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📚読書備忘録📚
(自己評価★★★★★)+泣ける物語
たまに山ブログ
         

S

2017-08-11 | 司馬遼太郎


司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 23 南蛮の道Ⅱ』★★★

http://publications.asahi.com/kaidou/23/index.shtml

続々
まだまだ熱冷めず。



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十六世紀の無敵艦隊は、詩的には高貴としか言いようのない浪費だった。当時の艦隊一隻をつくるのに森が一つ消えるといわれた。フェイリペ二世のこの艦隊は、戦艦が百二十七隻、のせている砲は二千門といわれた。これらを建造し鋳造するだけでも巨大な自然破壊であったのに、イギリスとの戦いで、その過半――つまりは返らざる森林――を海に沈めてしまった。この一戦でスペインは世界規模の海上権をうしない、詩人のうたう「悲惨のカスティーリャ」という国土と、スペイン人の心だけがのこった。


「スペインには、宗教も芸術も文化財もある。しかしほかに何もない。いるのはスペイン人だけだ」




---



大航海時代という華麗な世界史的な演劇の幕を切っておとしたのは、いうまでもなくポルトガルであった。



---



人間が集団を組んで異常な行動に出るとき、神とか平和とか正義とかといったように、およそその行為の実態とはかけ離れた高貴なことばをかかげる。二十世紀に入って日本軍が中国を侵略したのも「平和のため」であり、ヴェトナムがカンボジアを侵略したのも「正義」のためであったということを、後世、信じられるだろうか。



---



もしスペインに一日しか滞在できないとしたら、迷わずトレドの街にゆけ、ということばがあるそうである。



---





これは架空の遊びである。もし自分がフェリペ二世のような地位に置かれたとき、どういう思想、気分、言動、さらには多民族の運命に対する――同時に世界史に対する――選択をしつづけるか、こう想像することは、人間そのものを考える上で興味がある。なぜなら、かれはどこにでもいるごく平凡な人間だからである。いまも区役所の窓口にもいるし、国鉄にもいるし、小学校の現場にもいるし、宗教団体の幹部のなかにもいる。
「フェリペ二世はあれはあれでよくやった」
と、多くのスペイン人は、わりあい甘くおもっているそうだが、このことは、死後おくり名として「慎重王」とよばれたことでも察せられる。
しかし、当時かれの支配下にあったフランス人やオランダ人たちにとって、この王の印象は残虐と不寛容であり、「南の悪魔」とさえよばれた。また、当時、世界に訴える手段をもたなかった南北アメリカの原住民にとって、生命を草のように刈りとる征服者(コンキスタドール)たちの背後にいる、死の略奪についての最高司令者でもあった。
かれは、文字どおり、世界のぬしといってよかった。ヨーロッパはそれの支配下にあり、アメリカ大陸だけでなく、アフリカと南アジアを所有していた。ちなみにフィリピンという名称も、かれの名に由来するのではないか。
その上、南アメリカから滝のように金、銀がながれこんできているのである。世界史でかれほど、その命令がゆきとどく範囲がひろかった王はなく、かれほど金銀を豊富ににぎった王もない。
さらに重要なことは、歴史のさまざまな闇の中から血まみれて登場してくる英雄的な王たちは、たとえかれの十分の一ほどの領土と富を握りえたとしても、それはみずから望み、それがために他を利用し、殺し、諸条件を生かし、機会をとらえるなど、いわば自分自身が稼ぎとったものだが、フェリペ二世の場合、すべてを父からゆずられた、ということである。かれはたまたまそういう条件のもとにうまれたにすぎず、かれが拓いた運命ではない。
その才質からいっておおぜいの中の一人にすぎず、従ってわれわれをかれにあてはめてみるという遊びには現実感がないではない。









