井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

音源考

2009-06-29 22:24:00 | 音楽

近頃「音源ありませんか?」と、よく聞かれる。所謂録音物のことだ。10年前は「CD(又はMD)」だったし、20年前は「(カセット)テープ」だった。 今は媒体も増えて「音源」、音源本来の意味とニュアンスが違うような気もするが、それは良しとしよう。

私達は、初めての曲を練習する時、録音物を聞いてから練習してはいけない、と育てられた。猿まねになってしまうし、楽譜を読む力も付かないからである。

その後、時代は変わった。参考にすべき録音物が増えたのである。先人の成果を研究するのは、一般的には常識だし、学ぶはマネブ、つまり真似るが語源だから、真似ることが悪かろうはずがない。

ところで、楽譜を読む訓練は、いつするのかい?

あまりにもあっけらかんと「音源ありませんか?」と言ってくる学生達、彼等に罪はないのだが、音源がなかったら何もできないというのでは、そのうち困るのではないか、と思わずにはいられない。

実際、今年の8月には井財野友人の「渡海鳴響」を福岡教育大学管弦楽団が初演する。創立40周年の記念作品だ。練習もかなりしており、おおよそのところは全員把握しているはずだ。

それが、この期に及んで「音源ありませんか」と何人もの学生が尋ねてくる。 自分達の録音ではダメで、お手本がほしいということなのだろう。

初演なのだから、間違ってもわからない。その分気楽にできるし、ある程度自由にやれる喜びがあると、こちらは思う。

全体像でないにせよ、耳にはしているのだから、スコアを眺めれば、頭に理想の音楽が流れてこようってなもんだ。

一般大学を出ても、スコアを雑誌のように読んでしまう人もいるのだから、もうちょっと「音源」などに頼らないで、音楽作りができるようにはならないのかねぇ…。


下手だけれど本物

2009-06-24 08:32:45 | 大学

 大学の「新課程(0免,音楽コース/芸術コース)」において,弦・管楽器を中心に勉強する1~3年生が出演する「学内演奏会」というものがある。中間試験の代わりのようなものだが,曲がりなりにも人前で演奏するので,学生にとっては良い勉強の場となっているはずだ。

 人によってはガクガクにアガってしまう。今回も1年生に一組,アガりまくっていた者がいた。「アガる」のは体験を積むことによって克服することが必要だから,今回のような経験も有効だ。今後,それをどう克服していくかが課題だし,行く末を見守るのも楽しみである。

 逆に,アガりもせず,かといって良い演奏でもなく,という手合いには落胆させられる。

 また,1年生の時に原石の輝きがあって「これはいい!」と思っていた学生が,2年生になっても相変わらず原石の輝きのまま,などという事態が生じると,こちらも焦る。今までの指導に落ち度はなかったか・・・磨いていたつもりが,単になで回していただけだったのか,などと様々な思いが交錯する。

 そのような中で,最後に演奏したクラリネットの学生の演奏が,こちらを元気づけてくれた。

 この学生,入試の演奏は抜群の出来だった。ところが入学してからは,一向に冴えない。たまりかねて「入試の時はスゴく良かったぞ」と言うと,
「あの時は,メッチャ練習しました」
 おいおい,入学したらメッチャ練習はしないのかい?

 一時が万事,その調子で,やる気はどこへ行ったのやら,という状態が1年以上続いたのだった。

 さすがに2年生になると,彼女なりの努力の片鱗は感じるようになった。オーケストラ・プレイが多少できるようになったし,バス・クラリネットの演奏も,あまりいやがらなくなった。
 だが,ソロにおいては,さほどの変化が半年前まで見られなかったのである。

 ところが今回,(前の記事の表現を借りるなら)「本物」に豹変していた。正確に述べるなら,技術的にはまだ稚拙さが残る。ピッチがかなり上がって,ピアノと全く合っていない。これではアンサンブルになっていない。

 しかし,照準はしっかり「本物」の方向を向いていた。いつ変化があったのか,どうやって変化したのか全くわからない。でも,「本物」に近づいていたのは聴いていた学生達にも伝わった。ピッチが全く合っていなかったにも関わらず,一番いい演奏だと思った者もいたほどである。

