The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
八瀬比叡山口から三宅八幡までの失敗した紅葉狩り
自民党が裏金事件で非公認となった候補が代表を務める党支部にも、党本部から政党助成金2000万円を振り込んだという。これでまた、自民不利は決定的になったのではないか。自民側にリークする人がいたのではないか。自民党内はそこまでガタガタになっているのかも知れない。
だが今週のマクラの総選挙への全体観は先週と全く変わりない。総選挙の結果はこのブログが投稿・公開される頃にほぼ明らかになっているだろう。とにかく、先週は次のようなことを言っていた。
旧安倍派残党が一掃されれば、自民自体の勢力の退潮を示すことにつながる。与党の過半数割れとなれば維新の会の連立入りの可能性が高くなる。
だが、維新の会そのものも退潮傾向にあるため、党勢の躍進はあるまい。下手な政権入りをすれば、手垢のついた政党に成り下がるイメージとなり、退潮に拍車がかかるだろう。将来、岩盤の大阪も危うくなるだろう。
結局のところ、自民激減、立民微増で落ち着くのだろう。自民は委縮し内部混乱。(旧安倍派の脱党もあり?)野党も活気無く熱気のない選挙なので、投票率も低下するのだろう。それは国民全体の政治への関心が著しく低下することを意味する。それは、強力な独裁政治へのあこがれを抱くきっかけとなる。日本は戦前、その道を行って国家破滅した。
しかも日本の政治家は信念もなく個人の利益追求ばかり。裏金作りに狂奔し、信念もなく、その時の都合であっちへフラフラこっちへフラフラと所属政党を変える連中も結構いる。だから、見かけは確固とした政治的信念を持ったような人間がスーパー・スターとして登場し、独裁体制を敷くようなことが十分有り得るのではなかろうか。
ところで、週後半に船井電機㈱が破産したと言う報道があった。一時流行っていたが最近名前を聞かなくなったが、どこかに吸収されたか、名前を変えて業態変更して存続しているものか、と思っていたので、まだそのまま存続していたとは逆に驚きだった。
その要因は、日本企業としては“低コストだけを売り物にしていてはとめどないレッド・オーシャンに突入しジリヒン化するばかりだった”ようだ。“高価格、高付加価値の商品を作ることでブランド力を高める努力”が必要だったということらしい。要は、どう生き残り戦略を構築するかであったのだろう。
そういう独自の企業戦略を描くと言う点において、日本の中小・零細企業はほとんどの会社で劣っているのではないかと最近、強く思うようになってきている。経営者仲間の会合で、“オタク、どないしたはりマスン?”てな台詞で切り出して、他企業のマネばかり。企業は百社百通りで、事業環境が異なる。だから下手に真似すればそれが大失敗の原因にもなりかねない。そして、その付けがドン詰まりに最近回ってきて、ジワッと迫ってきているような気がするのだ。その一例が“ゼロゼロ融資後倒産” ではなかろうか。ゼロゼロ融資を受けて、調子に乗って何の戦略もなく気付けば返済の時期となった。最近、結構倒産件数が増える傾向にあるようだ。
“ゼロゼロ融資後倒産”以外に、最近は“人手不足倒産”、“物価高倒産”もあり、中には“後継者難倒産”もあるようだ。いずれも、経営者が熟慮した企業戦略の欠如であろう。或いは、その戦略に沿った指示の不徹底もあるのではなかろうか。または適度に強いリーダー・シップが見られず、指示したことの実行性を冷徹に評価していない。そういったことが全社一丸になれない原因であることに気付いていない。
こうした中小・零細企業の不良部分が倒産の嵐で退場すれば、日本経済の復活の予兆となって来るのではないかと、蔭ながら期待している。大手は結構、ジワリ企業変革を遂げてきているのではないかと見ているので、日本経済全体の復活が今後有十分に有り得るのではないかと思っている。
ところで、日本の特に大阪の検察はどうなっているのか。不適切な取り調べをし、この度の裏金事件でも何ら捜査を行わず、権力におもねる一方、冤罪事件を引き起こし、あまつさえ部下には不適切行為に及ぶようでは、検察官の頭の中はどうなっているのか。腐りきっているのは自民党ばかりではないのが日本の哀しい哀しい現実!何てコッタ!