---



記念碑では船首に、長身のエンリケ航海王子が立っている。例の修道士のような姿の大理石の彫像で、かれはカラヴェラ船の模型を右手にもち、右脚を踏み出して、遠くを望んでいるのである。その彫像は中世の教会が好んだ写実像である。
丁寧な写実表現によって愚意をふくませるというカトリック美術の伝統が、現代彫刻家によって律儀に守られているのがおもしろい。さらに王子のあとに、おなじ手法による群像がつづく。ヴァスコ・ダ・ガマもいれば、剣を杖にする者もいる。緯度側器ももつ者、ペンを持つ者、聖書や旗をかざす者、さらにはうずくまって合掌している僧服の者もいた。みな名ある人物にちがいない。





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S

2017-08-07 | 司馬遼太郎


司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 22 南蛮の道Ⅰ』★★★

http://publications.asahi.com/kaidou/22/index.shtml


突き詰めてるなぁと思う。
夢中でバスク地方まで真夜中読書
このおもしろさを語る人はまだいない(語りたい?)



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「汝らは自由に召されてある。ふたたび奴隷のくびきにつながれてはならない」
といったエラスムスの像は、はるかにかれの母国のオランダから日本にやってきたことからおもうと、船にちなむ名がついても、さほどおかしくはない。像はいま東京国立博物館にあるはずだが、私は写真以外見たことがない。



粘土から人をつくる、という。後世、ナポレオンの事歴についても――かれは泥土から将軍をつくった――という言い方がどの書物かで使われているが、ヨーロッパには古くからそいういう言い方が存在していたのかもしれない。要するにロヨラによれば、イエズス会士になる以前のザヴィエルは粘土にすぎず、説得四年にしてようやく「人」になったのである。
ヨーロッパには、古くから回心という精神現象をあらわすことばがある。人間が、ある動機によって精神的変化をおこし、いままでとは全くちがう精神世界に入ることをいうのだが、ザヴィエルの回心は一五三三年二十七歳の夏だったというが、やや信じがたい。たしかにロヨラの門に入り、教会で誓い、心霊修行をするという別人になるのは、その翌年、二十八歳の夏――この年に日本では織田信長がうまれている――で、この年が回心の年であると考えたい。




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ザヴェルとロヨラ



そしてS・カンドウ

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真偽などはどうでもよい。S・カンドウの生涯を決定したのはかれの隣家のプレートだったろうことは、疑いを入れ得ないことのように思えてきた。



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羊群を「けばくず」
この表現には笑えた。



---



窓が一つあいている。その窓ぎわに、石の腰掛けがあって、面がなめらかにすり減っていた。
すわると、窓ごしに、藍色の山が見えた。窓で切りとられた外界は、光りで描いた絵のようであった。山が、しきりに動いている。山の稜線にクリームをかけたように濃い朝靄がかぶさったいて、その靄がはげしく流れている。このため山が動いているようにみえる。
「あの山は、ピレネー山脈ですか」
ときくと、修道士さんは、赤ん坊の口うつしに言うように、れいれ、と言い、言いつつ、石の上にLEYREと指で描いた。ザヴィエルが十九歳までの日々、朝夕の山の変容をこの窓から見、れいれというその名を何千、何万度となく口にしたろう。そうおもえば、銀の小さな鈴がころがる音のようにきこえる。歳月もナポレオン軍も奪えないのが地名というものである。



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ロヨラ。
イグナティウス・デ・ロヨラ。
「イニィゴ」というバスク名前でよばれた貴族。
狂相の人。
パンプロナ城の篭城戦で脚をくだかれた傷痍軍人。
地上で仕えるべき主をうしなった人。
パリ大学における者覚えのわるい老学生。
人文科学者エラスムスや、宗教改革者ルターを害虫のように思っている人。
脱落しきっている教会に憤りをもたず、逆にヨーロッパを津波のように浸しつつある反教会、反カトリックの気分こそ雲霞のような敵と見、籠城戦の最後の勇者のように、孤剣をもって戦おうとした人。
その生涯をただ一点の主題に集約した人。
聖人







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ザヴィエル城





ロヨラ城を訪れ「来なきゃよかったですね」・・・(笑)




























フランス領バスク スペイン領バスク

国境 ロンスヴォー峠



そしてお次はポルトガルへ・・




























台風5号の行き先に翻弄される?


