井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

サイトウ・メソード・フォーエバー①

2017-09-28 22:32:00 | 指揮
ある若い指揮者が、様々な悩みを抱えながら頑張っている様子を偶然知った。

悩まない人はいないから、それだけだと当然なのだが、どう合図を出すべきか、みたいな話になると、私の頭の中に疑問符が増える。

サイトウ・メソード、山田一雄メソード、いずれも「叩き」という打法を一番の基礎におく。続く拍の点が常に予測できる振り方のことである。
昭和20年代から50年代くらいまでに訓練を受けた人達は、ほぼ例外なくこの「叩き」を何カ月もやらされたものである。

ところが、実際オーケストラを指揮すると、この「叩き」が全く不要、どころか、かえって邪魔になることに気がつくのである。

そして、「叩きは使わないから教える必要もやらせる必要もない」という指揮の指導をする人達が現れたようである。

そうだろうか。

確かに、この訓練は日本独自のもののようである。

しかし、私に言わせれば器楽の「ロングトーン」はほとんど使わないから、訓練不要と言っているのと同じに聞こえる。(続く)

合唱・吹奏楽のコンクール=先生(指揮者)のコンクールか?

2017-06-21 19:40:00 | 指揮
たまたま同じ学年の学生にA高卒のBさんとC高卒のD君がいた。A高は合唱コンクールで、C高は吹奏楽コンクールで、それぞれ全国大会常連校だったので、標記の質問を投げかけてみた。

Bさんは、少なくとも指導者が変わると演奏は全く変わることを認め、D君は「ほとんど先生のコンクールだと思う」と答えた。

しかし、その昔、同じ質問を合唱コンクールのベテラン審査員にしたところ「いや、やはり合唱のコンクールで先生のコンクールではないと思いますよ」との回答を得た。
確かに、少なくとも建前はそうでなければならない。

が、何ともしっくりこない話である。

ロシア人指揮者の「今度は俺の番」

2016-01-19 23:51:32 | 指揮
先日、フェドセーエフを久しぶりにテレビ放送で見た。もはや重鎮の貫禄。

スヴェトラーノフは鬼籍に入った。脳裏に横切った言葉が「もはや戦後ではない」

違う、「今度は俺の番だ」

スヴェトラーノフもムラヴィンスキーが亡くなって思ったに違いない。「私はかもめ」

違う、「今度は俺の番だ」

でも、本当の「番」は、もっと若手のようだ。
トゥールーズのシェフで、先日N響を振ったばかりのトゥガン・ソヒエフ。

ベルリン・フィルはドゥダメルよりも評価しているらしい。

さあ、どうなる?

変拍子の練習と京浜東北線

2012-08-18 23:19:54 | 指揮

指揮を勉強している方(ほとんどは学校の先生)から「変拍子が振れるようになりたい」けれど、どうすれば良いか、というお尋ねが時々ある。

「そんなもの、練習すれば良いだけのことでしょう」と言いたいが、多分どう練習しても、できた実感がないのだろうな、と想像する。

「三度のメシよりも変拍子が好き」と述べられたのは、作曲家の矢代秋雄。そこまでではないにせよ、私も結構好きな方で、特に「ペトルーシュカ」「春の祭典」は高校生時代ステレオに合わせて棒を振りまくって遊んだ覚えがある。この変拍子に合わせて体を動かす快感は、鰻の蒲焼に匹敵する。なので、三度のメシより、ということはないが、それに近いところまでは感じる。

なので、鰻が嫌いな人がいるのと同様、変拍子が嫌いな人もいるだろう。お気の毒に。

では済まされないから、前述のような問い合わせがある訳で、鰻が嫌いな人にも食べさせるにはどうしたものか、を考えなければならない。

まず、意外と食わず嫌いかもしれないから、「ハルサイ」を食わせてみるのが一つの手。ストラヴィンスキーのスコアを片手に拍子をとってみる、ここで面白さを感じたらめでたしめでたし。コープランドの「エル・サロン・メヒコ」も良いですよ。

しかし、これで解決する人は少数派だろう。困っている人は2拍子と3拍子が交替するだけで面食らうのだと想像する。

ここで思い出すのは、大学に入りたての頃、「京浜東北線の駅名を使う変拍子の練習」がはやっていたこと。私はすでにペトルーシュカで練習していた後だったので、その程度では・・・と思っていたけれど、前述の皆さんにはちょうどいいのかもしれない。

