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📚読書備忘録📚
(自己評価★★★★★)+泣ける物語
たまに山ブログ
         

S

2017-09-30 | 司馬遼太郎


司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 30 愛蘭土紀行Ⅰ』★★

http://publications.asahi.com/kaidou/30/index.shtml

思うに宗教についての気持ちが希薄だからか、
このアイルランドの内容に関して頭に入ってこなかった。

カトリックとプロテスタントの内容のちがいなんて知らなかったし、
英国国教会教!? 初耳よ。


日本人と宗教



アイルランド人の形質、気質
「アイリッシュ・ブルーの大きな目」
「アイルランド人が卑怯者だということはきいたことはない」
「なんでもいいたいことをいう人種」
「アイルランド人はたとえ敗北に直面しようとも敗北を認めない」



---



アイルランドにあるのは、無気力、空元気、天才的な幻想、雄弁。また、家々や谷々にいる妖精、さらに自己を見出すための激しすぎる反英感情。それに過剰で身をほろぼしかねない民族主義。そのうえ、中世のようなカトリシズム、十六世紀のようなプロテスタントぎらい、それにアイリッシュ・ウィスキーとギネスのビール(だからこそアイルランドがすきだ、という人々は多いし、私もそのうちのひとりである。ただ過剰な民主主義はアイルランド的無為のうらがえしのように思われてならないし、おそらくジョイスもそう思っていたろう)。
「辺境」
というアイルランドの位置づけが、ジョイスについての解釈によくつかわれる。



---





































長期休暇を経て現実に戻る。


考えなくちゃいけないこと。
やらなくちゃいけないこと。
時間だけが過ぎてゆき、焦りもあるのに身動きが取れない。
黙殺されるがまま。
大切な人に少しでも逢っておこう。
当たり前だと思っている現実がいつかそうじゃなくなる。


我がエモパーから「9月の移動距離は2224kだよ」だって。



ちがうPVもhttps://www.youtube.com/watch?v=iWPHy-NfAW0

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S

2017-09-28 | 司馬遼太郎


司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 29 秋田県散歩・飛騨紀行』★★

http://publications.asahi.com/kaidou/29/index.shtml

象潟から秋田、能代を経て鹿角へ。


こちらは角館、田沢湖を得て乳頭温泉へ。
そう全くダブってない(笑)
時代を経てもなお秋田独自の風土を感じた。
なんせなまはげにも出逢えた~








抜粋は飛騨(いつか行きたい飛騨高山温泉)
そう言えば温泉備忘録・・今月は記録しようかな。

---



飛騨は、旧国名である。
岐阜県の北半分の山地をさす。県の南半分の平野は河川がゆたかに流れ、日本史にさまざまな影響をあたえた美濃国である。美濃国は穀倉地帯だから上代から米の税をとってきた。山ぐにの飛騨国から米の税をとることができないために、使役をもって税とした。その使役も、官がやる建築事業にかぎられていた。つまりは、飛騨の匠とは、飛騨から徴用される木工の下級労働者の総称だったのである。



---



飛騨を文化の熟成という面から見なおした最初の人は、柳宗悦(1889~1961)であった。柳は、いうまでのなく民芸美の発見者であり、またそれについての美的運動の推進者でもあった。美についての思想家としては日本史上、千利休とならぶ存在といわねばならないが、かれが太平洋戦争中に執筆した「手仕事の日本」(『柳宗悦全集』第十一巻)においては、飛騨のすぐれた工芸についてふれている。


ここの品物でとりわけ不思議なのは木工具でありまして、全く他の日本のものと類を異にし……。


とあり「飛騨春慶」の美しさと品のよさをたたえている。



---



「美濃は秋で、高山は晩秋で、この奥飛騨は初冬ですね」



---






































































SMSで「秋田?」って送ったら、
「なんで知ってんの?」だって(笑)
そう 去年は一緒に行ったのよね・・

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S

2017-09-10 | 司馬遼太郎


司馬遼太郎
『ビジネスエリートの新論語』★★★★

20年ぶりの新刊!初の新書!