ケータイを会社に忘れた~
途中で気づいて戻ろうと思ったけどやめた。
日々どれだけ依存しているかが スゴク わかる。

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S

2017-08-04 | 司馬遼太郎


司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 21 神戸・横浜散歩、芸備の道』★★

http://publications.asahi.com/kaidou/21/index.shtml


まず芸備の道
・・・芸備ってどこ?

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広島県は、旧分国の国名でいえば安芸と備後とから成っている。
「中国の律儀」
などと、戦国時代、京都あたりではいわれた。中国者というのは、概して聡明だが機鋒をおもてに出すことなく、どこかおっとりしている。外交上、約束したことはかならずまもる、という印象であったろう。むろん中国のなかにその例外が無数にいるにしても、そういう印象を領域外のひとびとに持たしたというのは容易なことではない。
この場合の中国者とは、山陰・山陽十数カ国のすべてに対していったのではなく、具体的には毛利氏のことをいったかとおもえる。とすればその勢力の根拠地は安芸のことであり、次いで備後のことにちがいない。
安芸の風土をおもうとき、ついうかぶのは、
「安芸門徒」
ということであろう。とくに国名をつけてよばれてきたゆゆしさを思わねばならない。


---

毛利氏についてのお勉強



そして神戸
司馬遼太郎が大阪在住だったからかちょっと滑稽じみた文に笑いが・・
確かに異人館やら街並みやら(わたしの記憶は20年前)異国情緒が溢れてる。

---


「神戸の娘さんが、よう言いますな。人間にうまれてよかった。それも神戸に住んでいてよかった、というふうに――」
「それは、どんな娘さんでしょう」
「ふつうの娘さんですよ」
「そういう娘さんは、どこにいますか」
「どこにでもいますよ」


---

ははは


そして横浜(好き!)

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下船して、遠ざかってからもう一度氷川丸を見た。さまざまな意味をこめて、この記念碑的な船は横浜の象徴だとおもった。


---

また偶然にも?来週氷川丸~ たまには親孝行的な・・




























夏休みということを忘れて行ったサンシャイン水族館
チケット売り場が長蛇の列・・



うーん涼やか
そうこの空飛ぶペンギンが見たかった!


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S

2017-08-02 | 司馬遼太郎


司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 20 中国・蜀と雲南のみち』★★

http://publications.asahi.com/kaidou/20/index.shtml

20冊目ともなると感慨深い。
ただもう突き進むしかない?
まだ半分にも満たないと思うと司馬遼太郎ってスゴイ・・
一度読んだだけじゃ得られないものがたくさんあるから旅は永遠となる。

自己判断の★が多いものに関しては再読必須!

お盆休みは新盆もあり読書している場合じゃなさそう
夏読書として何を読もうか考えるとわくわくするけど、
やっぱり司馬遼太郎?(笑)
春樹のハードボイルドワンダーランドを久々にじっくり読みたいのもある。
あと実家から持参したドフトエフスキー
夏にロシア世界はある意味涼しく感じそう。

なーんて書いているけど本当に夏?どんよりしたお天気が続く。
梅雨明けしないまま8月になった感
でも暑くない夏でうれしかったりする。

「このまま冬になってほしい」



---



四川省は、古来、巴蜀(はしょく)とよばれた。
巴は現在の重慶を中心とし、蜀は現在の成都を中心とする。中国の奥地である。
山多く、水流も多い。天水をこの広大な山岳地帯にたくわえ、あまたの急流をなして流し、やがて諸川が長江(揚子江)の水となって中国大陸をうるおしている。いわば中国大陸の巨大な水甕のような地である。



蜀へゆくことは、古来、
「入蜀」
という。わざわざこの熟語があるのは、行路の難があるために相違ない。



竹添井井(せいせい)



