The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
ひろさちや・著“法然を読む”を読んで
定額減税、効果ある~ン?
給与所得者でない私にはどんな恩恵があるのか?確定申告で恩恵?確定申告しなければ恩恵なし?
そやけど電気代上がる~ンやろ?政府の経済政策はどないなってん?思い付きでやってんの?
もう政治は滅茶苦茶か?
小石河洋子?次期首相候補だというが、替り映えせず、いささか賞味期限切れ?食えたもんか?
クマ、シカ、イノシシ増え過ぎ?千葉ではキョン?尖閣ではヤギ?
このまま野生生物とどうやって共存するンか?
日本の政治ってどうなってん?何もかもSNSやAIも、ホッタラカシ・・・・
政治家は政治資金の稼ぎ出しに躍起で、そんなんド~デモ・エエねん!!!
もう日本の将来は滅茶苦茶か?
台湾周辺の海がきな臭い!ニューカレドニアも危うい!
日本はそれどころじゃ~ぁない!オオタニショウヘイであぁイソガシ!
アホアホであぁシンド!
さて、一旦親鸞の師匠の法然を飛ばして『ひろさちやの「親鸞」を読む』 を読んでしまった。何やら焦って先走ったのである。だが、誰しもが言うのは、“法然があっての親鸞であり、法然なしには親鸞は語れない”。やっぱり、その身勝手はまずいとばかり、今回は同じ“ひろさちや”氏の同じシリーズの『ひろさちやの「法然」を読む』を読んだので、報告したい。
【出版社内容情報】
「すべての人が救われる道」を模索し、その布教に生涯を捧げた鎌倉新仏教の旗手・法然。多くの民衆から支持され、迫害にも負けない強固な信仰を支えた「浄土の教え」の真髄を、日常生活になぞらえつつ解き明かす。
ただ念仏のみ―。“法然入門”の決定版!ナムアミダブツの真髄がここに。
【目次】
第1章 『一枚起請文』
第2章 万人救済の道を探って
第3章 ただ念仏だけでいい
第4章 悪人正機
第5章 極楽浄土と南無阿弥陀仏
第6章 阿弥陀仏におまかせして
【著者等紹介】ひろ・さちや
宗教評論家。1936年、大阪府生まれ。東京大学文学部印度哲学科卒業、同大学院印度哲学専攻博士課程修了。1965年から85年まで気象大学校教授。現在、大正大学客員教授をつとめるかたわら、執筆や講演活動とともに、宗派をこえた仏教徒の会「まんだらの会」を主宰する。著書に『仏教の歴史(全10巻)』(春秋社)、『釈迦とイエス』(新潮社)、『わたしの「南無妙法蓮華経」』『わたしの「南無阿弥陀仏」』『ひろさちやの「道元」を読む』『ひろさちやの「親鸞」を読む』『ひろさちやの「空海」を読む』(以上、佼成出版社刊)ほか多数ある。
この本の“まえがき”で著者は日本に当初入ってきた仏教は大乗仏教のはずだったが、基本を忘れた“一種のエリート主義の仏教”であったと指摘している。“そのような特権階級のための仏教を、仏教が本来あるべき姿、すなわち、――民衆のための仏教――に戻した思想家が、平安末期から鎌倉時代にかけて活躍した法然です”と紹介している。したがって、“偉大なる宗教改革者”であるとも言っている。
著者は“彼は仏教を、最初にそれを説かれたお釈迦さまの精神に戻した”と言う。“お釈迦さまはすべての人の救いを説かれ”たのであるから、“一部の特権階級の人だけが救われるのが仏教ではない”。“最底辺にいる人々が救われてこそ、お釈迦さまの願いが成就する”、“法然はそう考え、そうして仏教を改革”した。
最底辺にいる人々のための仏教は“むずかしい学問の要るもの”や“そのための修行が要るもの”では駄目で、“誰でもが実践でき、誰でもがわかるもの”でなければならない。“法然が説いた仏教は、そういうやさしい、誰もが実践できる仏教”であった。
“残念ながら、21世紀の日本の仏教は――死者のための仏教――になっていて、いわゆる「葬式仏教」で、生きている人々の悩みに対しては無関心、ただひたすらに死者のための儀礼ばかりやって”いる。それは、“出家者・僧侶のための仏教”である。それでいいのか?“いまこそ、法然上人に戻るべき”ではないかと、言っている。そのためにこの本をつくったと著者は述べている。読者と共に考えてみたいと。