検事総長よそろそろ不祥事連発で声明を出さなければならないのではないか?巨悪を取り締まる覚悟はあるのか?
さて、今回は八瀬比叡山口から もみじの小径、ルイ・イカール美術館、瑠璃光院、蓮華寺、三明院、三宅八幡宮を巡って紅葉狩りを目論んだが、見事に失敗だったことを報告したい。まッ、そうそう上手くコトは運ばないものである。審査報告書を京都の事務局に10月中に提出しなければならず、そのついでに予約しなくても拝観可能な10月の瑠璃光院へ行ってみたかったのだ。ためにはこの10月下旬が適切だったので、ほぼ1カ月前に決めていた日程だった。だが、どうやら結果として夏日が多く紅葉にはまだ早いような結果となった次第である。
とにかく、先週末にお出かけ。先ずは四条烏丸に出て、叡山電車で八瀬叡山口にまで行くために出町柳まで市バスで向かった。叡山電車では観光電車“ひえい” に乗って八瀬叡山口まで行き、食べログで調べた八瀬平八で昼食を摂る予定にして、その通りとした。
昼食では、とろろ蕎麦と出汁巻を頼んだ。まず、出汁巻が出てきたのだが、それが意外に大きい。それだけで、昼食にできるくらいだった。次に、蕎麦がでてきたのだが、冷たい蕎麦でなくアチアチの汁蕎麦だった。汗だくになりながら、腹一杯となって、多少苦しい状態となってしまった。だがさすが、評価点3.13で料理は問題なし。やっぱりうなぎが名物のようで、高くても食べてみるべきだったのかもしれない。
満腹になった昼食後、高野川の対岸に渡る橋がなくなっていた。流されたのか、老朽化で壊したのか不明だが、無いものは無い。しょうがないので、バス道に出てそこからケーブルの駅の近くに行き、もみじの小径へ向かった。だが、残念ながら もみじの一切気配無く、青葉の小径だった。まぁとにかく平安遷都千百年記念橖までは行ってみることにした。1902年に平安神宮に京都に都が移されて1100年目を迎えたことを記念して建立したものだという。そして1929年比叡山の麓の八瀬に移転したという。その小径は5分程度で周回できた。
その後、高野川にそった道を下流へ向かって、瑠璃光院を目指した。途中にルイ・イカール美術館がある。無料で鑑賞できるとあったので、入ってみた。この美術館は、“1958年に結ばれたパリ市と京都市の姉妹都市提携が50年を経過し、2つの都市の国際文化交流をさらに深めることを主旨に、京都八瀬瑠璃光院の一角に誕生”したというが、何故、瑠璃光院がかかわるのか不思議だ。
とにかく、ルイ・イカールはアール・デコの時代に活躍したフランスの画家だという。アール・デコと言えば、朝香宮鳩彦(やすひこ)王の邸宅を思い出す。こういった皇族、華族の関係から、瑠璃光院が関わったのかもかも知れないと妄想したのだ。
美術館には次のような説明があった。“彼が描くのはもっぱら女性、それも当時、世界で最も輝いていた都市パリに暮らす女性を、ロマンテックに、またコケティッシュに官能的に表しました。”要はエロエロの絵だと言うのだ。確かになまめかしい絵ばかりであった。エロは芸術になるのか。否、人生にあることは全て芸術になる!芸術万歳!!