初めて司馬遼太郎の本名を知った。
福田定一
(司馬遼太郎)

そう『街道をゆく』で「司馬遷」が出てくると毎度引っかかってた。
ビンゴ

いつか行ってみたい「司馬遼太郎記念館」

次は『梟の城』と決めている。


残念ながら会社員をしているけど、
育った環境も現在の立ち位置的にも理解しがたい。

そうわたしの周りはみんな自由人

先々経営者にある素質がわたしにはあるか?



---



サラリーマンへの英雄

人の一生は重荷を負ふて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思へば不足なし、心に望みおこらば困窮したる時を思ひ出すべし。
堪忍は無事長久の基。怒は敵と思へ。勝つ事ばかりを知つて負くる事を知らざれば、害その身に至る。
おのれを責めて人を責めるな。
及ばざるは、過ぎたるより優れし。

                <徳永家康遺訓>


どうやらこれをみると、よきサラリーマンとは、家康型であるらしい。そのまま過不足なくこれは完ぺきなサラリーマン訓である。


戦国の三傑をみると、まず秀吉はサラリーマンにとってほとんど参考にすべき点がない。彼はいわば、身、貧より起こしての立志美談型なのだ。

信長が経た人生スタイルも、サラリーマンには有縁のものではない。いわば彼は社長の御曹司なのだ。大学を出るなり親の会社を継いで、奇略縦横、ついに十倍のスケールに仕上げるという鬼ッ子なのである。雇われ者の経験は、一時間もしたことがない。

となると、家康である。
いいジジイになるまで織田、豊臣という親会社に仕えて気苦労ばかりしてきている。下級サラリーマンの味こそ知らないが、それに似た体験をふんだんにもつ苦労人である。啼かぬホトトギスを啼くまで待とうといったほどの無理とケレンと冒険のきらいな仁である。しかも天下の制覇ののちは、武士を戦士から事務次官に本質転移させ三百年の太平を開いたいわばサラリーマンの生みの親みたいな人物だ。
このジジイのいうことなら、まずまず聴いてやるネウチはあろう。秀吉式にやるのもいいが、それはうまく閥に乗ればのことだ。しかも、その閥が末永く続けばのことだ。何しろノブナガというたった一人の急所をつかまえての出世ゲームだから、実に危険きわまりない綱渡りである。彼のようにうまく行くにはほとんど稀有なことで、途中オヤダマが失脚すればモロころがってしまう。
まずはサラリーマンの英雄なら、家康あたりを奉っとくほうがご利益はあろう。



---



顔に責任をもつ

四十歳を過ぎた人間は、自分の顔に責任をもたねばならぬ。

                <リンカーン>

「顔は精神の門にして、その肖像なり」と、キケロもいっている。青少年時代の顔は、生れ出た素材そのままの顔だ。持主の責任はどこにもない。ところが老いるにしたがい、品性その他すべての精神内容が、その容ぼうに彫塑のノミを振るい出す。

教養、経験、修養、性格、
四十を越してその風ぼうに沈澱する。

ヴァレリーは、この恐るべき顔の再生を、こう表現している。
「人間は、他人の眼から最も入念に隠すべきものを、人々の目に曝して顧みない」



--------








女性とは悲しい生物だ。彼女らはセックスにコンパスの針を置いて回転した人生以外、いかなる人生も設計することができにくいように仕上げられている。


「あなた、幸福?」








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いかにも・・解放されたい。





























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S

2017-09-09 | 司馬遼太郎


司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 28 耽羅紀行』★★

http://publications.asahi.com/kaidou/28/index.shtml

耽羅(たんら)