ところで、第1章は『一枚起請文』となっている。その冒頭にその理由を述べている。著者は仏教徒として、朝に『般若心経』、晩に『一枚起請文』を読んでいるという。『一枚起請文』は短い文章で“法然が生涯を通して称えた念仏の本質が簡潔明瞭に著されている”からだという。これにより、教えのエッセンスを伝えたいという。
それは法然が亡くなる二日前に弟子の求めに応じて病の床で書いたものだという。“自身が教え弘めたお念仏が後世、間違った方向に進むことなく、その根源である称名念仏が脈々と受け継がれるようにと願いつつ、戒めとして一紙に託した”とされている。
内容としては“阿弥陀仏の極楽浄土へ往生を遂げるためには、ただひたすらに「南無阿弥陀仏」とお称えするのです。一点の疑いもなく「必ず極楽浄土に往生するのだ」と思い定めてお称えするほかには、別になにもない”が眼目。
それに続いて必要な心構と態度の三心四修に言及するも、それさえも「必ず極楽浄土に往生するのだ」と思い定める中に、おのずと具わる、と言っている。“三心”とは“至誠心(しじょうしん・真実の心)”、“深心(じんしん・深く信じる心)”、“回向発願心(えこうほつがんしん・一切の善根を往生極楽のために向けようとする心)”であり、“四修”とは“恭敬修(くぎょうしゅ・阿弥陀仏をうやうやしく礼拝する)” 、“無余修(むよしゅ・念仏だけを称え、他の行をまじえない)”、“無間修(むげんじゅ・間をおかずに引き続いて念仏を称える)”、“長時修(ちょうじしゅ・念仏を一生涯修する)”である。
“これ以上知ってとやかくいう者がいたら、お釈迦さまと阿弥陀さまの二尊の憐れみからもはずれてしまう、本願からもれてしまう。だから、わたしたちは何も知らなくったっていいわけ”である。“たとえ、お釈迦さまが説かれた一代の法をすべて勉強したとしても、何も知らない愚か者の立場に自分の身を置いて、後生を信じて念仏に専念しなさい”という。
“(正式な僧として)勉強した人間であっても無学な私度僧(尼や入道)たちと同じように愚かなのだと自覚して、ただお念仏しなさい”。
以上が『一枚起請文』の解説であり、法然が説いた“浄土門” の世界である。
ただし、念仏や“南無阿弥陀仏”と称えることは、法然が言い始めたことではないという。最澄のはじめた天台宗ではお堂に90日間こもって阿弥陀様を心に念じ、念仏を称えながら阿弥陀像の周りをひとときも休まずぐるぐる回る“常行三昧”という修行法があった由。念仏を称えることについてはその他にも、天台宗の学僧・源信(942~1017)は“二十五三昧会”という僧と貴族が合同で不断に念仏を称える会合を開催したり、『法華経』などを読誦する念仏講もあった。市の聖の空也(903~972)や融通念仏の良忍(1073~1132)も念仏者として知られているとの指摘である。
ここで注意するべきは、念仏を称えるのは悟りを開くためにするのではなく、“極楽往生のためだけ”である、ということ。“往生”とは“阿弥陀仏がおられる西方極楽浄土に「往きて生まれる」”ことで“成仏”とは異なる。“成仏”とは“仏になること”。つまり、
“往生”とは“浄土に往って、そこで成仏を目指して修行する”こと。“浄土はこの娑婆世界のように修行の妨げとなるさまざまなものがなく、修行に専念しやすい場所だから”だという。“浄土に往生すると、三悪道(地獄・餓鬼・畜生)にも堕ちないので安心して修行でき、成仏するのにもっともすぐれた環境”だという。
『一枚起請文』でのもう一つの重要な概念は、“還愚(げんぐ)”つまり“「愚か」に戻りなさい”ということ。“この世の中の賢いといわれている道理や見方を捨てなさい”ということであり、“賢いふりをしてこの娑婆世界で悟りを開こうとするのではなく、ちっぽけな人間なのだと自省して愚に還り、極楽に往生しようと民衆に呼びかけた”のが法然だという。