思わぬ西洋絵画になんとなく、なごんで美術館を辞去。ほとんど5分もかからずに瑠璃光院に到る。
京都市の掲げる“高札”に瑠璃光院について次のように書かれていた。“ここ「八瀬」は「矢背」とも記されるように壬申の乱(672)で背に矢傷を負った大海人皇子(天武天皇)が「八瀬のかま(竈)風呂」で傷を癒したことから、平安貴族や武家の時代を通じて「やすらぎ」の郷として長く愛されてきた。この地には、当初、明治に建てられた別荘があり、三条実美がこれを「喜鶴亭」と名付け、直筆の命名額が当院に残されている。「喜鶴亭」は茶室名として現在も受け継がれている。その後、昭和初期にかけて、1万2千坪の敷地に東山を借景とした築庭と延べ2百4十坪に及ぶ数寄屋造りに大改築された。建築にあたった棟梁は、京数寄屋造りの名人と称された中村外二、築庭は、佐野藤右衛門一派の作と伝えられている。”
Wikipediaによれば、“京都市左京区上高野にある寺院。岐阜市に本坊を置く「浄土真宗無量寿山光明寺」の支院で、本尊は阿弥陀如来。 もともと別荘として造営されたもの。・・・通常は非公開であるが、春と秋に公開している。書院2階の机の天板に庭のカエデが映り込む光景で知られている。・・・もともとこの土地は、明治から大正期の実業家(京都電燈などの創業者)で政治家としても活躍した田中源太郎(1853年 - 1922年)が所有していた。・・・田中の死後、この土地は京都電燈重役の個人別荘となった。現在みられる建物と庭園は、大正末期から昭和にかけて造営されたものである。京都電燈は、現在の叡山電鉄叡山本線や叡山ケーブルを開設し、これらの鉄道・軌道事業は1942年設立の京福電気鉄道に引き継がれた。別荘も京福電気鉄道の所有となり、高級料理旅館「喜鶴亭」として営業していた。
料理旅館が廃業することとなり、光明寺が買収。本堂を設置し、光明寺より寺宝を移して、2005年に寺院に改められた。「喜鶴亭」の名は茶室に受け継がれている。”
ということで、いわゆる名刹、古刹というものではなく、元高級料理旅館だったのを浄土真宗無量寿山光明寺が入手して、寺院とし、そこが近年紅葉で有名になったというもの。そこに紅葉が無い!残念至極!だから竈風呂が館内にしつらえられているのだ。温泉でもないのに古代からそこが療養の場所だったのは、八瀬が元は矢背とは知らず、大海人皇子の故事があったとは。これでまた密かに京都の蘊蓄が増えたのだ。
さぁ、ここから少々歩くことになる。左手は雑木の森林、それこそかすかな小径。蓮華寺まで1.2㎞の行程だ。途中で叡山電車の線路が見える。あの観光電車“ひえい”が通ればいいのだが、・・・予定外にスケジュールの消化は早いが待つ気はない。やがて、この線路を渡る踏切を過ぎて、高野川を渡る。
川を渡って、バス道の向こうがすぐ蓮華寺だ。ここは昨年6月に訪れているので2度目だ。京大・鎌田浩毅教授の御推奨の古刹なので、恐らく何度か来て季節ごとの雰囲気を味わうのがよかろうと来てみた。だが、ここも紅葉なく、残念となった。それでも書院からの眺めをしみじみと楽しむ雰囲気に浸った。すると池の中の岩が不思議に亀に見えてきた。当然そのように作庭したのであろうが。
お次はここから三明院へ。蓮華寺の門から左の脇道は狭い。そこを押し通らなければ一寸遠回りになる。慎重に携帯のマップで現状位置を確認しながら、三明院を目指す。御蔭で迷わず三明院山門に到着。まぁ便利になったものだ。
人気(ひとけ)が全くない。山門からいきなり急階段だ。
三明院、御由緒。開山 佐竹信光和尚 明治三十九年、現山主 第六聖 佐竹 俊晃。
昭和十三年(1938)本堂を再築、昭和二十九年(1954)鐘楼を建造、昭和三十六年(1961)多宝塔を建造。樹齢100年ほどの楓が10本前後植えてあります。
古刹という訳ではないが、やはり紅葉鑑賞の寺院。だが、ここも紅葉の気配もない。多宝塔の下で眼下に広がる街の風景が良かった。
ところで、ここから最終訪問先の三宅八幡宮を目指すのだが、グーグル・マップでは一旦逆戻りしなければ行けないことになっている。時間と疲労の度合いからみると、戻りたくはない。恐らく、道なき道がつながっているのではないかと、そのまま三明院から出て右側に進路を取った。大げさだが、バスコ・ダ・ガマやマゼランも一か八かで岬を見つけて回ったのだろう。やがて、向こうから男性の二人連れがやってきた。つまりこの方向で向こうで、少なくとも神社近くにつながっていることを示す吉兆だ。やはり、道らしきものは消えて低草地になっていたが、視野が開けてきた。右手に噴水が勢いよく吹き上げている池が見えてきた。池の畔で人気が一人二人あり、休んでいる様子だ。池の続きに鳥居が見えてきた。やっぱり三宅八幡宮だった。これで数十分節約できた。