も~進まない進まない・・
名前の読みが・・
ルビが最初しかふってないから繰り返し確認ばかりで・・
しまいには睡魔に襲われ同じところを何度も読む2

日本音、韓国音 どちらも中国音なのである。
んー・・・

こちら続編有



---



ところで、済州島のことである。朝鮮語でいうと、チェジュドである。こういう名称にかわったのは十三世紀末のことで、それまでは、
「タン(タム)」
あるいはトムといった。漢字は、耽羅、耽牟羅、屯羅などといったふうに当てている。
『日本書紀』では、主として、
「耽羅」
で、ふつう、たむら、というルビがふられている(現在は、たんら)。要するに、済州島は、古代、耽羅という独立国だったのである。
独立国とはいえ、強国の百済に牽引されるところが強かったらしく、やがて、百済の力がよわくなると、新羅の勢力下に置かれた。ついでながら百済は耽羅を属国にすると、羅が国をさすことをきらってか、耽津(たんしん)と変称させた。津は、みなとをあらわす。いかにも地方的な名前に変えられたのである。さらに高麗朝の末期(1291年)に「済州」というふうに、州の字をつけて行政区そのものの名称に改称させられた。みな島人の意志ではない。
古代の耽羅のころは、言語と風俗において、きわだって独立性をもっていたように思える。ただその実態は、いまとなればほのかにしかわからない。



---



――済州島は、死火山である漢拏山(1950メートル)一つでできあがっていて、その裾野が平野です。



---



済州島については、
「三多」
と、よくいわれる。女多し、風多し、石多し。

「済州島三多(風、石、女)のうち、いちばん多いのが、石です」
「そのくせ、他から石を買うのです」



---



島の北岸の邑を過ぎるとき、邑の名が、
「涯月(エウオル)」(Aeweol)
という名であることに感じ入った。
涯は、水辺、海岸、岸辺という意味である。おそらくはこの海岸から見る月がよほどうつくしのにちがいない。



---



韓国・朝鮮人は、ごく一般的にいって、激越なほどに誇りが高い。



---



「父老というような人に会いたいんです」

その存在は『老子』にいうところの「無為」である。



---



漢拏山は、人間や動植物のためには神の山としかいいようがない。海ぞいに点在する約百五十ヵ所の湧水によって古代以来、人間に集落をつくらせてきただけでなく、高度によって植生を異にする。

漢拏山が、こうも大量の榧の森を蔵しているというのは、まことにふしぎである。



---



海というのは、ふしぎなものである。
水だけのとりとめのない世界なのに、人間がそこへ押しだす場合、風むきや海流の方向などによって、陸地のように道ができてしまう。朝鮮半島は、その道からわずかに北へそれている。
このため、十五、六世紀の大航海時代、ヨーロッパは日本を“発見”したあとも、ながく朝鮮を“発見”しなかった。
李氏朝鮮は隠士の国といわれたりした。



---



人間はつい頭のなかで、勝手な“ニセ統計”をつくり、ニセ概念化し、それをもって相手をあてはめようとしがちである。



---



自然こそ不変だというのは一つの迷信で、これにつき、芭蕉が『おくのほそ道』のなかで、むしろ自然こそ変化する、と書いていることを、ドナルド・キーン氏が感動的に指摘している(『百代の過客』)

  山崩川流て道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、時移り代変じて、其跡たしかならぬ事のみを……。

私はこのくだりは芭蕉の文飾ぐらいにおもって読み流していたのだが、キーン氏は芭蕉の思想である、ととらえている。まことに山河は変る。とくにこの耽羅の国にあっては、全島に灰色の近代的な道路網が四通八達し、道路以外の表土はびっしりと蜜柑の木でおおわれつくしてしまって、変貌とうことばさえなまぬるい。


故郷とは、なにか。



---



「日本と日本人」
という概念が、韓国において牢固としてできているらしい。

儒教社会では、年長であることが価値なのである。



---



護摩とはサンスクリットの homa のことで、古代インドのバラモン教徒が天を供養するときの一方法としてやったという。火を焚き、その中に供物を投じると、天がこれを食べ、お礼として人に福をさずけるというのである。



