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“大徳寺秋の特別公開”に拝観して

オオタニ・ショウヘイが51-51を達成した。当日の報道番組では、それ一色のものもあった。まぁ仕方ないのかなぁ~確かに偉業だわなぁ~。この記録どこまで伸ばすのだろう。次のステージで投手も兼任する時、どうなる?・・・・どうする?のだろう。他人事ではあるが、気になる。

中国深圳で日本人学校に通う日本人男児(10)が登校中刃物で刺され同日未明に死亡した。中国ではこの6月にも東部・蘇州市で、日本人の母子を狙った同様の刃物による襲撃事件が起きた。この事件も日本人学校の近くで発生し、母子を守ろうとした中国人女性が死亡している。
今回、被害に遭った男児は、父親が日本人、母親が中国人の日本国籍保有者だという。また、襲撃の動機は、まだ明らかになっていない。
“日本人学校はスパイ学校だ。”というデマが中国内で流れている という。というよりも、日本にいる中国人は誰でも中国のスパイになり得ることを、お人好し日本人は警戒しなければならない。中国人を対象に、有事に軍事動員する“国防動員法”と、有事・平時を問わず中国政府の情報工作活動への協力を義務づける“国家情報法”があるからだ。在留中国人は中国政府に命令されればスパイをしなければならないのだ。ところが、日本の現状では大学や会社の重要な部分や枢要な機関に中国人が多く居るのが現実となっている。中国側には日本の外秘情報は駄々洩れと言っても良いのではないか。
また、国際関係の専門家の間では、中国の民族主義的感情が、外国人への暴力増加に波及しているのではないかとの懸念の声も出ている。日本政府はそれなりに対応を中国政府に要求はしているが、恐らく対応は無しのつぶてとなるのだろう。それはかの国の社会矛盾に根差すことが明らかになるからだということだ。邦人の中国離れが進むことになるのだろう。

ところで、これ以外に中国人による日本に対する不祥事も目立つ。NHKのラジオ国際放送などの中国語ニュースで、外部スタッフの中国人男性が沖縄県の尖閣諸島を“中国の領土”と発言している。さらに英語で“南京大虐殺を忘れるな”など原稿にない発言をした問題や靖国神社で入口の石柱に中国語の落書きが見つかったりしている。あたかも中国人は日本に対して何をしてもかまわないかのようなふるまいが目立つ。

さらには、中国空軍による領空侵犯中国空母・遼寧など3隻の接続水域航行も目立ってきている。
このままでは次第に非常に危険な状態になっていくのではあるまいか。ややこしくて食えない面倒な国が隣にいる。迷惑なことだ。

兵庫県知事に不信任決議がなされた。この騒動、一部には斎藤知事が港湾利権に手を突っ込んだためだという噂があるという。もし本当なら、知事もそれを口にするべきでは?何故黙っているのか?本当のことなら黙っていることこそ問題であるが・・・・・・。



さて今回は、大徳寺真珠庵の特別公開を見に行ったので紹介したい。というのも午後からの研修会に折角の京都、午前は有効に使いたいと、ウェッブ検索してみつけたのだ。
実は、大徳寺一度訪れている。今度は真珠庵を中心に見ていくこととなった。今回訪れたのは、下図赤い四角で囲んだ塔頭である。市バス・大徳寺前で降りて南門から入って行くことにした。
但し、できるだけ早く到着したかったので、阪急を使わずにJRで京都に行き、地下鉄で北大路、市バスで大徳寺前にでることとした。京都・北大路での乗り換えもネットで調べてもたつかないようにして、上手く予定通り行った。




予定に余裕を持たせていて、ゆったり歩いて当初行くつもりだった龍源院前を通り突き当たって、右手に総門を見る。勅使門の向こうに朱色の山門があるが、松の木立でほとんど見通せない状態になっていた。



興臨院の入り口に立つ。
本堂・方丈の周囲の庭を拝見。大徳寺では様々な塔頭があり、それぞれに石庭があり、見飽きてしまう危険がある。
いよいよ真珠庵を目指して北上する。右手に山門。この山門は、千利休が自分の木像を置いて秀吉を激怒させ、切腹させられた原因を作ったいわく付きの門である。ここに仏殿、法堂が続いている。




大徳寺の宗務本所を過ぎてどんどん北上して、真珠庵にたどり着く。よほど拝観者が少なかったのか、向こうから“ようお参りいただきまして有難うございます。”と声をかけられた。そしてかけられた札がNo1だった。既に暑さにやられてしまっていたし、もう疲れ始めていた。
カメラでの写真撮影不可。携帯でのみ可で、フラッシュ撮影・動画撮影不可。どうしてか?と訊くと大型撮影機でぶつけられ損傷されるのを嫌ってのことだとの説明。咄嗟に納得。



本堂・方丈の扁額は一休禅師の直筆だと聞いた。方丈の中、2片の書「諸悪莫作(しょあくまくさ)」「衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)」があり、その奥には木像が安置されている、という。何だか疲れと恐れ多さで木像を覗き込むきがしなかった。
隣の部屋にある襖絵にはあきれてしまった。本堂「檀那(だんな)の間」に長谷川等伯が描いた襖絵に代わってはめられていたのは、山賀博之氏の“かろうじて生きている”と題する絵だ。左に海猫が大きく口を開けて叫んでいる。右にジェット戦闘機。海猫をあんなに写実的に描くなら戦闘機も精確に描けよと言いたくなった。中央に心の窓の円?なんだかおぞましい気味の悪さよ!心をざわつかせ、萎えさせる絵だ!寺院に似つかわしくない。
次には、濱地創宗氏の“寒山拾得”図。なんとなくホッとするのだが、やっぱりお顔は薄気味悪い。唐の風狂の禅僧だと言うが、顔はそうでなければならないのだろうか。
東側には七五三の石が並べられた庭。七五三の十五は縁起が良いとされ、村田珠光の作庭だという。本来は木立もなく比叡山が見えたものだという。
この北側は通僊院で、正親町天皇(1517~1593年・在位1557~1586年)の女御の化粧殿を御殿医が譲り受け、寺に寄進し移築したもの。そこへ渡る廊下の途中に井戸があり、紫式部が産湯に使ったものだという。ホンマカ?そして通僊院は写真撮影絶対不可。そこに源氏物語屏風絵が展示されていた。
他に、北見けんいち氏の“楽園”図や伊野孝行氏の“オトナの一休さん”図もあったが最早元気なく写真さえ撮る気も失せていた。



大仙院も拝観したが、何故か写真撮影不可。お庭くらい撮影してもかまわないだろうと思うのだが仕方あるまい。入口と玄関前の鐘楼だけを撮っておいた。本堂の周囲のお庭を拝見。
次にはまだ余裕があったので、朝素通りした龍源院を拝観。ここも本堂の周囲のお庭を拝見。ここは写真撮影可であった。ここは以前にも来ていた記憶があり、狩野探幽が描いた達磨図はかすかに記憶がある。そのわきに火縄銃と、豊臣秀吉と徳川家康が対局したと伝わる四方蒔絵碁盤・碁笥がある。
方丈と庫裏の間の小さな庭(東滴壷)が小さな名勝であったが今回見落とした。前回はきちんとフォローできていたと覚えている。

歳のせいか随分疲れた。暑さもあったし。総門から辞去。
大徳寺通のバス停までの途中の飲食店・徳寿にて昼食。“嬉野そば”と言ったのだが、“「紫野そば」ですね!”と返された。 出汁が一寸塩味過ぎたように思うが、食べ終わる頃には慣れていた?

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