昨今、よく目にする耳にする“アンガー・マネージメント”という言葉。
人間はこの感情を持て余していることの表れですね。
哲学者の小川仁志氏が、先輩哲学者の考えを引用して説明しているサイトが目に留まりました。
その先輩哲学者とはセネカと三木清です。
セネカの主徴は、
・怒りは“悪”である。
・怒りを感じたら“待つ”ことでやり過ごす。
まあ、よくある流れですよね。
しかし、私は疑問を持っています。
怒りを待つことでやり過ごしても、
その感情の余韻は澱のように心の底にたまり、
いつか爆発するのではないか?
・・・セネカはこの疑問に答えてくれません。
つづいて三木清の主張は、
・怒りと憎しみは区別すべきである。
・憎しみは否定すべきものであるが、怒りは否定すべきものではない。
・怒りは正しく伝えるべきである。
うん、この方が頷けますね。
純粋な“怒り”という感情に罪はない。
ただ、怒りをうまく伝える、あるいは力につなげることは難しく、単純ではありません。
従来、
「怒りを根底にしたエネルギーはよい結果を生まない」
とされてきたような気がします。
そのような主張に、
「じゃあ、どうすればいいんだ?」
と私は問いたい。
スキー・ジャンプ競技の葛西紀明選手は、
長野オリンピックでレギュラーから外された悔しさ・怒りをバネに努力し、
その後華々しい活躍をして“レジェンド”と呼ばれるようになりました。
怒りをエネルギーに変換した好例かもしれません。
■ 英知に学べ 哲学者たちのアンガーマネジメント
怒るべきか、怒らざるべきか それが問題だ
小川 仁志
(日経ビジネス:2022.3.8)より一部抜粋;
理性と感情。
これは人間に備わった2つの対照的な能力としてよく挙げられるものです。
理性とは冷静に考えることのできる力、感情とは心の底から自然に込み上げてくるものといっていいでしょう。
・・・
怒りという感情に関しては、それがあまりに大きなものになると、他者に危害を加えることにもなりかねません。
自分自身に対する怒りであっても、やはり自分を傷つけることがあります。
・・・
セネカは古代ローマの哲学者。
セネカは「怒りは悪」だと断言します。
人間は相互に助け合うために、この世に生まれてきた。
それに対して、怒りは破壊のために生まれてきた、と。
だから人間にとっては必要ないというわけです。
いや、必要ないどころか有害であるとさえ考えています。
だから怒りは遠ざけなければならないと訴えるのです。
しかし、自然に込み上げてくる感情をどう遠ざければいいのか?
そこで期待されるのが、もう1つの能力である理性の役割です。
理性によって冷静に考え、伝えたいことを語ればいいといいます。
もちろんそれができれば苦労しません。
では、一体どうすれば理性を働かせることができるのか。
ここでセネカは、待つことを勧めます。とにかく時間をかけるのです。
怒りが込み上げてきたら、とにかくゆっくりと待つ。
・・・
日本の哲学者、三木清は著書『人生論ノート』の中で次のように書いています。
「今日、怒の倫理的意味ほど多く忘れられているものはない。
怒はただ避くべきものであるかのように考えられている。
しかしながら、もし何物かがあらゆる場合に避くべきであるとすれば、それは憎みであって怒ではない」
三木は、怒りと憎しみを区別しているのです。
憎しみとは、復讐(ふくしゅう)心のことであって、それは本来の怒りではありません。
本来の怒りは、彼が倫理的意味と表現しているように、名誉心からの怒りであって、いわば正しい怒りです。
・・・
ただ、こうして比較してみると、セネカの怒りの抑え方も、三木の怒りの用い方も、結局同じことをいっているように思えてきます。
なぜなら、セネカはあくまで理性を欠いた怒りを否定しているだけであって、気持ちを伝えること自体を否定しているわけではないからです。
別に仏のようになって、何もかも許せといっているわけではないのです。
三木も、憎しみのような怒りはいけないといっています。
よって2人とも、怒りの本質、つまり込み上げてくる感情を素直に伝えるという側面については、肯定しているように思うのです。
問題は、そこに不純物が混ざってくることです。
憎しみのほか、恨みやいら立ちで腹いせに怒る、あるいは必要以上に怒る、キレるといった行為は、もはや純粋な怒りとはいえません。
「虎の威を借る狐(キツネ)」という言葉がありますが、怒りの威を借りて発散しているにすぎないからです。
怒りは純粋なものである限り肯定されますが、決して「威借り(いかり)」になってはいけないのです。