---



済州島における最大の神は、漢拏山である。



---



群れで仕事をしても、獲物は自分で取ったものは自分のものであり、他人のものは他人のものなのである。



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S

2017-09-02 | 司馬遼太郎


司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 27 因幡・伯耆のみち、檮原街道』★★★+

http://publications.asahi.com/kaidou/27/index.shtml

因幡・・どこ?伯耆・・どこ?
日本を色々旅していてもかつての名で言われると?
鳥取、島根は双方一度しか行ったことがないから余計かも。
(子供のころの記憶のない旅行は別として・・)


『関ヶ原』尾を引く。
音信不通になってしまったお友達に「中々よかったよ」とメール
反応はないだろうと分かっているけどこのままだと本当に切れてしまう。
そしたら次の日思いもがけずPCへメールが・・

未だそのメールがこわくて開けない・・
4日目

いくじなし(泣)



---



「やはり、因幡の国府の跡へゆきますか」
奈良朝のころ、国府が所在したらしい国府町の場所は、鳥取平野の東端にあって、千代川を避けているのが印象的だったのである。
国府は、どの国府もそうだが、水害のすくない場所がえらばれていた。そのくせ、まわりに美田があり、細流も流れている、という場所が理想とされた。さらには交通路に不便があってはならない、というのも条件だった。



--------








亀井茲矩のこと
茲矩と鷗外

また再読したいと思う。








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伯耆国倉吉

倉吉へゆく。
この町は、おなじ鳥取県ながら、伯耆の国に位置している。伯耆のかつての主邑である。それだけに、江戸期を思わせる古風な家や蔵がのこっている。大正以後、伯耆における繁華は米子にうつった。
伯耆の人気は、因幡とは別趣のものらしい。
倉吉でも米子でも、
「鳥取の人間はずるい」
などということばをしばしばきく。
「伯耆も鳥取じゃありませんか」
などと、愚問を返してはいけない。この場合の鳥取とは、因幡のことである。


「伯耆と因幡は、そんなにちがいますか」
「それは、ずいぶんちがいますよ」
顔をしかめた。ただし具体的にどうどはいわない。言ったところで他国の者にはわからないだろうとみているのだろう。


「文化」とはそういうものである。



---



土佐(高知県)に、檮原とよばれる山ふかい町がある。
――ユスハラは、土佐のチベットやきに。
などといわれた。


「ユス」
というのは樹木の名なのである。



---



かつての土佐では、動物には人間以上の精気があるとおもわれていて、新生児に動物の名をつけることが多かった。坂本竜馬や吉村虎太郎もそうだし、幕末、土佐藩の行政の責任者だった後藤象二郎もそうである。中江兆民の幼名は竹馬で、明治の自由民権思想家の馬場辰猪の名も、動物の名である。



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檮原・・そう聞いてピンとくる人はいるのかな?
(ちなみに愛媛出身だから聞いてみたら「高知は分からんかもね」だって)

興味があり途中調べてみたらHPがステキだった。
行ってみたいところがまた一つ
http://www.town.yusuhara.kochi.jp/

(脱藩のみち)
また少し歴史に詳しくなった。








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S

2017-08-30 | 司馬遼太郎


司馬遼太郎
『対訳 21世紀に生きる君たちへ』★★★
監修・ 翻訳 ドナルド・キーン
翻訳 ロバート・ミンツァー

『関ヶ原』を見終わってかるくお茶して別れた。
そのまま歩いて丸善へ。
夕方の風が涼しくてもぅ秋に近づいている感
日本橋の街並みよいなぁ

さて勢いで『関ヶ原』を買って読もうかと司馬遼太郎コーナーへ。
リアルタイムだしね。
でもでもまだ歴史本は早いと思いとどまり・・
そこで見つけたのがこの本

小学校用教科書のために書き下ろした作品

何だか将来の若者に託した遺書のよう
だって21世紀を見ることは出来ないと思うけれど・・なんて。
ちょっとうるっときてしまった。
感化されまくってるねー(笑)