そうか、生きている間は“悟りを開くのは無理”ということなのか。生きている間は聖者になれず愚者のままで驕らず過ごし、死んで極楽往生してようやく、まともな修行が出来、悟りをひらけるということなのだろうか。じゃぁ、お釈迦さまはやっぱり、人ではなかったのか。
ここで、日本史で習った“末法思想”が登場する。“お釈迦さまの教えが時代とともに効力がなくなって、ついには人々を救うことができなくなる時代がくる”という終末思想のこと。お釈迦さまが亡くなられてから千年間を“正法”の時代、次の千年を“像法”の時代、それが終わると“末法”の時代となる。 それが一万年続き、その後“法滅”を迎えるとされていた。“当時日本では、一般的に永承七年(1052年)から末法の時代に入ったとされて”いた。(現代ではお釈迦さまは紀元前486年頃に亡くなったとされるが、当時は紀元前949年と信じられていた。)
そして永承6年(1051年)に前九年の役が起き“奥州十二年合戦”が始まったという。この末法思想により藤原頼道が永承八年(1052年)に宇治の平等院鳳凰堂が建立される。そして次第に政治は武家政治に転換していき、天皇を中心とした古代律令制が実質的に成立しなくなって行った。
天皇に実権が無くなれば、鎮護国家のための仏教の存在意義は崩れる。つまり天皇に助言する官僧は不要になる。“法然が生きた時代は、お釈迦さまの教えを民衆に直接はたらきかけて、不安と荒廃がすすむ人心を救うよりほかはないという局面まできていた”のだという。“そこで時代に要請されたのが――直接、民衆にはたらきかける仏教――だった”ということなのだ。法然はそれに上手く乗り、結果として浄土系仏教が日本の最大仏教となったのだろうか。
恐らく、僧尼令も取り締まる天皇政権が弱体化するに従い無力化して、私度僧も勝手放題になって行ったのであろうか。とにかくやはり法然は確かに時代を画期するすごい歴史上の人物だったのだ。
何だか、これで全てかのように思えるが、第1章の説明にしかなっていない。第2、3章はほぼ法然の生涯とエピソードを語っている。そこでは平敦盛を討った熊谷直実、一の谷で生け捕りになった平重衡、有職の公卿・九条兼実の法然への帰依が語られている。
第4章 悪人正機では、親鸞の弟子の唯円の『歎異抄』に出てくる“「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」が有名で確か親鸞の言葉として習った気がするが、その文章には「とおおせそうらいき」という言葉で結ばれている、という。ほかの文章は「と云々」で終わっている場合が多く、それは「親鸞上人がそう言われました」という意味。そうなれば「とおおせそうらいき」で終わっているこのくだりは、親鸞が誰かの言葉を引用したことになる。それはおそらく法然だろうと考えられる。”そしてやっぱり、最近の学説では法然の発想となっている由。
この場合、悪人とは法然では“善悪、誰でも”になるが、親鸞にとっては“「(完璧な善人は居らず)みんなが悪人。だから阿弥陀仏におすがりするしかない」ととことん突き詰める”という両者の違いがあるという。
第6章には“一念義と多念義”の問題を取り上げて、法然の考え方を説明している。念仏は数多く称えるのか、信心のともなった念仏はたった1回の念仏でも往生できるのかの問題である。法然は結局――念仏できさえすればいい――というもの。著者はそういう法然を“ものすごくスケールが大きく、おおらかな人でした。わたしは数多い仏教の高僧のうちで、その人柄において法然がいちばん好きです。”と語っている。
また、“親鸞という人は、哲学的にものごとを考えますが、法然はそういう意味ではまったく「いい加減」なひとです。ただ、法然は親鸞のようにものごとを細かく追及する姿勢を、煩悩による迷える姿ととらえていたのかもしれません。”とも言っている。
給与所得者でない私にはどんな恩恵があるのか?確定申告で恩恵?確定申告しなければ恩恵なし?
