今日のひとネタ

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佐藤剛さん逝く…

2023年06月21日 | 甲斐バンド・甲斐よしひろ

 音楽プロデューサーで作家の佐藤剛さんが亡くなりました。私は著書「上を向いて歩こう」を読んだのは昨年でした。甲斐バンドファンとしては、当時は重要なスタッフの一人として認識してただけなのですが、画像の文庫「ポップコーンをほおばって 甲斐バンドストーリー」(田家秀樹著)を読んでからは、いかにその存在が大きかったかと思い知らされました。

 

 これは私の愛読書なのでしょっちゅう手に取るのですが、読めば読むほど、そして大人になって世の中のを仕組みを知れば知るほど、剛さんと甲斐バンドの関係の強さを認識するようになったのでした。かなり剛さんの証言が多い上に、その視点から語られてる部分も多い本です。

 以下、佐藤剛さんについてこの本からの抜粋です。

・明治大学文学部演劇科の卒業だが、70年安保の年に入学して、74年に卒業したのであまり学校の授業には出てなかった。
・甲斐バンドとの接点は、1975年7月23日に当時所属していた「ミュージックラボ」の記者として取材に行き、取材予定をはるかにオーバーしたまま、甲斐よしひろと話をし続けた。しかも、その話の内容は、映画とローリング・ストーンズの話に終始し、「いつかこの話の続きを」と別れた。
・77年の正月明けに甲斐よしひろと会い、「オレたちと一緒にやらないか?」との意思確認をされて契約マネージャーとなり、その形態は1年ごとの更新、しかもシンコーミュージックの社員ではなくあくまでも「甲斐バンドの契約マネージャー」であったのは、本人の希望によるもの。
・77年4月25日から甲斐バンドつき「契約マネージャー」としてスタート。

など。マネージャーとして以外にも、五業昌晶のペンネームで楽曲制作にも関わっています。今日の長岡和弘さんのFBでの書き込みによると、作詞したもののタイトルが決まらず悩んでいた曲に、「きんぽうげ」というアイディアをくれたのは剛さんだったとか。初めて知りました。

 そして、1978年には甲斐さんと二人でアメリカに渡り、現地のミュージシャンを使ってカバー中心のソロアルバム「翼あるもの」を作り上げます。あらためてこのクレジットを見ると、プロデューサーとして佐藤剛さんの名前があります。

 

 その後、甲斐バンドは1981年にシンコーミュージックから独立し、株式会社ビートニクが誕生することになりますが、剛さんはその社長兼マネージャーに就任しました。

 甲斐バンドには、甲斐よしひろという強力な熱源がいますが、その燃え盛るエネルギーを、どの方向に、どのように、どういう熱量でぶっ放すかというのはまさしく剛さんがマネージメントしていたのだと思います。近年に出演した番組を聞くと、ご本人はさらっと「マネージャーやってました」とおっしゃってましたが、実に大きな存在だったと思います。

 

 1986年の甲斐バンド解散後のことは詳しくないのですが、剛さんは様々な音楽制作に関わっていて、私が持っている小野リサさんの大ヒットアルバム「DREAM」にもExective Producerの一人としてGO SATOの名前があります。これは1999年ですね。当時はまったく意識していなかったというか、このGO SATOさんとあの佐藤剛さんが結びつかなかったかもしれません。その前にはTHE BOOMの「島唄」のプロデュースもありましたが、私は当時それも知りませんでした。

 

 その後は文筆業に活動の中心を移したのでしょうか、2011年には「上を向いて歩こう」を刊行。しかし、同じ年に由紀さおり&ピンク・マルティーニのシニア・プロデューサーも努めました。これは大ヒットしましたね。

 ここ何年かはあちこちの音楽コラムで剛さんの名前をよく見かけるようになって、私はあらためて書いたものに興味を持ったのでした。歌謡曲のスタンダードと言えるもの、ミュージシャンの楽曲に関する権利や印税に関するものなど、どれもすごく興味深かったです。なので色々な話をもっともっと教えて欲しかったです。

 昨年から闘病中で入退院を繰り返していたのはツイッターで見ていましたが、ご本人はずっと回復に前向きだったので、帰ってきてくれるものと信じていました。次に出るとすると西城秀樹さんに関する本かと思ってたのですが、それも見る機会がなくなってしまいました。私はまだ読んでいない著書もありますので、せめてその足跡を一歩ずつでも辿って行きたいと思っています。

 本当に永い間いろいろな場面で楽しませていただいたことには感謝を申し上げます。そして、謹んでご冥福をお祈りします。悲しいです…。