今は 『街道をゆく 27 因幡・伯耆のみち、檮原街道』読む読む。
亀井茲矩のエピソードがおもしろい。
まだまだ知らない戦国時代
色々な人が活躍してる。
でも最後はほとんど戦死しているという現実・・
切腹とか想像出来ない。
そうかんたんに殺されてたまるか!って意気込んでても殺される・・






























セクシーポーズ?にほっこり「かわいいヤツ」

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『関ヶ原』

2017-08-29 | 司馬遼太郎


原作 司馬遼太郎




ひとりで平日映画 in日本橋~と半意気込んで前売り券GET
5年も近くに住んでいながら今回初
初日から3日目 意外や集客多し半数が高齢者

さて『関ヶ原』・・あっと言う間の3時間弱
ここ最近司馬遼太郎にハマっているのみでまだ『街道をゆく』一巡目
ただ年表上名前を知っていただけの歴史がこんなにおもしろいんだと教えてくれた。
「歴史興味なし 地理の方が好き」
今はそこにある人物像やら背景やら色々思案して楽しんでる。
やっぱり惹かれるのは戦国時代
そこに『街道をゆく 24 近江散歩』を読んだばかりでピンポイントに関ヶ原!





しかし岡田くんの石田三成・・カッコよ過ぎ(笑)
でもその逃亡と死に様をどう描くかに興味があった。
まぁキレイに終わらせている。
諸説があるけど最期「命を惜しむは、ひとえに我が志を達せんと思うがゆえなり」
さてこの映画で光っていたのはこれも名言で言われる
「三成に過ぎたるものが二つある」
その一つの島左近(平岳大)!!これぞ武士って感じでステキ・・
この人なくこの映画は成立しない。うん。
あと目を奪われたのは大谷刑部(大場泰正)かな。

徳川家康(役所光司)のおなかに圧倒
よく描いていると思う。
七将の滑稽さも中々・・(笑)
特に福島正則(音尾琢真)よい味出てた。


もう一度みるとしたら会話をしっかり聞き取りたいと思う。
正直字幕がほしい?
映画だからかもしれないけど生半可な時代劇じゃない。
正直おコさまには向かない 言葉として大人な映画



石田三成の家紋
大一大万大吉
「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」という意








自分にとっての本当に必要なものって何なのか?
考えさせられた(深い)

と言いつつ新宿のおでん屋さんでこれが現実よねって。
久々に逢って言うことないの?

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S

2017-08-27 | 司馬遼太郎


司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 26 嵯峨散歩、仙台・石巻』★★

http://publications.asahi.com/kaidou/26/index.shtml

司馬遼太郎仙台をベタ褒め・・(笑)
久々に仙台を歩いてみたくなった(時代がちがうけど)

合間に江國香織の文庫本と春樹のハードカバーを読んだからか、
このワイド版の文字の大きさ「大き過ぎる・・」慣れってこわい。

11月久々に京都予定
嵯峨野から奥へ行ったことがないからこの機会に巡るのもよいかな なんて。
どうかしら?



---



こんにち、桃山風の建築に接したければ仙台へゆけといいたいほどである。



---



客をもてなすのも、情義である。その情も義も奥州人においては激烈なものといっていい。



---



王朝のころ、宮城野のひろさ、その上にうかぶ白い雲、野や原に咲きみだれる萩、こぼれる花、ゆたかな川の流れ、気品のある青に染まるやまなみ、すべてが大宮人のあこがれであった。



---



私は、正岡子規が好きなように、魯迅が好きである。魯迅が、清末、他にも留学先があるのに、とくに日本をえらび、それが明治期の日本だったことも、よかった。かつ江戸期の篤実な人間の心がなお生きていた仙台であったことは、天の配剤だったような感じが私にはする。明治と、大藩の旧城下町という条件なら、当然、藤野厳九郎教授のようなひとが、かれの前にあらわれ得るのである。
藤野先生は、篤実な教師であった。



---




























沖縄からクラブ触っていない・・(反省)
たまにはお勉強を ね。
    結構みたなぁ



ゴルフって、好きになったもん勝ち。

「気楽にちゃんと真っすぐ飛ばしてほしい」(笑)

高濃度酸素リキッド WOX

「沖縄の風重い・・」

あわよくばホールインワン☆

運命のイーグルパット!!