それは、

おおみや・よの・きたうらわ・うらわ・みなみうらわ

というもの。山手線ではダメなのだ。「しながわ・おおさき・ごたんだ・・・」

余談だが、山手線で練習する新世界のヴィオラ・パートというのもある。

3楽章の最後が6連・5連・4連・3連の音符になっているので、それを「たかたのばば・いけぶくろ・おおつか・すがも」と唱えるというもの。しかしこれはあまり役に立たない。

問題は、関東地方の人間以外には馴染みがなくて、ちょっと親しみにくいこと。それに、いつの間にか「さいたま新都心」とかいう駅ができていて、調子が狂ってしまった。ならばその土地土地で探そうではないか。

という訳で、我が家の近辺で鹿児島本線バージョンができた。

やはた・くろさき・じんのはる・おりお・みずまき・おんががわ・えびつ・きょういくだいまえ・あかま・とうごう・ひがしふくま・ふくま

最初、3・4・5を二回繰り返すあたり、実に音楽的なプロポーションが良く、しかも毎回拍数が違う。これは次の指揮法講座で使ってみよう。

調子に乗って・・・

これには突然1拍子が出てくる、というのが無い。一文字の駅名と言えば、三重県の「津」だ。

では紀勢本線でいけるか?

かめやま・しもじょう・いっしんだ・つ・あこぎ・・・

これは、あまりうまくいかない。知らない土地には手を出すなということか?

変拍子が不得意な方、こうやって様々な駅名をあてはめているうちに、いつの間にか変拍子的感覚が身につくのでは、と思うのだが、いかが? (鉄ちゃん発想でしょうか?)




信長貴富 : 組曲「スピリチュアルズ」から 5. ブギ・午前一時

2011-12-10 00:13:44 | 指揮

私は昔、バーンスタイン教の信者だった。信徒は何をするのかというと、まずバーンスタインの全作品を覚えるのである。バーンスタインについて書かれた書籍は、もちろん全て読む。そして、レコードは少し聴いておく。レコードがなぜ少しなのかというと、粗製乱造が多くて評価が必ずしも高くなかったからだ。信者たるもの、教祖様の価値を下げるようなものには触れない方が良いのである。

結構信心深い熱心な信徒だったと思う。声楽関係を除くと、全作品に近く知っていた。

現在の評価と違い、当時はアメリカでもショーンバーグにけなされ、日本ではカール・ベームの方が人気があった時代である。

この信心深さがうすれたのは、「一番熱心な信者はバーンスタインのベッドにバーンスタインと一緒に寝なければならない」ということを知ったからだ。

この勇気が持てなかった。

そして、バーンスタインの死と共に、バーンスタイン教からは離別していった。

でも、今でもバーンスタインは大好きだ。

さて、そのような過去があるので、クラシックとジャズ、両方に造詣がある存在(人物・作品)は気になって仕方がないところがある。

そこで出会ったこの作品、正直脱帽だった。

1曲目から4曲目までだったら、他の作曲家でも同様のことをできる人は結構いらっしゃる。また、4曲目と5曲目のような作風を持つ方も少なくない。しかしこの両方となると、いきなりバーンスタインを持ち出してしまいたくなるほどで、そうそう見当たるものではない。

その昔、NHKで「授業」をしたミヨシ先生、チェコ民謡(多分アンダルコのうた)を、それはそれは丁寧に芸術的に繊細に仕上げて、そこまでやらんでも、と思ったものだ。次に「グリーングリーン」というGo-go(わかりますか?ディスコの元祖のようなダンス曲)をされていたけれど、痛々しいくらいにサマにならない。NHKさん、そこまでやらせなくても、と思ったものだ。

ミヨシ先生は信長の師匠格だから、見方によっては追い抜いたことになるかもしれない。

ただ両方書けるのが一般的な理想だとは全く思わない。人には得意不得意あるものだから、基本的には得意分野で活躍すれば良いと思う。

だが、私は両方できることに価値を置くし、その存在にあこがれる。

そして、実は拙作「大志の歌」もフィナーレはジャズ風の曲になるはずだった。

来年の演奏会、当初の計画だとそれで良かったのだが、途中で計画は変わり、この「スピリチュアルズ」がプログラムに入ってきた。

楽譜を見て、その完成度に青ざめ、恥ずかしさで真っ赤となる交通信号状態。ここから抜け出すには、新たなフィナーレを書いて差し替えるしかなく、急きょ新作を書きあげた井財野であった。

聞くところによると、信長はポップスの様式も得意とするところのようだ。が、私が感服しているのは、それが書けること以上に、構成力の巧みさなのである。この順番で聞いたら、感動は約束されたようなものだ。

それでは、というところで、私たちはその先を考えている。乞うご期待。

「ブギ・午前一時」の一部を紹介。