Wikipediaによれば、“三宅八幡宮(みやけはちまんぐう)は、京都市左京区上高野三宅町にある神社。旧社格は村社。御利益は子供の守り神としてかんの虫封じ、夜泣き、安産、学業成就のほか、虫退治の神として害虫駆除にも効果があるとされ、別名「虫八幡」とも呼ばれる。近年かんの虫退治の信仰の広がりを物語る大量の大絵馬が見つかり、民俗文化の貴重な資料として重要有形民俗文化財に指定されている。本殿の南側の入口には神の使いとして狛犬ならぬ狛鳩(神鳩)が置いてあることでも知られ、境内には鳩が多く大切に扱われている。・・・社伝によれば、推古天皇の時代に遣隋使として隋に赴こうとしていた小野妹子が、筑紫で病気になった。しかし、近くの宇佐八幡宮に祈願するとたちまち病気が治って隋に渡り、無事帰国することができた。その後、聖徳太子の没後に報恩の意味を込めて自らの所領である山城国愛宕郡小野郷と呼ばれるこの地に、宇佐八幡宮を勧請して建立したのが当社であるとされている。”
由緒ある神社。参道を上りお参りした。鳩の狛犬(神鳩)に一寸ビックリ。逆に、参道を下って行くと大楠公(楠木正成)の石像があった。正成が英雄だった戦前のものだろう。
鳥居を出て、一瞬方向感覚がなくなり、携帯のマップを見ても把握できなくなったが、道路を見通すと京都銀行の支店が見えた。その前の道路はバス道に違いない。そこへ出て、少し北上すればバス停があるハズ。3時半頃、京バスの八幡前バス停にたどり着く。
何とか後数分で国際会館前行きバスがやってくること判明。これで地下鉄・四条(烏丸)に戻れる。全体で4時間余りの行程。予定より早めの帰還となり、疲れ気味であったので助かった。
だが今週のマクラの総選挙への全体観は先週と全く変わりない。総選挙の結果はこのブログが投稿・公開される頃にほぼ明らかになっているだろう。とにかく、先週は次のようなことを言っていた。
旧安倍派残党が一掃されれば、自民自体の勢力の退潮を示すことにつながる。与党の過半数割れとなれば維新の会の連立入りの可能性が高くなる。
だが、維新の会そのものも退潮傾向にあるため、党勢の躍進はあるまい。下手な政権入りをすれば、手垢のついた政党に成り下がるイメージとなり、退潮に拍車がかかるだろう。将来、岩盤の大阪も危うくなるだろう。
結局のところ、自民激減、立民微増で落ち着くのだろう。自民は委縮し内部混乱。(旧安倍派の脱党もあり?)野党も活気無く熱気のない選挙なので、投票率も低下するのだろう。それは国民全体の政治への関心が著しく低下することを意味する。それは、強力な独裁政治へのあこがれを抱くきっかけとなる。日本は戦前、その道を行って国家破滅した。
しかも日本の政治家は信念もなく個人の利益追求ばかり。裏金作りに狂奔し、信念もなく、その時の都合であっちへフラフラこっちへフラフラと所属政党を変える連中も結構いる。だから、見かけは確固とした政治的信念を持ったような人間がスーパー・スターとして登場し、独裁体制を敷くようなことが十分有り得るのではなかろうか。
ところで、週後半に船井電機㈱が破産したと言う報道があった。一時流行っていたが最近名前を聞かなくなったが、どこかに吸収されたか、名前を変えて業態変更して存続しているものか、と思っていたので、まだそのまま存続していたとは逆に驚きだった。
その要因は、日本企業としては“低コストだけを売り物にしていてはとめどないレッド・オーシャンに突入しジリヒン化するばかりだった”ようだ。“高価格、高付加価値の商品を作ることでブランド力を高める努力”が必要だったということらしい。要は、どう生き残り戦略を構築するかであったのだろう。
そういう独自の企業戦略を描くと言う点において、日本の中小・零細企業はほとんどの会社で劣っているのではないかと最近、強く思うようになってきている。経営者仲間の会合で、“オタク、どないしたはりマスン?”てな台詞で切り出して、他企業のマネばかり。企業は百社百通りで、事業環境が異なる。だから下手に真似すればそれが大失敗の原因にもなりかねない。そして、その付けがドン詰まりに最近回ってきて、ジワッと迫ってきているような気がするのだ。その一例が“ゼロゼロ融資後倒産” ではなかろうか。ゼロゼロ融資を受けて、調子に乗って何の戦略もなく気付けば返済の時期となった。最近、結構倒産件数が増える傾向にあるようだ。
