「……そうですか。全て焼けて、何も残っていないですか……」
桂のさして大きくもなかった肩が、見た目にもはっきり判るほどがっくりと落ちた。心なしか、目も落ちくぼんで知性の灯りが暗くなったようにも見える。
「……でも、それで良かったのかも知れない。屋代君が横領事件に荷担していたなど私は信じないが、世間ではあれこれあげつらう輩もいることでしょう。そんな連中から屋代君を護るには、すっかり消えて無くなって世間から忘れられるようになるのがいいのかも知れない……。例え世間が忘れても、グリフィン開発に携わった我々はけして彼の功績を忘れないし、彼の論文は今後も研究者が必ず一度は目を通さねばならないバイブルとなることでしょう。彼は、間違いなくコンピューターの世界の英雄なんですよ……」
老いた頬にすっと一筋涙が流れるのを見て、麗夢はこれ以上突っ込んだ話をするのは諦めた。屋代博士がどんな人物だったにせよ、この人の中で生きる屋代博士に泥を塗りたくる権利は、自分にはない、と麗夢は感じたのである。麗夢の目配せに黙って頷いた円光は、そっとベンチから腰を上げた。
「ああ、年甲斐もなくみっともないところをお見せしてしまって申し訳ない」
立ち上がった桂に、麗夢は気を落とさぬよう重ねて優しく声をかけた。
「桂博士、今日は本当にお忙しいところを申し訳ありませんでした」
「いや、こちらこそ大したお話も出来ず、かえって屋代君の屋敷の火災まで教えてもらって恐縮でした。で、どうでしょう、綾小路さん、実は屋代君が最期に残していった仕事があるんですが、興味はありませんか?」
「最期の仕事?」
これで辞去しようとした麗夢の足が、その言葉に動きを止めた。
「ええ、今、我々は更に進化したグリフィンVの開発に取り組んでいるんです。GIVの欠点を修正し、処理能力を飛躍的に高めたグリフィンプロジェクトの最終形態なんですが、その基礎設計を屋代君がしたんですよ。これを見ていただければ、彼がいかに素晴らしい研究者であったか、綾小路さんにも理解していただけると思うのですが」
「よろしいのですか? そんな大事なものを私のような部外者に見せて」
すると、桂はそれまでの落ち込みを払拭するような、からりとした笑顔を麗夢と円光に向けた。
「何、構いませんとも。万が一貴女がグリフィンの秘密を狙う産業スパイか何かだったとしても、見ただけでは何も判りませんし、第一それくらいでまねられるほどグリフィンは安っぽい機械じゃありません。何せあの屋代修一の作品なんですから。それともご興味ございませんか? 綾小路さん」
気恥ずかしさと不安が微妙に混ざった目で見つめられ、麗夢はにこやかに答えた。
「いえ、もしかまわないのでしたら是非拝見させて下さい。でも本当によろしいのですか?」
「構いませんとも! それじゃあ来週でいかがです? 大学の研究室までお越しいただければ案内いたしますよ」
「ええ、それじゃあお言葉に甘えて……」
余りな急展開に驚く麗夢を後目に、桂はてきぱきと日程の調整をつけると、深々と別れのお辞儀をした。
「では、来て下さるのを楽しみに待っています。もし部屋が判りにくかったら電話して下さい。その日は一日、研究室に詰めるようにしておきますので」
「あ、ありがとうございます」
麗夢も慌てて頭を下げ、それでは、と去っていく桂の背中を見送った。
「麗夢殿、どうも話がうまく行き過ぎているような不安を拙僧は覚えるのですが……」
桂の姿が見えなくなってから、円光は少し難しい顔をして麗夢に言った。それには答えず、麗夢はバスケットで大人しく出番を待っていたアルファ、ベータを出してやると、盛んに尻尾を振る二匹に、桂の印象を問いただした。
「どう? 二人ともあの人に何か感じた?」
アルファ、ベータの人の心に対する嗅覚は、麗夢や円光よりも遙かに強く鋭敏である。万一麗夢達が何も感じなかったとしても、この二匹なら微弱な何かを見いだしているかも知れない。だが、二匹は互いに目をかわすと、こくりと頷いて麗夢に振り返った。彼らはテレパシーで麗夢達と会話することが出来る。麗夢、そして円光の脳裏に、その小さな声が囁くように届けられた。
「……そう、やっぱり何も感じないの」
麗夢はその事を確認すると、円光に振り返った。
「多分何もないと思うけど、実は私もちょっと変だとは思うの。桂博士って、何て言うのかな、全々陰が見えないのよ」
「確かに。あまりに無垢で清らかすぎる様に拙僧にも感じられた。ただ、だからどうだ、と言うこともないのだが……」
危険と言うこともなければ、怪しいと言うこともない。ただ、尋常ではない何かを覚えさせるのが二人の心に引っかかった。
「まあ何にせよ屋代修一のとっかかりは出来たわ。来週までもうちょっと調べを進めて、それから桂博士の所へ行きましょう」
「拙僧もお供しますぞ」
アルファ、ベータを再びバスケットに招き入れつつ、麗夢が振り向いて屈託ない笑顔で頷く。円光は少しばかり頬に暖かさを覚えつつ、いつの間にか雨が上がり、靄を透いておぼろな日が二人の影を地面に浮かび上げる中、駐車場に向けて歩き出した。
「5.東都大桂研究室 その1」へ