そやけど電気代上がる~ンやろ?政府の経済政策はどないなってん?思い付きでやってんの?
もう政治は滅茶苦茶か?
小石河洋子?次期首相候補だというが、替り映えせず、いささか賞味期限切れ?食えたもんか?
クマ、シカ、イノシシ増え過ぎ?千葉ではキョン?尖閣ではヤギ?
このまま野生生物とどうやって共存するンか?
日本の政治ってどうなってん?何もかもSNSやAIも、ホッタラカシ・・・・
政治家は政治資金の稼ぎ出しに躍起で、そんなんド~デモ・エエねん!!!
もう日本の将来は滅茶苦茶か?
台湾周辺の海がきな臭い!ニューカレドニアも危うい!
日本はそれどころじゃ~ぁない!オオタニショウヘイであぁイソガシ!
アホアホであぁシンド!
さて、一旦親鸞の師匠の法然を飛ばして『ひろさちやの「親鸞」を読む』 を読んでしまった。何やら焦って先走ったのである。だが、誰しもが言うのは、“法然があっての親鸞であり、法然なしには親鸞は語れない”。やっぱり、その身勝手はまずいとばかり、今回は同じ“ひろさちや”氏の同じシリーズの『ひろさちやの「法然」を読む』を読んだので、報告したい。
【出版社内容情報】
「すべての人が救われる道」を模索し、その布教に生涯を捧げた鎌倉新仏教の旗手・法然。多くの民衆から支持され、迫害にも負けない強固な信仰を支えた「浄土の教え」の真髄を、日常生活になぞらえつつ解き明かす。
ただ念仏のみ―。“法然入門”の決定版!ナムアミダブツの真髄がここに。
【目次】
第1章 『一枚起請文』
第2章 万人救済の道を探って
第3章 ただ念仏だけでいい
第4章 悪人正機
第5章 極楽浄土と南無阿弥陀仏
第6章 阿弥陀仏におまかせして
【著者等紹介】ひろ・さちや
宗教評論家。1936年、大阪府生まれ。東京大学文学部印度哲学科卒業、同大学院印度哲学専攻博士課程修了。1965年から85年まで気象大学校教授。現在、大正大学客員教授をつとめるかたわら、執筆や講演活動とともに、宗派をこえた仏教徒の会「まんだらの会」を主宰する。著書に『仏教の歴史(全10巻)』(春秋社)、『釈迦とイエス』(新潮社)、『わたしの「南無妙法蓮華経」』『わたしの「南無阿弥陀仏」』『ひろさちやの「道元」を読む』『ひろさちやの「親鸞」を読む』『ひろさちやの「空海」を読む』(以上、佼成出版社刊)ほか多数ある。
この本の“まえがき”で著者は日本に当初入ってきた仏教は大乗仏教のはずだったが、基本を忘れた“一種のエリート主義の仏教”であったと指摘している。“そのような特権階級のための仏教を、仏教が本来あるべき姿、すなわち、――民衆のための仏教――に戻した思想家が、平安末期から鎌倉時代にかけて活躍した法然です”と紹介している。したがって、“偉大なる宗教改革者”であるとも言っている。
著者は“彼は仏教を、最初にそれを説かれたお釈迦さまの精神に戻した”と言う。“お釈迦さまはすべての人の救いを説かれ”たのであるから、“一部の特権階級の人だけが救われるのが仏教ではない”。“最底辺にいる人々が救われてこそ、お釈迦さまの願いが成就する”、“法然はそう考え、そうして仏教を改革”した。
最底辺にいる人々のための仏教は“むずかしい学問の要るもの”や“そのための修行が要るもの”では駄目で、“誰でもが実践でき、誰でもがわかるもの”でなければならない。“法然が説いた仏教は、そういうやさしい、誰もが実践できる仏教”であった。
“残念ながら、21世紀の日本の仏教は――死者のための仏教――になっていて、いわゆる「葬式仏教」で、生きている人々の悩みに対しては無関心、ただひたすらに死者のための儀礼ばかりやって”いる。それは、“出家者・僧侶のための仏教”である。それでいいのか?“いまこそ、法然上人に戻るべき”ではないかと、言っている。そのためにこの本をつくったと著者は述べている。読者と共に考えてみたいと。