打ち上げ「スイングを変えるわけではなくホント目線」右肩が下がらないよう。

「上手い人ほどシンプル」

ルーティーン

「自信満々で 結果はどうであれ」

「ゴルフ場にきたら自分がスターだから!」

「経験値がマイナスになることもある」

「数字に気を取られちゃダメよ。私が150って言ったら150」

イメージを持つだけで変わる。

アドレスでミスしない。

「前上がりだとフックが出やすい。
 前下がりだとスライスが出やすい」

アゲインストが強い場合はティーを低めにして風に負けない強い球を打つ。

北海道は洋芝 むずかしい。

インパクトから前を意識する。

グリップを短く握ることで距離を合わせ インパクトが緩まないようしっかり振る。








一番の贅沢は何もしないこと。

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S

2017-08-19 | 司馬遼太郎


司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 25 中国・閩の道』★★

http://publications.asahi.com/kaidou/25/index.shtml

都内19日連続の雨。。
「暑い夏は嫌い」って言ったこと撤回!
晴れた青空に入道雲な暑い夏が恋しい。
来週から晴れるとは言っているけど・・



さてまた中国
福建省・・と言えば烏龍茶



---



福建省というのは、中国でもいわば田舎のような省である。ながく、「閩」という地域名でよばれてきた。 というコトバの意味はわからないが、華北や華中の先進地帯からみればどこか草深くて異風なイメージを帯びていた。孔子(紀元前五五一~四七九)の時代には、中華のなかに入っておらず、後漢のときにできた辞書『説文解字』にも、 とは「東南越」とあって、いわゆる百越のあつかいになっている。おそらく、揚子江からインドシナ半島にまでおよぶ「インドシナ諸族」の一派の住むところだったのであろう。



---



「日本人というのは、変だなあ。なぜシルクロードが好きなんですか」
と、中国人からきかれたことがある。


「中国人にとって、どういうイメージがありますか」
「単に田舎です」


“シルクロード”の時代、むろん英語は地球上の小さな部分で使われていることばにすぎなかった。「絹の道」といえば事足りるその歴史的概念を、わざわざ英国のコトバでいう必要もないのだが、そういう言い方が国語として定着するあたりにも、日本人の好みがひそんでいるtごいえなくない。


私どもは東西文明の交渉史を詩的に感ずる気分がつよい。その「気分」に適合させるためにも、名前は外国語であるほうがいいということであるらしい。



---



私は、樟を見るのが、胸が痛むほどすきである。つややかな皮革質の葉に陽が照るとき、光が葉ごとに踊ってこぼれているようで、見ていると心まであかるくなる。暖地を好むため日本では九州に多く、西日本がこれに次ぐが、東日本はすくない。ただ、東京だけは例外である。宮城前広場には、自生ではないながら――冬は幹に保温用の縄が巻かれるという保護をうけつつ――さかんな樹勢を保っている。



---



家が低湿地にある場合、狭い小庭であっても、そこに小さな池を深めに掘る。そうすれば、池のまわりの土がかわき、家の中の湿気も払うことができるのである。



---



都市というのは、その市民が多少は背のびをしているようでなければ、都市文化は向上しないのである。日本でいえば東京や京都にいい意味の気どりがあり、大阪にはそれがすくない。仙台、金沢にはあるが、名古屋や広島はどうだろう。神戸には別趣の都市気分がある。