“ゼロゼロ融資後倒産”以外に、最近は“人手不足倒産”、“物価高倒産”もあり、中には“後継者難倒産”もあるようだ。いずれも、経営者が熟慮した企業戦略の欠如であろう。或いは、その戦略に沿った指示の不徹底もあるのではなかろうか。または適度に強いリーダー・シップが見られず、指示したことの実行性を冷徹に評価していない。そういったことが全社一丸になれない原因であることに気付いていない。
こうした中小・零細企業の不良部分が倒産の嵐で退場すれば、日本経済の復活の予兆となって来るのではないかと、蔭ながら期待している。大手は結構、ジワリ企業変革を遂げてきているのではないかと見ているので、日本経済全体の復活が今後有十分に有り得るのではないかと思っている。
ところで、日本の特に大阪の検察はどうなっているのか。不適切な取り調べをし、この度の裏金事件でも何ら捜査を行わず、権力におもねる一方、冤罪事件を引き起こし、あまつさえ部下には不適切行為に及ぶようでは、検察官の頭の中はどうなっているのか。腐りきっているのは自民党ばかりではないのが日本の哀しい哀しい現実!何てコッタ!
検事総長よそろそろ不祥事連発で声明を出さなければならないのではないか?巨悪を取り締まる覚悟はあるのか?
さて、今回は八瀬比叡山口から もみじの小径、ルイ・イカール美術館、瑠璃光院、蓮華寺、三明院、三宅八幡宮を巡って紅葉狩りを目論んだが、見事に失敗だったことを報告したい。まッ、そうそう上手くコトは運ばないものである。審査報告書を京都の事務局に10月中に提出しなければならず、そのついでに予約しなくても拝観可能な10月の瑠璃光院へ行ってみたかったのだ。ためにはこの10月下旬が適切だったので、ほぼ1カ月前に決めていた日程だった。だが、どうやら結果として夏日が多く紅葉にはまだ早いような結果となった次第である。
とにかく、先週末にお出かけ。先ずは四条烏丸に出て、叡山電車で八瀬叡山口にまで行くために出町柳まで市バスで向かった。叡山電車では観光電車“ひえい” に乗って八瀬叡山口まで行き、食べログで調べた八瀬平八で昼食を摂る予定にして、その通りとした。
昼食では、とろろ蕎麦と出汁巻を頼んだ。まず、出汁巻が出てきたのだが、それが意外に大きい。それだけで、昼食にできるくらいだった。次に、蕎麦がでてきたのだが、冷たい蕎麦でなくアチアチの汁蕎麦だった。汗だくになりながら、腹一杯となって、多少苦しい状態となってしまった。だがさすが、評価点3.13で料理は問題なし。やっぱりうなぎが名物のようで、高くても食べてみるべきだったのかもしれない。
満腹になった昼食後、高野川の対岸に渡る橋がなくなっていた。流されたのか、老朽化で壊したのか不明だが、無いものは無い。しょうがないので、バス道に出てそこからケーブルの駅の近くに行き、もみじの小径へ向かった。だが、残念ながら もみじの一切気配無く、青葉の小径だった。まぁとにかく平安遷都千百年記念橖までは行ってみることにした。1902年に平安神宮に京都に都が移されて1100年目を迎えたことを記念して建立したものだという。そして1929年比叡山の麓の八瀬に移転したという。その小径は5分程度で周回できた。
その後、高野川にそった道を下流へ向かって、瑠璃光院を目指した。途中にルイ・イカール美術館がある。無料で鑑賞できるとあったので、入ってみた。この美術館は、“1958年に結ばれたパリ市と京都市の姉妹都市提携が50年を経過し、2つの都市の国際文化交流をさらに深めることを主旨に、京都八瀬瑠璃光院の一角に誕生”したというが、何故、瑠璃光院がかかわるのか不思議だ。
とにかく、ルイ・イカールはアール・デコの時代に活躍したフランスの画家だという。アール・デコと言えば、朝香宮鳩彦(やすひこ)王の邸宅を思い出す。こういった皇族、華族の関係から、瑠璃光院が関わったのかもかも知れないと妄想したのだ。
美術館には次のような説明があった。“彼が描くのはもっぱら女性、それも当時、世界で最も輝いていた都市パリに暮らす女性を、ロマンテックに、またコケティッシュに官能的に表しました。”要はエロエロの絵だと言うのだ。確かになまめかしい絵ばかりであった。エロは芸術になるのか。否、人生にあることは全て芸術になる!芸術万歳!!