桂のさして大きくもなかった肩が、見た目にもはっきり判るほどがっくりと落ちた。心なしか、目も落ちくぼんで知性の灯りが暗くなったようにも見える。
「……でも、それで良かったのかも知れない。屋代君が横領事件に荷担していたなど私は信じないが、世間ではあれこれあげつらう輩もいることでしょう。そんな連中から屋代君を護るには、すっかり消えて無くなって世間から忘れられるようになるのがいいのかも知れない……。例え世間が忘れても、グリフィン開発に携わった我々はけして彼の功績を忘れないし、彼の論文は今後も研究者が必ず一度は目を通さねばならないバイブルとなることでしょう。彼は、間違いなくコンピューターの世界の英雄なんですよ……」
老いた頬にすっと一筋涙が流れるのを見て、麗夢はこれ以上突っ込んだ話をするのは諦めた。屋代博士がどんな人物だったにせよ、この人の中で生きる屋代博士に泥を塗りたくる権利は、自分にはない、と麗夢は感じたのである。麗夢の目配せに黙って頷いた円光は、そっとベンチから腰を上げた。
「ああ、年甲斐もなくみっともないところをお見せしてしまって申し訳ない」
立ち上がった桂に、麗夢は気を落とさぬよう重ねて優しく声をかけた。
「桂博士、今日は本当にお忙しいところを申し訳ありませんでした」
「いや、こちらこそ大したお話も出来ず、かえって屋代君の屋敷の火災まで教えてもらって恐縮でした。で、どうでしょう、綾小路さん、実は屋代君が最期に残していった仕事があるんですが、興味はありませんか?」
「最期の仕事?」
これで辞去しようとした麗夢の足が、その言葉に動きを止めた。
「ええ、今、我々は更に進化したグリフィンVの開発に取り組んでいるんです。GIVの欠点を修正し、処理能力を飛躍的に高めたグリフィンプロジェクトの最終形態なんですが、その基礎設計を屋代君がしたんですよ。これを見ていただければ、彼がいかに素晴らしい研究者であったか、綾小路さんにも理解していただけると思うのですが」
「よろしいのですか? そんな大事なものを私のような部外者に見せて」
すると、桂はそれまでの落ち込みを払拭するような、からりとした笑顔を麗夢と円光に向けた。
「何、構いませんとも。万が一貴女がグリフィンの秘密を狙う産業スパイか何かだったとしても、見ただけでは何も判りませんし、第一それくらいでまねられるほどグリフィンは安っぽい機械じゃありません。何せあの屋代修一の作品なんですから。それともご興味ございませんか? 綾小路さん」
気恥ずかしさと不安が微妙に混ざった目で見つめられ、麗夢はにこやかに答えた。
「いえ、もしかまわないのでしたら是非拝見させて下さい。でも本当によろしいのですか?」
「構いませんとも! それじゃあ来週でいかがです? 大学の研究室までお越しいただければ案内いたしますよ」
「ええ、それじゃあお言葉に甘えて……」
余りな急展開に驚く麗夢を後目に、桂はてきぱきと日程の調整をつけると、深々と別れのお辞儀をした。
「では、来て下さるのを楽しみに待っています。もし部屋が判りにくかったら電話して下さい。その日は一日、研究室に詰めるようにしておきますので」
「あ、ありがとうございます」
麗夢も慌てて頭を下げ、それでは、と去っていく桂の背中を見送った。
「麗夢殿、どうも話がうまく行き過ぎているような不安を拙僧は覚えるのですが……」
桂の姿が見えなくなってから、円光は少し難しい顔をして麗夢に言った。それには答えず、麗夢はバスケットで大人しく出番を待っていたアルファ、ベータを出してやると、盛んに尻尾を振る二匹に、桂の印象を問いただした。
「どう? 二人ともあの人に何か感じた?」
アルファ、ベータの人の心に対する嗅覚は、麗夢や円光よりも遙かに強く鋭敏である。万一麗夢達が何も感じなかったとしても、この二匹なら微弱な何かを見いだしているかも知れない。だが、二匹は互いに目をかわすと、こくりと頷いて麗夢に振り返った。彼らはテレパシーで麗夢達と会話することが出来る。麗夢、そして円光の脳裏に、その小さな声が囁くように届けられた。
「……そう、やっぱり何も感じないの」
麗夢はその事を確認すると、円光に振り返った。
「多分何もないと思うけど、実は私もちょっと変だとは思うの。桂博士って、何て言うのかな、全々陰が見えないのよ」
「確かに。あまりに無垢で清らかすぎる様に拙僧にも感じられた。ただ、だからどうだ、と言うこともないのだが……」
危険と言うこともなければ、怪しいと言うこともない。ただ、尋常ではない何かを覚えさせるのが二人の心に引っかかった。
「まあ何にせよ屋代修一のとっかかりは出来たわ。来週までもうちょっと調べを進めて、それから桂博士の所へ行きましょう」
「拙僧もお供しますぞ」
アルファ、ベータを再びバスケットに招き入れつつ、麗夢が振り向いて屈託ない笑顔で頷く。円光は少しばかり頬に暖かさを覚えつつ、いつの間にか雨が上がり、靄を透いておぼろな日が二人の影を地面に浮かび上げる中、駐車場に向けて歩き出した。
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