 彼女は今,オーケストラでは隣に1年生を座らせて吹いている。この1年生も彼女の吹き方に影響を受けて,成長していくことが期待できそうだ。

 この現実はとても嬉しい(私は何もしていないのだが…)。そしてこの状況こそ,私達が目指すべきものだろう。
「下手かもしれないけれど本物」


「拍子」ぬけ

2009-06-20 11:18:42 | コンクール

 続けてさるコンペティションの話。

 部門がピアノ,管・弦楽器,声楽と分かれ,それぞれの専門家が出した点数を参考に,総合評価の審査員が全体から賞を決める,というやり方だった。総合評価を下したのはピアニスト,指揮者,音楽学者,オーケストラ事務局長,元オペラ事務局長といった方々,とても「総合的」な感じがする皆様である。

 トランペットの参加者がいて,短い楽章が4つある曲を吹いた。しかも一つの楽章はフリューゲル・ホルン持ち替えだった。それを管楽器の審査員が二人,弦楽器は私一人,それに総合評価の皆さんで聴いたのである。

 たまたま持ち替えたフリューゲル・ホルンが審査員席から見えにくいところにもあり,さらにたまたま管楽器の審査員が下を向いていた時に持ち替えたとあって,この持ち替えを管楽器の審査員は気づかなかった!
 「あ,この人こんな音もトランペットで出せるんだ,と思ってよく見たらフリューゲル・ホルンだった」と,お二人の先生が口を揃えておっしゃったのである。

 逆に表現すれば,フリューゲル・ホルンからトランペットのような音が出ていた,とも言える。当然のように,この先生方からは低い評価しか引き出せなかった。

 私は持ち替えを見ていたので,フリューゲル・ホルンはこんな音かな,という程度。

 三人共通していたのは,それよりはヴァイオリンの方がまあ上だろう,ということ。

 ところが総合評価の審査員はトランペットを上に評価した。

 考えられる要因は二点。
・トランペットの音量が大きい。
・ヴァイオリンは「拍子」が欠如。

 管・弦楽器の人間としては,なかなか納得のいかないところではある。しかし,技術面にとらわれて,大局的な見方がしばしばできなくなるのも認めざるを得ない。私からして,ピアノや管楽器の学生には,音楽作りのおおもとのところを話すのに対して,ヴァイオリンの学生には弓の持ちかたや左手の使い方に終始していることが多々ある。

 私達としては「拍子ぬけ」,すっきりしない感情を引きずったまま,会場を後にした訳だが,ことほどさように,「拍子」がないとサマにならない,ということだと理解したい。


シベリウス:ヴァイオリン協奏曲

2009-06-16 18:50:29 | ヴァイオリン

 多分,四大ヴァイオリン協奏曲の次に人気のあるものだと思う。欧米だけでなく,日本だけでもなく,韓国人や中国人にも人気の,本当に広く愛されている曲だ。

 この曲に関して,長年ひっかかることがあった。

 一般に,言語と音楽は不可分の関係で,音楽を理解するのに言語の学習は不可欠と言われる。殊にドイツ語圏に留学された方やドイツ音楽に詳しい方は,これを声高に主張されるし,程度の差こそあるが,フランス語圏,イタリア語圏においても,半ば常識的と言っても良いほどの見識である。

 これに異を唱えた,さる高名なピアニストがいらっしゃったのである。仮にピさんとしておこう。ピさんは,文筆活動もされており,何かの著書に「チャイコフスキーの協奏曲を演奏するのにロシア語ができないといけないとは思わない。シベリウスのヴァイオリン協奏曲を演奏するヴァイオリニストはフィンランド語ができるだろうか?」と書かれていたのである。

 ならば,という訳で,フィンランド語の学習書を手にしたことがある。これが未知との遭遇の連続,子音交替だったか母音調和だったか忘れたが,全く頭にはいらないシロモノ,フィンランド語を理解してシベリウスにアプローチする方法は,さっさと断念した。

 ただ一方で「バッハをやるにはドイツ語がわからないと・・・」などということを口にしたりするので,フィンランド語を知らないシベリウスは,どうも後ろめたさを感じずにはいられなかったのである。私の師匠だって,ロシアでは「エフゲニー・オネーギン」を聴かずしてチャイコフスキーの協奏曲を弾くなかれ,と言われたということだし・・・。