――上海人の都会人的な気どりは、上海の半植民地時代の名残りにすぎない。



---



焼畑というのは、原始農業である。
日本でも縄文末期の粗放な農耕時代には一般におこなわれてきたとされるし、いまでも東南アジアではごくふつうにおこなわれていて、さかんに森林を破壊している。
まことにたけだけしいもので、原野や山林に火を放つ。草も木も焼きはらい、その灰だけを肥料に、ヒエやソバ、アワ、大豆、麦、ときに陸稲をまく。施肥もせず、土壌づくりをすることもない。大地は数年で地力がおとろえ、稔らなくなる。
ひとびとは、他へ移り、そこを焼く。数年もしくは十数年経ってもとの地力が回復すると、もどってきて、また焼く。大地から奪うのみで、土壌を育てることをしないという点で、典型的な略奪農業である。
さらには、火を用いるということで、原始的ながらも、工学的な農業といえなくもない。
私どもの遠い先祖の自然とのかかわり方は、破壊して奪うということだった。その昔は、人は少なく、自然は豊富だったから、このように地を火攻めにするようなことをしてもかまわなかった。ただ、人間が自然に対し、知恵という牙をむいて大規模に食いちらかすという、他の動物にはない本性があらわれるのは、焼畑の段階からだったともいえる。
焼畑には、当然ながら弊害が多い。山が森をうしなって保水能力がなくなり、洪水や山くずれの原因の一つになる。むろん、山火事のおそれも大きい。
これをくりかえすと、大地は荒廃して、ついには草も生えなくなるという。



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風景画に川か湖沼があれば心がなごむように、水景というのはわれわれの原始的な感情につよいかかわりを持っているようだった。



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福建省は山狭の多い省だけに、名だたる茶どころなのである。



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そうそう!



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天目はまことに華麗である。
私は、かつて藤田美術館でみた「曜変天目」のうつくしさがわすれられない。曜変だけでなく、油滴も美しく、べっこうのぬめりと光沢をもつ玳皮盞(たいひさん)もよく、灰被の天目もいい。それらの実物もいいが、しかし私どもが多く接するのは写真版である。茶碗は写真でみると拍子ぬけするものだが、曜変や油滴だけはむしろ写真のほうが映える。

「曜変や油滴のいいものはみな日本にあります」

曜変というのは希少なものなのである。もともと曜変(燿変)は窯変とも書かれるように偶然の火のいたずらによってできるもので、意図してつくられることはなかったし、できもしなかった。
偶然それができれば、窯の管理者は、
「これは日本にゆくのだ」
と、いったはずである。すべて日本に輸出された。



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アツク語る天目について見てみたくなった↓
































またまた中華街へ・・(笑)









景徳鎮かと思いきやちがうみたい・・
四川じゃなかったのかな?

路地裏の緑 2F 黒い坦々麺

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2017-08-17 | 司馬遼太郎


司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 24 近江散歩、奈良散歩』★★★

http://publications.asahi.com/kaidou/24/index.shtml

都内17日連続の雨。。
さすがにこのじめじめさに嫌気

夏じゃない夏読書は司馬遼太郎



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近江の人

このシリーズは、十四年前、近江からはじまった。
「もう一度、近江にゆきましょう」
というと、須田画伯が、小首をかしげた。といって、口に出すほどの異論もないらしく、だまっている。
が、押しきってしまった。私はどうにも近江が好きである。