思わぬ西洋絵画になんとなく、なごんで美術館を辞去。ほとんど5分もかからずに瑠璃光院に到る。
京都市の掲げる“高札”に瑠璃光院について次のように書かれていた。“ここ「八瀬」は「矢背」とも記されるように壬申の乱(672)で背に矢傷を負った大海人皇子(天武天皇)が「八瀬のかま(竈)風呂」で傷を癒したことから、平安貴族や武家の時代を通じて「やすらぎ」の郷として長く愛されてきた。この地には、当初、明治に建てられた別荘があり、三条実美がこれを「喜鶴亭」と名付け、直筆の命名額が当院に残されている。「喜鶴亭」は茶室名として現在も受け継がれている。その後、昭和初期にかけて、1万2千坪の敷地に東山を借景とした築庭と延べ2百4十坪に及ぶ数寄屋造りに大改築された。建築にあたった棟梁は、京数寄屋造りの名人と称された中村外二、築庭は、佐野藤右衛門一派の作と伝えられている。”
Wikipediaによれば、“京都市左京区上高野にある寺院。岐阜市に本坊を置く「浄土真宗無量寿山光明寺」の支院で、本尊は阿弥陀如来。 もともと別荘として造営されたもの。・・・通常は非公開であるが、春と秋に公開している。書院2階の机の天板に庭のカエデが映り込む光景で知られている。・・・もともとこの土地は、明治から大正期の実業家(京都電燈などの創業者)で政治家としても活躍した田中源太郎(1853年 - 1922年)が所有していた。・・・田中の死後、この土地は京都電燈重役の個人別荘となった。現在みられる建物と庭園は、大正末期から昭和にかけて造営されたものである。京都電燈は、現在の叡山電鉄叡山本線や叡山ケーブルを開設し、これらの鉄道・軌道事業は1942年設立の京福電気鉄道に引き継がれた。別荘も京福電気鉄道の所有となり、高級料理旅館「喜鶴亭」として営業していた。
料理旅館が廃業することとなり、光明寺が買収。本堂を設置し、光明寺より寺宝を移して、2005年に寺院に改められた。「喜鶴亭」の名は茶室に受け継がれている。”
ということで、いわゆる名刹、古刹というものではなく、元高級料理旅館だったのを浄土真宗無量寿山光明寺が入手して、寺院とし、そこが近年紅葉で有名になったというもの。そこに紅葉が無い!残念至極!だから竈風呂が館内にしつらえられているのだ。温泉でもないのに古代からそこが療養の場所だったのは、八瀬が元は矢背とは知らず、大海人皇子の故事があったとは。これでまた密かに京都の蘊蓄が増えたのだ。
さぁ、ここから少々歩くことになる。左手は雑木の森林、それこそかすかな小径。蓮華寺まで1.2㎞の行程だ。途中で叡山電車の線路が見える。あの観光電車“ひえい”が通ればいいのだが、・・・予定外にスケジュールの消化は早いが待つ気はない。やがて、この線路を渡る踏切を過ぎて、高野川を渡る。
川を渡って、バス道の向こうがすぐ蓮華寺だ。ここは昨年6月に訪れているので2度目だ。京大・鎌田浩毅教授の御推奨の古刹なので、恐らく何度か来て季節ごとの雰囲気を味わうのがよかろうと来てみた。だが、ここも紅葉なく、残念となった。それでも書院からの眺めをしみじみと楽しむ雰囲気に浸った。すると池の中の岩が不思議に亀に見えてきた。当然そのように作庭したのであろうが。