「四川の犬は、太陽を見て吠えるというのです」
と、いった。四川の犬たちは地球のすべてが曇天であると信じて生涯を終える。



「四川省は、雨が多いですよ」
と、江南に住む中国人からきいたことがある。たしかに多雨であるらしいが、雨の降りかたが、変わっている。
「巴山夜雨」
という。巴が四川省の重慶付近であることはすでにのべた。蜀である成都中心の平野も、巴とおなじ四川省の自然地理のなかにあるため、「巴山夜雨」である。雨は深夜に降る。おかげで、日中はたいてい傘要らずで済むのである。



都江堰



『三国志』



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偶然にも先日横浜中華街へ。
平日の夕方の元町をふらっと散策して中華街へ。







「やっぱり四川でしょ!」

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S

2017-07-26 | 司馬遼太郎


司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 19 中国・江南のみち』★★

http://publications.asahi.com/kaidou/19/index.shtml

結構なスピードで進む。
最近始発に味をしめてしまい座って通勤読書
朝の冴えわたる時間
没頭30分
先週なんて降りる駅を通過するぐらい世界にハマり込んでしまった。

司馬遼太郎


---



「呉服」
という日本語も、もともと蘇州の絹織物ということをさした。はるかに歴史の遠い春秋のころの呉の国の服ということでは、なんとも時間感覚として大がかりすぎる(ここで、書きもらしたことを大急ぎで言い足しておく。中国史にあっては、春秋の呉国以後、同名の国が二度あらわれる。よく知られるように、三国時代の呉国と五代十国の呉国である。いずれも揚子江下流地方を本拠としただけで、蘇州を国都とはしなかった)



---



古代日本が、漢をもってアヤと和訓していたのも、まことに微妙である。古語のアヤ(綾・文)は、絹織物からきた。織りでもって模様を縦横に表現したのをアヤという。またその紋様をもアヤという。そういう豪華なものはみな海外の文明の源泉からやってくる。その源泉が漢であり、かつ漢がアヤなのである。

アヤは『古事記』『日本書紀』『万葉集』などのふるい言語例において、形容詞(あやし)、副詞(あやに)、動詞(あやしぶ)にもなった。アヤは、最初は綺麗なという感じからはじまって、やがて、霊異なほどに、また現実(うつつ)とも思えぬほどであるために怪しむ(怪しぶ)というように変化する。
古代日本人が、アヤである漢の文物(とくに絹織物)に最初に接するのは、朝鮮半島経由によってである。古朝鮮の南部の小地域に伽羅(伽耶ともいう)国があり、古日本では任那(みまな)とよんでいた。伽羅はしばしばアラと発音され、伽耶もしばしばアヤと発音された。綾織の絹織物は当初「アヤ(伽耶)の物」とよばれたのではないか。アヤ(伽耶)の文化の源泉は漢にあることから、漢という文字もまたアヤとよばれたと考えるのは、ごく自然である。



---



六朝文化の本質は、秦・漢以後の中国では例外的なほどに貴族文化であることだった。遊情の風をもち、漢民族にはめずらしく政治をもって至上価値とする精神が乏しかった。むしろ政治を野暮とし「風流」を重んじた。風流という語と思想と態度が、やがて百済経由で日本に定着する。風流至上、政治は野暮という六朝の気分はのちのち平安朝の文化を染めあげ、こんにちなお日本人の政治観に投影しているのではないか。



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「海を見ようよ」


「ね、張さん、海を見ようよ」



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…その気持ちわかる(笑)
それに対して応える張さんの思いもがけないおもてなし。
ジャンク!!




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S

2017-07-18 | 司馬遼太郎


司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 18 越前の諸道』★★★

http://publications.asahi.com/kaidou/18/index.shtml

連休を前倒しして帰省+小旅行
もちろん司馬遼太郎持参だけど、19以降がまだ手元にない・・
同時進行読書で長嶋有を挫折・・
他に興味がなく依然司馬ワールド

しかし19も残りわずか・・そこで考えているのは江國香織
むふ!
あまりにも世界観がちがうから新鮮に感じるかなと。
この現状を楽にするためのバイブル(・・死語?)

