと、月20万くらいの収入になるという。

今は、中国やインドに安い労働力を求めて工場を海外へ移すのが主流だと思うのだけれど、そういうことは考えないのか伺うと、当然それはやっているとのこと。むしろ生産高はそちらの方が大きいが、日本が空洞化しないために、敢えて国内にもそのような工場を経営しているのだそうだ。

この話を感銘深く聞いた。さすがだと思った。このような企業が日本にあるうちは希望が持てる。日本のこれから、不安材料は山のようにあるが、まだまだ底力がある。それを活かして明日を考えたいものだ。


楽章間は拍手しても良いことにしよう!

2010-08-10 19:27:32 | 音楽
先日のテレビ番組で,クラシック音楽の聞き方の一つとして,楽章間では拍手をしない,ということが解説されていた。曰く,コース料理でいちいち「ごちそうさま」と言っているようなものだ,と。

大筋において正しいし,筆者もそのように説明していたのであるが,最近(と言っても10年ちょっと前から)少々疑問も持つようになった。なぜならば,昔は拍手をしていたはずだから,である。

ベートーヴェン時代は,楽章間にオペラのアリアをはさんで,また元の曲に戻るなどということが,平気で行われていた。これはクラシック音楽史にちょっと詳しい人ならば,誰でも知っていることだろう。そこで拍手が起きないはずはないのである。こんなことを許したくないから,ベートーヴェンは楽章をくっつけて「拍手なんかさせない!」曲を作ったのだ。

続くメンデルスゾーンやシューマンも,何とか拍手をさせない曲を作ってきた歴史もある。
一方で,全く無頓着だったチャイコフスキーなんて人もいるのだが・・・。

では,いつから拍手をしなくなったか?

記録によると20世紀に変わる頃,ベルリンの評論家が,そのような提言をしたらしい。それから,なのである。つまり20世紀の習慣という訳だ。

道理で,と思うことがある。チャイコフスキーのピアノ協奏曲,ヴァイオリン協奏曲,両方ともベルリンで演奏されると,1楽章が終わった時に盛大な拍手が起きることがよくある。つまりベルリンの聴衆は上述の提言を条件付きで受け入れ,「チャイコフスキーだけは従来通りでいきましょう」という態度に出た訳だ・・・(なんて高度なことを考えるかどうかはわからないけれど)

拍手をしたい気持ちを抑えながら聴くのも不自然ではないだろうか。1975年,チェコからヴァーツラフ・フデチェクというヴァイオリニストが来て,ベートーヴェンのスプリング・ソナタを弾いた時のこと。冒頭,ヴァイオリンが主題を弾き終えた瞬間,拍手を始めた人がいた。1小節分くらいで,すぐに止んだものの「ソナタ」の演奏途中で拍手が入ったのを聴いたのは,後にも先にもこれ一回きり。(宮崎市民会館にて)

これはやはり笑い話として扱わざるを得ない。が,一方で,よくぞやったり,という気持ちもある。筆者にしても,その一節を聴いただけで,至福のひとときだったのだから。

「ソナタ」で起きたから珍事なので,演歌からポップスにいたる商業音楽では当たり前,同じクラシックでもオペラやバレエでは珍しくない。

そう考えると,楽章間で拍手しない音楽というのは,かなり特殊であることがわかってくる。その特殊なことをずっと聴衆に強制し続けて,クラシック音楽は生き延びられるのか?

よく考えると20世紀の音楽で,途中で拍手したくなる曲は少ない。シェーンベルクは終了後の拍手も禁じた演奏会を開いたらしいが,禁じられなくても拍手したくなる曲ではなかったかも。

前述のようにベートーヴェンと続く人々の作品は,拍手しないでほしいというメッセージが作品に込められている。そして,もっと遡ると「そんなの関係ねぇ」という時代(ハイドン,モーツァルト等)のものになる。一概に拍手をしないのがいいかどうか,やはり疑問が残る訳だ。

ということで,井財野からの標記の提言は,21世紀の習慣をそろそろ作りませんか,という主旨。言い方変えれば「好きにしたら?」

実は山本直純さんが40年前から提言している。ウェーバーの「舞踏への勧誘」をやると,ワルツが終わったところで,どうしても拍手が起きてしまう。それならそこで指揮者も振り向いてお辞儀をし,またおもむろにコーダを演奏すれば,みんなハッピーではないか,と。

それを予定のこととしてやってしまうと,曲が2曲に分断されてしまうので,それも居心地悪い。しかし,自然に起きた拍手を制止する居心地の悪さと比べてどうなのか,ということだ。

予定通りの拍手というものは,舞台上の人間にとっても,それほど嬉しいものではない。一方,自然に任せた拍手を嫌がる人は基本的にはいないと思うが,どうだろう。ソナタの途中だとさすがに驚くが,少なくとも井財野とすれば悪い気はしない。

いっそのこと,海老一染之助・染太郎のように「いつもより余計にアルペジオを入れております」みたいな拍手ポイントを入れた協奏曲でも作ってみるか。