お次はここから三明院へ。蓮華寺の門から左の脇道は狭い。そこを押し通らなければ一寸遠回りになる。慎重に携帯のマップで現状位置を確認しながら、三明院を目指す。御蔭で迷わず三明院山門に到着。まぁ便利になったものだ。
人気(ひとけ)が全くない。山門からいきなり急階段だ。
三明院、御由緒。開山 佐竹信光和尚 明治三十九年、現山主 第六聖 佐竹 俊晃。
昭和十三年(1938)本堂を再築、昭和二十九年(1954)鐘楼を建造、昭和三十六年(1961)多宝塔を建造。樹齢100年ほどの楓が10本前後植えてあります。
古刹という訳ではないが、やはり紅葉鑑賞の寺院。だが、ここも紅葉の気配もない。多宝塔の下で眼下に広がる街の風景が良かった。
ところで、ここから最終訪問先の三宅八幡宮を目指すのだが、グーグル・マップでは一旦逆戻りしなければ行けないことになっている。時間と疲労の度合いからみると、戻りたくはない。恐らく、道なき道がつながっているのではないかと、そのまま三明院から出て右側に進路を取った。大げさだが、バスコ・ダ・ガマやマゼランも一か八かで岬を見つけて回ったのだろう。やがて、向こうから男性の二人連れがやってきた。つまりこの方向で向こうで、少なくとも神社近くにつながっていることを示す吉兆だ。やはり、道らしきものは消えて低草地になっていたが、視野が開けてきた。右手に噴水が勢いよく吹き上げている池が見えてきた。池の畔で人気が一人二人あり、休んでいる様子だ。池の続きに鳥居が見えてきた。やっぱり三宅八幡宮だった。これで数十分節約できた。
Wikipediaによれば、“三宅八幡宮(みやけはちまんぐう)は、京都市左京区上高野三宅町にある神社。旧社格は村社。御利益は子供の守り神としてかんの虫封じ、夜泣き、安産、学業成就のほか、虫退治の神として害虫駆除にも効果があるとされ、別名「虫八幡」とも呼ばれる。近年かんの虫退治の信仰の広がりを物語る大量の大絵馬が見つかり、民俗文化の貴重な資料として重要有形民俗文化財に指定されている。本殿の南側の入口には神の使いとして狛犬ならぬ狛鳩(神鳩)が置いてあることでも知られ、境内には鳩が多く大切に扱われている。・・・社伝によれば、推古天皇の時代に遣隋使として隋に赴こうとしていた小野妹子が、筑紫で病気になった。しかし、近くの宇佐八幡宮に祈願するとたちまち病気が治って隋に渡り、無事帰国することができた。その後、聖徳太子の没後に報恩の意味を込めて自らの所領である山城国愛宕郡小野郷と呼ばれるこの地に、宇佐八幡宮を勧請して建立したのが当社であるとされている。”
由緒ある神社。参道を上りお参りした。鳩の狛犬(神鳩)に一寸ビックリ。逆に、参道を下って行くと大楠公(楠木正成)の石像があった。正成が英雄だった戦前のものだろう。
鳥居を出て、一瞬方向感覚がなくなり、携帯のマップを見ても把握できなくなったが、道路を見通すと京都銀行の支店が見えた。その前の道路はバス道に違いない。そこへ出て、少し北上すればバス停があるハズ。3時半頃、京バスの八幡前バス停にたどり着く。
何とか後数分で国際会館前行きバスがやってくること判明。これで地下鉄・四条(烏丸)に戻れる。全体で4時間余りの行程。予定より早めの帰還となり、疲れ気味であったので助かった。
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