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政権移行

総選挙の結果、自民党が下野し、政権が民主党に移行した。
これまで どこか浮かない顔の おなじみ民主党の面々が活き活きした表情になった。そして、全体に 政治家達が若返ったような印象だ。実年齢の平均値が本当に下がったのかどうかは 良くは知らないが、政権のイメージは生新である。
まるで、白いキャンバスに自分たちのイメージを描き始めているようだ。実際に 描いて見ると その絵に 同僚政治家達の違いが 明確になり始める時期かも知れない。これまでは 言葉だけで一致していれば良かったが その言葉が 微妙な異夢であったことが現実になるのだ。これは人間社会では不可避の現象だろう。
その違いを乗り越えて、一体何が目的で どうするのが最も適切なのかを常に見定めて、自分のイメージを客観化して行って欲しいものだ。目的を見失わず 小異を捨てて大同に付く姿勢を崩さないことが 最も 求められることだ。
また、時としてその政権内での 自分に与えられたポジションに不満がある場合もあるかも知れない。しかし、当面は そういう不満はまず脇に置いて、与えられたポジションでの 自らのイメージを思い切り膨らませることに心を砕いて欲しい。とにかく、自分に何が求められているのかをよく考えて、それに自分のイメージを重ね合わせて、適切に設定された目的に向かって欲しい。それが みずから自身を大きくするプロセスであることを認識するべきだ。とにかく 活躍の場は与えられたのだ。
くだらぬことで目くじらを立てないようにして欲しい。そうでなければ、閣内不一致となって 折角の政権移行の実が 上がらないままに瓦解してしまうであろう。そうなれば 元も子もない。

これが、民主政体における“革命”と言うものなのだろうか。本当に“革命”であったかどうかは、これからの政治動向の結果によるのであろう。
“革命”ならば 将来の日本の姿は これまでの否定の中から おのずから見えてくる。現実的ユートピアは従前社会の否定の中から具体的に立ち現れてくる。目指すべき社会の具体像というものは容易に提示できるものではない。言葉だけで構成された 虚構のユートピアでは意味がない。

こうなると、やっぱり、小泉改革は“革命”ではなかったということが見えてきたように思える。何がそうさせるのか。それは 恐らく、官僚政治打破が不徹底であったからではないか。官僚政治の悪弊が 巨大な経済危機によって覆い隠され、一部の“革新官僚”を起用しての改革であったからかもしれない。そして 又 その成果は 一部の人々の大きな利益のためであったことが見え隠れしているからかも知れない。それまでの日本の既得権者の巨悪は葬られたかもしれないが、また別の悪の差配が始まっただけだったのかも知れない。あの巨大な経済危機は BIS規制も一つの契機としている。そこに外国の一部勢力との連携もあったのかも知れない。改革のフリをした利益誘導だった気配が濃厚である。だから、今になって 格差拡大という害悪が社会現象になったのだろう。小泉改革に協力した官僚達は 自分たちの既得権を守るために 国を売ったのかも知れない。竹中氏は 今でも人気があるようだが、その内実が明らかになれば その人気も消え失せるだろう。どんなに言いつくろっても胡散臭さは消えない。
そういう胡散臭さが本当だったかどうかは、日本の政治学者の今後の研究評価に 待つべきかも知れない。それが明らかになる程、情報公開は徹底するのであろうか。この情報公開も 実は 移行した政権の重要なテーマであるはずだ。情報隠匿は官僚政治の悪弊の大きな要素であるからだ。

内平らかにして、外成る。しっかりした 政策と、国内基盤を持った政権であればこそ、しっかりした外交戦略も描けるのかもしれない。それでこそ、ポチ外交からの脱却につながるのだろう。まさしく 平成は これから始まるのだろうか。

小泉改革は、子供っぽい安部政権で少し中和され、福田・麻生政権で かつての既得権者が 若干蘇りかけたが、旧来の制度や慣習は 既に小泉改革によって かなり崩壊していたのだ。麻生氏には その自覚がなかったのだ。イヤ、自民党の派閥の領袖全員にその認識が欠けているのだ。河野太郎氏が 総裁選立候補の弁で怒ったのは そのことなのだ。
自民党は その存立基盤再建の認識が無ければ いずれ雲散霧消するだろう。解党の危機が迫っているとの認識が無ければならない。
自民党は 今後 健全野党としてその存立基盤を再建するべきであり、再生できなければ、日本の民主主義は 成熟して行かないことは 十分に予見できる。
しかし、ゾンビのように比例復活した派閥領袖が居ては、自民党の再生はないだろう。原理原則のしっかりした頭の柔らかい年寄りは 有用だが、頑迷固陋な老人ゾンビ達は 日本のために 封じ込められるべきだ。おそらく このゾンビ達には 旧来の政治慣習が 原理原則なのだろが、それは 今や世間から拒絶されたものなのだ。
このゾンビが暗躍する限りにおいて、日本の健全な保守主義は当面再生しないかも知れない。その間隙を縫って、不健全で狭隘な 奇形右翼民族主義が幅を利かせるような時が来ないことを祈る。

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