と旅をする前に記した。

溜まりに溜まった旅の写真を整理して3000枚からスタート☆



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道元の時代の中国では、「倭」は土俗めいた呼称になり、日本という正式なよび方は十分知られていた。たとえば道元より半世紀のちのうまれであるマルコ・ポー
ロが、『東方見聞録』の中で、「日本」(チパング)という呼称を用いている。
しかし一方、どの文献であったかいま思いだせないが、当時、南中国の海岸地方のひとびとは、土俗として、日本人のことを「ワクワク」(倭国倭国?)とよんでいたという。たとえばアラビアの航海者がきて、潮洲あたりの港で月代(さかやき)を剃った異風の者を見て、土地の者に、あれは何人だ、ときく。
「あれは、ワクワク」
と、土地の者が答える。
ともかくも道元の当時、中国にあっては、日本および日本人について、正俗両様のよび方がおこなわれていたのである。



---



「泰山娘娘」(たいざんにゃんにゃん)

日本も古代から神南備信仰という古神道的なもののほかに、山岳の神異と霊気に依存する信仰があり、その後、密教化した修験者(山伏)が活躍し、こんにちで
も、大和の大峰山や、出羽三山、あるいは富士山などで、その信仰が生きている。
仮りに、霊山信仰とよぶ。
この霊山信仰には道教の影響があるとする考え方がある。思考法としてむろんまちがいはないかと思われる。しかし証拠があるわけではない。



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わたし連続読みが好きみたい・・
そこにくいついてしまう。
ねぇとんとん?「とんとんはとんぼ帰りだよ」
ぶーぶーそしてぷーぷー
りんりんもいたね。



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古代は、神々は里人に祟りをなすものであった。里人が崇めているかぎり、無言であった。里人が不浄をなせば、崇った。
「崇(あがめる スウ)」
「祟(たたる スイ)」
は、文字として似ていて、古書でさえ、よく混同される。しかし、まったくの別字である。といって、意味は背中あわせでもある。



---








一乗谷・・想い出深い場所

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S

2017-07-10 | 司馬遼太郎


司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 16叡山の諸道』★★

http://publications.asahi.com/kaidou/16/index.shtml

叡山 比叡山 延暦寺

過去なぜに興味を持ったのかメインで訪れたことがある。
それも中央道で(新東名がなかった)
助手席でいつの間にか寝入ってしまっている内に到着
早朝の比叡山
清々しさは覚えているけどその他の記憶がない・・ くやしい。



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法華大会(広学豎義)

最澄の天台宗、空海の真言宗

日本の歴史の中で最澄と空海の存在は大きい。




念仏と言いうのは、理屈(はからい)があっては入れず、いきなり信ずることから入らねばならないとされる。



大講堂を出て巳講坂をくだるとき、夢の国から出てきたような思いがした。



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石川丈山(1583~1672)
詩仙堂と名づける風雅な一庵を設け、庭なども修学院村の田園を借景し、邸内の小建築にいちいち漢名をつけ、たとえば老梅関、至楽巣、嘯月楼、小有洞、洗蒙瀑、流葉陌、百花塢などというようにしつらえて、隠逸を愉しんでいる。


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2017-07-09 | 司馬遼太郎


司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 17島原・天草の諸道』★★★

http://publications.asahi.com/kaidou/17/index.shtml


週末奥多摩へ。
そのお供とし残り少ない16は置いて、お次の17を持参
今回のダークネタはいきなり最初から・・松倉重政(知っている人いる?)
早朝から針刺し責め、硫黄責め、子責め、温泉地獄責め、木馬責め、竹の鋸による斬首、焚殺、それもいきなり火で殺すのではなく、受刑者から距離を置いて火を焚き、できるだけながく苦しませて殺すという火刑・・

日本史のなかで、松倉重政という人物ほど忌むべき存在はすくない。

松倉ねぇ



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重政の郷里の方言に、
「がんまつ」
ということばがある。
人がなんといおうとも、あるいは人の利害や感情にはいっさいおかまいなしに、めざす物に猿臂をのばし、摑みどりにつかんで放さぬという性格をいう。
「あいつはがんまんなやつだ」
というふうにつかう。
京都府の「ごりがん」ということばと似ているが、ごりまんはまだ可愛い。がんまつのほうは、物欲、名誉欲のエネルギーがはげしく、計算もたけだけしくて、どすがきいている。

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どうかしら?