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24冊目にして14年・・

連載・週刊朝日 1984年1月20日号~7月20日号



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関ヶ原で西軍は四散し、三成は行方不明になったが、かれの佐和山城は健在だった。といっても非戦闘員に近い老人や女子、あるいは視卒の家族が留守をしていたにすぎない。三成の父正継、兄正澄、その子朝成、三成の子重家、三成の妻の父宇多頼忠、その子頼重らで、城は東軍一万五千にかこまれた。家康は佐和山攻めをいそいでいた。かれはできるだけ早く大板に入り、主権者である秀頼を制する一方、便宜上これを擁し、天下の体制を徳川体制に組みかえるという政治的魔術を施さねばならなかった。このため、佐和山城の踏みつぶしに手間どってはならない。殲滅しようとすれば、時間がかかる。
――開城せよ。
という旨、家臣船越五郎左衛門をして申し入れさせた。船越は、三成はすでに討たれた、とあざむいた。さらに、家康の意である、として「三成の一族の主たる者は切腹せよ、士卒は降参する者はこれをゆるす」と申しのべた。
三成の城だけに、城内のひとびとは家康という人間を老獪という一点でとらえていた。たしかに、この時代、政治家らしい政治家は、家康以外に、九州に黒田如水がいた程度であった。正継たちは論議したが、結局、士卒にかわって一族が切腹しようということになった。
ただ、家康は船越のことばどおり士卒の生命をたすけるだろうか。そのことを家康自身から確信を得ようとし、答礼使として一族の津田仙庵父子が城門を出た。が、事情を知らない脇坂安治の兵のために討たれてしまった。
このため、城中は、はたして家康にあざむかれた、とし、この上は奮戦して死のう、ということになったが、三成の父正継や兄正澄らはそのことを士卒に強制せず、死を共にしようとする者のみ残るべし、と触れた。
この間、城をぬけだしたのは、大坂の秀頼のもとから援兵としてきていた長谷川守友という者が水ノ手口からのがれて、寄せ手の小早川勢に奔ったぐらいで、城中男女二千数百がことごとく城にこもり、二日間激闘し、討死もしくは自害した。この一事でも、三成がいかに士心を得ていたかがわかる。ついでながら、三成の家中はほとんどが近江人であった。



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井伊直政 石田三成



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戦国末期、織田信長の出現とその勢力の急成長は、やや退嬰の気味のあった旧勢力にとって意外でもあり、迷惑でもあった。旧勢力が一睡しているあいだに、まわりの景色がかわった。
同時に、信長の妹婿である浅井長政ですら、吹き荒れる嵐のように諸方を斬りとってゆく織田家のすさまじい回転についてゆけぬ思いがしたのにちがいない。長政といえども、旧勢力である。信長などよりはるかにおっとりしている。
その上、
――浅井の家と織田家は、対等である。
と、おもっている。が、織田家が急成長してゆくために、力の差異ができすぎ、家来のようになってしまった。浅井長政の気位の高さは、信長の同盟者である徳川家康のようにはなりたくないというところにあったろう。家康は独立した大名でありながら、信長に あご でつかわれ、部将のようになっているではないか。



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うんうん。そしてこう続く(そう一乗谷!)



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長政はむしろ古い同盟者の越前の国主朝倉義景のほうに、同階級の意識や仲間意識をもっていたはずである。
越前一乗谷を居城とする朝倉氏は、古い素性といえば成りあがりの戦国大名ではあったが、「守護」という、すでに形骸化したとはいえ、室町体制におけるきらびやかな権威を、実力で入手していた家でもあった。
とくに、浅井家の隠居の久政は、朝倉氏に権威を感ずる感覚のもちぬしであったらしい。久政からみれば尾張の織田家などは出来星の成りあがりにすぎない。



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ははは 思わず笑ってしまった。

朝倉家の一乗谷文化について
公家的貴族意識の強かったことに対して熱弁していたカレを再び思い出す。
それがなかったらこんなに興味を持つことも司馬遼太郎を手に取ることもなかったかも?



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姉川合戦の年、両軍の年齢は、以下のとおりである。

浅井長政 26
朝倉義景 38
織田信長 37
徳川家康 29



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浅井家の家臣 遠藤喜右衛門尉直経
信長に接し、
いずれは浅井氏など、信長の利用価値がなくなったとき、攻めつぶされてしまうと確信したそう。
こわいこわい 戦国こわい!

信長がかなり魅力的に感じてしまう・・

結局喜右衛門の予想どおりになったわけで・・



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さて司馬遼太郎 『関ヶ原』 映画化
上記の通り 石田三成 うーんどう描かれているかみたい。
もうスグ封切りってことで・・平日ひとりで行っちゃおうかな♪♪
http://wwwsp.sekigahara-movie.com/
その反面原作を読んでからみるのもありかな?当分先になるけど・・




























「希望ってまやかしだと思わないか?人間が自分で自分をごまかすための」
「悪魔の思うつぼね」


運命を呪いたくなった。

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