 そう思いながら二十数年たった,先日,ある高校生のシベリウスを聴いて,その後ろめたさから逃れる術を知ったような気が少ししてきた。

 その高校生のシベリウスは技術的には遜色のないものと言って良いと思った。ただ,やや物足りなさが残るのである。これが何か・・・。

 しばらくして気づいた。「拍子」がない。

 言い方を変えると,「日本語」で弾いていた。なるほど,日本語で弾くと,このようになるのか,というのを聴かされたのである。

 それから敷衍して考えると,ドイツ語であれ,フランス語であれ,ヨーロッパ語で考えたシベリウスならば,ここまでの違和感はなく,一種の味わいとして感じられるのかもしれない。でも日本語だと,どうか?

 この演奏,実はさるコンペティションにおけるもので,入賞はしたのだが,上位の賞ではなかった。審査員が,そこを重視したかどうかは定かではないが,ヨーロッパ語で演奏すれば,もっと上位にいったかもしれないなぁ,と思ったのである。

 という訳で,シベリウスを演奏するにあたってフィンランド語ができなくても,ヨーロッパ語の素養があれば,ある程度代用が利き,それがない場合は説得力に欠ける,やはり言語の勉強は必要,という結論に至ったのであった。

 二十数年に至るモヤモヤが晴れて,ようやくスッキリした。入賞しない演奏も,時として大変勉強になるものだ。高校生に感謝!


バンドとゴスペル・コーラスのためのハレルヤ

2009-06-07 17:33:24 | 音楽

 今の時期、教育学部の3,4年生は教育実習である。大学教員は協力実習校に挨拶回りをする。そこで、タイミングが良ければ(?)実習生の授業を見学することができる。これが、時にかなり勉強になる。

 北九州の、とある高校はもうすぐ文化祭(実は今日)ということで、音楽の授業は文化祭の練習だった。全校生徒が練習していたのが、標記の曲である。

 所謂歌謡曲にも「ハレルヤ」という歌詞を使ったものは多々あるし、ゴスペルに近いところでは「漕げよマイケル、ハレルヤ」などというものもあるが、そんな呑気なものではなかった。これは、あのヘンデルの「メサイア」の「ハレルヤ」をゴスペル・コーラスにしたもの。私にしてみれば、驚天動地のアイディアだ。

 ハーモニーも複雑になり、拍子も4拍子の中にしばしば2拍子が混じる。リズムも16ビートになり、シンコペーションの連続。原曲の方が易しいと思うのは、私だけではないだろう。

 このような難曲に取り組ませる先生の勇気は大したものだ。実習生も大変なものに当たってさぞかし・・・と思いきや・・・

 よくよく話を聞いてみると、実習生の高校時代、すでにやったことがあるのだそうだ。音楽の先生は同一人物。早い話が、その先生の好みに合っているのだろう。生徒もこれなら「のせる」ことができる、と考えたに違いない。

 実際に「のって」いるかどうかはわからない。でもここに一つ重要な真理がある。
先生が好きなことは伝播する

 ヘンデルのハレルヤだったら、原曲をそのままさせたいなあ、と思う。一方で、もしゴスペル・コーラスをやれ、と言われたら、少しでも知っている素材が加工された曲の方がわかりやすい。ヘンデルだと思わないで演奏したら、結構私も好きかもしれない・・・と思い至るようになった。

 うーん、好きかも・・・ハ・レ・ルーヤッ・・・今の現役高校生よりも、私達の方が好きかも・・・

 ここで気づいた。

 その先生は私と同い年である。そう言えば、先日のTV番組の司会をしている指揮者も同い年である。(彼も「ディスコ・キッド」はかなり好きそうな表情で棒を振っていたように見受けた。)

 結論:私の同年代は16ビートが染み付いている。これが鳴り出したら条件反射で「ノル」しかない。

 アンデルセンの「赤い靴」、ハンメルンの笛吹き、浮かれヴァイオリン、これらと同等な存在「16ビート」、怖いなあ・・・。