島原の乱(1637年)


もー司馬遼太郎にハマり過ぎてる。
抜粋より読む読む


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私は二十年前、この町にきて旧城下の下士の集落がのこる鉄砲町を歩いたりしながら、人に会うたびに、
「あの眉山はいいですね」
などといった。当時、私は「寛政の大変」といったことを知らず、ただ市街地にのしかかる山容の大きさが気になって、会うひとごとにそう言っていたまでのことである。が、ひとりとして、
――あの山は割れたことがあるんです。
と教えてくれたひとがいなかった。こんどの旅でも、眉山の山容についての感想を語ってみたが、たれもこの山についての話題を深めようとはしなかった。
私が島原人でもそうしたにちがいない。



島原を故郷とし、あるいは島原を暮らしの根拠地とし、さらには地球上で島原ほどいいところはない(事実、そうではあるが)と信じている土地のひとびとにとって、遠い過去に松倉という例外的なほどのわるい大名の父子がやってきて度外れた悪政をやったということや、切支丹に対する大虐殺がこの土地でおこなわれたなどということは、思いだしたくもないことである。
さらにいえば、眉山もいまは無事であり、しかも山の地質的な様子からみて未来永劫に無事であろうと思われる以上、二世紀ほど前にそういう地異があったということなど、執拗に思いだす必要もない。それらの悲惨さについてしつこく思いだすことで一種の芸術的快楽を感じる精神的体質はむろんありうるし、あっていい。しかしふつうわれわれはそういうぐあいにはなってないのである。



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人間は自然に依存するもろい生きものにすぎない。そのことは、陸にいるときよりも海にうかんでいるときにはなはだしい。



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旧漢字?が見つけられなかった。



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徳川幕府の性格がもつ暗い面――鎖国と切支丹禁制――が、島原が半島であるために陸づたいにやってきて、そこに悪液質が集中的に滞ったとも思える。おなじ目に遭っていながら、口之津―鬼池間海上七キロの天草にあっては、どこか風穴があき、どこにあるとも知れぬステンド・グラスから一条の光がさしこみつづけていたような印象がある。



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隠れ切支丹



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「天草といえば、本渡ですから」
と、たれかがいった。



秀吉の大坂建設以来、その後にできた江戸、広島、仙台、福岡、岡山など、日本の近世都市のほとんどが、鉛版のように河口にできた低湿地に造られるようになったということは、この『街道をゆく』のどこかでふれた。天草の主要都市である本渡までがそうであるというのは、おもしろい。



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国侍、国人、国衆とよばれた天草五人衆(小地主)



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「人物」というのは、どのように生きてきたかということについての内容と、その内容を形成するだけの時間をふくめての言葉であるにちがいない。



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天草四郎時貞



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しかし、篭城って壮絶だな・・

味方になっても最後にはつぶされる・・



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――もはや、戦国の世ではないぞ。
と、たれかが冷静に諭したところで、無駄であったろう。奇妙なことだが、戦国という乱世ほどひとびとの思考態度は冷静で、思考法は合理主義的であり、決して政治や宗教についての集団妄想はおこなわれないのである。
集団妄想は、むしろ治世の産物であった。



島原・天草の一揆は、本質として農民一揆であり、切支丹という宗教一揆ではない



「切支丹」
といえば、後世、島原と天草を連想するまでになった。



---

この時代、物を書く人が多かったらしい(今で言えばブロガー?)