ところで、第1章は『一枚起請文』となっている。その冒頭にその理由を述べている。著者は仏教徒として、朝に『般若心経』、晩に『一枚起請文』を読んでいるという。『一枚起請文』は短い文章で“法然が生涯を通して称えた念仏の本質が簡潔明瞭に著されている”からだという。これにより、教えのエッセンスを伝えたいという。
それは法然が亡くなる二日前に弟子の求めに応じて病の床で書いたものだという。“自身が教え弘めたお念仏が後世、間違った方向に進むことなく、その根源である称名念仏が脈々と受け継がれるようにと願いつつ、戒めとして一紙に託した”とされている。
内容としては“阿弥陀仏の極楽浄土へ往生を遂げるためには、ただひたすらに「南無阿弥陀仏」とお称えするのです。一点の疑いもなく「必ず極楽浄土に往生するのだ」と思い定めてお称えするほかには、別になにもない”が眼目。
それに続いて必要な心構と態度の三心四修に言及するも、それさえも「必ず極楽浄土に往生するのだ」と思い定める中に、おのずと具わる、と言っている。“三心”とは“至誠心(しじょうしん・真実の心)”、“深心(じんしん・深く信じる心)”、“回向発願心(えこうほつがんしん・一切の善根を往生極楽のために向けようとする心)”であり、“四修”とは“恭敬修(くぎょうしゅ・阿弥陀仏をうやうやしく礼拝する)” 、“無余修(むよしゅ・念仏だけを称え、他の行をまじえない)”、“無間修(むげんじゅ・間をおかずに引き続いて念仏を称える)”、“長時修(ちょうじしゅ・念仏を一生涯修する)”である。
“これ以上知ってとやかくいう者がいたら、お釈迦さまと阿弥陀さまの二尊の憐れみからもはずれてしまう、本願からもれてしまう。だから、わたしたちは何も知らなくったっていいわけ”である。“たとえ、お釈迦さまが説かれた一代の法をすべて勉強したとしても、何も知らない愚か者の立場に自分の身を置いて、後生を信じて念仏に専念しなさい”という。
“(正式な僧として)勉強した人間であっても無学な私度僧(尼や入道)たちと同じように愚かなのだと自覚して、ただお念仏しなさい”。
以上が『一枚起請文』の解説であり、法然が説いた“浄土門” の世界である。
ただし、念仏や“南無阿弥陀仏”と称えることは、法然が言い始めたことではないという。最澄のはじめた天台宗ではお堂に90日間こもって阿弥陀様を心に念じ、念仏を称えながら阿弥陀像の周りをひとときも休まずぐるぐる回る“常行三昧”という修行法があった由。念仏を称えることについてはその他にも、天台宗の学僧・源信(942~1017)は“二十五三昧会”という僧と貴族が合同で不断に念仏を称える会合を開催したり、『法華経』などを読誦する念仏講もあった。市の聖の空也(903~972)や融通念仏の良忍(1073~1132)も念仏者として知られているとの指摘である。
ここで注意するべきは、念仏を称えるのは悟りを開くためにするのではなく、“極楽往生のためだけ”である、ということ。“往生”とは“阿弥陀仏がおられる西方極楽浄土に「往きて生まれる」”ことで“成仏”とは異なる。“成仏”とは“仏になること”。つまり、
“往生”とは“浄土に往って、そこで成仏を目指して修行する”こと。“浄土はこの娑婆世界のように修行の妨げとなるさまざまなものがなく、修行に専念しやすい場所だから”だという。“浄土に往生すると、三悪道(地獄・餓鬼・畜生)にも堕ちないので安心して修行でき、成仏するのにもっともすぐれた環境”だという。
『一枚起請文』でのもう一つの重要な概念は、“還愚(げんぐ)”つまり“「愚か」に戻りなさい”ということ。“この世の中の賢いといわれている道理や見方を捨てなさい”ということであり、“賢いふりをしてこの娑婆世界で悟りを開こうとするのではなく、ちっぽけな人間なのだと自省して愚に還り、極楽に往生しようと民衆に呼びかけた”のが法然だという。