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大名というものは、たとえ藩境を接した他藩で反乱・一揆その他がおこっても、幕命がないかぎり兵を出せない



「身上、果て申すべき仁」



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知らなかった。



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禅宗は、自己一己の解脱のみを説く。他宗のように、神仏に頼み、祖先の霊にたすけをもとめたりする他力の心があればそれだけ解脱への勇猛心が弱まるとする。
「祖仏共二殺ス」という千利休の辞世の偈が禅の本質をよくあらわしている。


---



「天草というのは、山も海も、ものを言っているみたいですね」
須田画伯が、いった。



---
































「平気よ。自分の価値は知ってる」颯爽とね。

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2017-07-03 | 司馬遼太郎


司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 15北海道の諸道』★★★

http://publications.asahi.com/kaidou/15/index.shtml


ハイペースでこちらも読破☆
しかしどこまでハマる?司馬遼太郎
我ながらおかしい。
一分一秒が惜しいけど、でも夜読書は眠くなり即落ち・・
今週も残り半分と思っても週末になるとどこかへ行きたくなる。


15巻目にしてHP拝見
http://www.shibazaidan.or.jp/

この先読み進め、その先何に手をつけるか・・
本棚の司馬遼太郎の書籍を眺める。永遠
司馬遼太郎全集(全68巻、文藝春秋)
いつの日か・・


さて今回の北海道
開陽丸については初耳
そして先日読んだ十津川街道からの新十津川町について。
感慨深い。
北海道の吹雪は『北の国から』しか浮かばないけど、
どんなに過酷だったことだろう・・

陸別



「須田画伯」で通じる友がほしい。
(笑)

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S

2017-06-27 | 司馬遼太郎



司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 14 南伊予・西土佐の道』★★★


http://publications.asahi.com/kaidou/14/index.shtml
これはどきどき。
伊予弁?に癒されているから余計に感慨深い「そうなんよ~」







---


生温い四国弁というが、讃岐、阿波、土佐にはあてはまりにくい。
伊予弁だけがそうで


---

そうそう(笑)
先日の家族とのやさしさあふれるやわらかい会話を聞いてホント泣きそうになった。
(同じこと言っているけどそれだけ印象深かった)

ここまで来るときっかけがない限り捨てるわけにもいかない??








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伊予は愛比売で、文字どおりいい女という意味である。
ずいぶん粋な言葉を県名にしたものだと思うが、おそらく松山の教養人が『古事記』を披いて江木に見せ、その判断資料にしたのではないか。



---



松山という地名は、秀吉のころここに城と城下をつくった加藤嘉明が、正木(松前)の城からいまの松山城の丘に城を移したのだが、赤松の美しさを見て松山と命名したといわれている。



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『愛媛面影』

伊予第一の川ということで、伊予川とよばれていた。重信というのは、改修者の名である。日本の河川で人名がついているのは、この川だけではないか。


比志川(註・肱川)の流れを引て、城郭の遠望、殊にめでたし。

とあるが、私も、日本の旧城下町でこれほど美しい一角を持った土地はないと思ったりした。
「大洲はいいですよ」



---



伊予人の気風は南にくだるにつれてのびやかになるといわれている。



---



うだつは、卯建と書いて、かつてはうだちともいったらしい。



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あきちゃん元気かな・・







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豊臣政権のときには、南伊予は戸田氏、藤堂氏、富田氏がそれぞれみじかい期間、領主になった。
伊達氏が宇和島十万石に封ぜられるのは徳川幕府草創期の慶長十九年(一六一四)で、途中転封されることなく明治四年(一八七一)の廃藩置県にまでいたる。
伊達氏の統治は、農民に対するとりたてなども、二百数十年を均していえば廃藩に比してきびしくはない。藩政はほぼ安定し、宇和島らしい庶民文化を成熟させた点、江戸期の諸藩の政治のなかでも出色といっていい。

伊達氏とは、いうまでもなく奥州の伊達氏である。


奥州人が奥州人だけで一個の行政組織を編成して白河ノ関以西に領地をもつというのは、私の知るかぎりでは史上最初のことで、その後もない。
ましてその封地が南海道(紀伊と淡路それに四国)であり、そのなかでも温暖で物成りもわるくないとされる南伊予なのである。



---







なぜか漢字ではなくひらがなのかわいい文字を探せなかった・・
司馬さん♪


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