そうか、生きている間は“悟りを開くのは無理”ということなのか。生きている間は聖者になれず愚者のままで驕らず過ごし、死んで極楽往生してようやく、まともな修行が出来、悟りをひらけるということなのだろうか。じゃぁ、お釈迦さまはやっぱり、人ではなかったのか。
ここで、日本史で習った“末法思想”が登場する。“お釈迦さまの教えが時代とともに効力がなくなって、ついには人々を救うことができなくなる時代がくる”という終末思想のこと。お釈迦さまが亡くなられてから千年間を“正法”の時代、次の千年を“像法”の時代、それが終わると“末法”の時代となる。 それが一万年続き、その後“法滅”を迎えるとされていた。“当時日本では、一般的に永承七年(1052年)から末法の時代に入ったとされて”いた。(現代ではお釈迦さまは紀元前486年頃に亡くなったとされるが、当時は紀元前949年と信じられていた。)
そして永承6年(1051年)に前九年の役が起き“奥州十二年合戦”が始まったという。この末法思想により藤原頼道が永承八年(1052年)に宇治の平等院鳳凰堂が建立される。そして次第に政治は武家政治に転換していき、天皇を中心とした古代律令制が実質的に成立しなくなって行った。
天皇に実権が無くなれば、鎮護国家のための仏教の存在意義は崩れる。つまり天皇に助言する官僧は不要になる。“法然が生きた時代は、お釈迦さまの教えを民衆に直接はたらきかけて、不安と荒廃がすすむ人心を救うよりほかはないという局面まできていた”のだという。“そこで時代に要請されたのが――直接、民衆にはたらきかける仏教――だった”ということなのだ。法然はそれに上手く乗り、結果として浄土系仏教が日本の最大仏教となったのだろうか。
恐らく、僧尼令も取り締まる天皇政権が弱体化するに従い無力化して、私度僧も勝手放題になって行ったのであろうか。とにかくやはり法然は確かに時代を画期するすごい歴史上の人物だったのだ。
何だか、これで全てかのように思えるが、第1章の説明にしかなっていない。第2、3章はほぼ法然の生涯とエピソードを語っている。そこでは平敦盛を討った熊谷直実、一の谷で生け捕りになった平重衡、有職の公卿・九条兼実の法然への帰依が語られている。
第4章 悪人正機では、親鸞の弟子の唯円の『歎異抄』に出てくる“「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」が有名で確か親鸞の言葉として習った気がするが、その文章には「とおおせそうらいき」という言葉で結ばれている、という。ほかの文章は「と云々」で終わっている場合が多く、それは「親鸞上人がそう言われました」という意味。そうなれば「とおおせそうらいき」で終わっているこのくだりは、親鸞が誰かの言葉を引用したことになる。それはおそらく法然だろうと考えられる。”そしてやっぱり、最近の学説では法然の発想となっている由。
この場合、悪人とは法然では“善悪、誰でも”になるが、親鸞にとっては“「(完璧な善人は居らず)みんなが悪人。だから阿弥陀仏におすがりするしかない」ととことん突き詰める”という両者の違いがあるという。
第6章には“一念義と多念義”の問題を取り上げて、法然の考え方を説明している。念仏は数多く称えるのか、信心のともなった念仏はたった1回の念仏でも往生できるのかの問題である。法然は結局――念仏できさえすればいい――というもの。著者はそういう法然を“ものすごくスケールが大きく、おおらかな人でした。わたしは数多い仏教の高僧のうちで、その人柄において法然がいちばん好きです。”と語っている。
また、“親鸞という人は、哲学的にものごとを考えますが、法然はそういう意味ではまったく「いい加減」なひとです。ただ、法然は親鸞のようにものごとを細かく追及する姿勢を、煩悩による迷える姿ととらえていたのかもしれません。”とも言っている。
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