かっこうのつれづれ

麗夢同盟橿原支部の日記。日々の雑事や思いを並べる極私的テキスト

4.雑司ケ谷霊園 その4

2008-04-20 23:01:27 | 麗夢小説『有翼獣は電脳空域に夢まどろむ』
「……そうですか。全て焼けて、何も残っていないですか……」
 桂のさして大きくもなかった肩が、見た目にもはっきり判るほどがっくりと落ちた。心なしか、目も落ちくぼんで知性の灯りが暗くなったようにも見える。
「……でも、それで良かったのかも知れない。屋代君が横領事件に荷担していたなど私は信じないが、世間ではあれこれあげつらう輩もいることでしょう。そんな連中から屋代君を護るには、すっかり消えて無くなって世間から忘れられるようになるのがいいのかも知れない……。例え世間が忘れても、グリフィン開発に携わった我々はけして彼の功績を忘れないし、彼の論文は今後も研究者が必ず一度は目を通さねばならないバイブルとなることでしょう。彼は、間違いなくコンピューターの世界の英雄なんですよ……」
 老いた頬にすっと一筋涙が流れるのを見て、麗夢はこれ以上突っ込んだ話をするのは諦めた。屋代博士がどんな人物だったにせよ、この人の中で生きる屋代博士に泥を塗りたくる権利は、自分にはない、と麗夢は感じたのである。麗夢の目配せに黙って頷いた円光は、そっとベンチから腰を上げた。
「ああ、年甲斐もなくみっともないところをお見せしてしまって申し訳ない」
 立ち上がった桂に、麗夢は気を落とさぬよう重ねて優しく声をかけた。
「桂博士、今日は本当にお忙しいところを申し訳ありませんでした」
「いや、こちらこそ大したお話も出来ず、かえって屋代君の屋敷の火災まで教えてもらって恐縮でした。で、どうでしょう、綾小路さん、実は屋代君が最期に残していった仕事があるんですが、興味はありませんか?」
「最期の仕事?」
 これで辞去しようとした麗夢の足が、その言葉に動きを止めた。
「ええ、今、我々は更に進化したグリフィンVの開発に取り組んでいるんです。GIVの欠点を修正し、処理能力を飛躍的に高めたグリフィンプロジェクトの最終形態なんですが、その基礎設計を屋代君がしたんですよ。これを見ていただければ、彼がいかに素晴らしい研究者であったか、綾小路さんにも理解していただけると思うのですが」
「よろしいのですか? そんな大事なものを私のような部外者に見せて」
 すると、桂はそれまでの落ち込みを払拭するような、からりとした笑顔を麗夢と円光に向けた。
「何、構いませんとも。万が一貴女がグリフィンの秘密を狙う産業スパイか何かだったとしても、見ただけでは何も判りませんし、第一それくらいでまねられるほどグリフィンは安っぽい機械じゃありません。何せあの屋代修一の作品なんですから。それともご興味ございませんか? 綾小路さん」
 気恥ずかしさと不安が微妙に混ざった目で見つめられ、麗夢はにこやかに答えた。
「いえ、もしかまわないのでしたら是非拝見させて下さい。でも本当によろしいのですか?」
「構いませんとも! それじゃあ来週でいかがです? 大学の研究室までお越しいただければ案内いたしますよ」
「ええ、それじゃあお言葉に甘えて……」
 余りな急展開に驚く麗夢を後目に、桂はてきぱきと日程の調整をつけると、深々と別れのお辞儀をした。
「では、来て下さるのを楽しみに待っています。もし部屋が判りにくかったら電話して下さい。その日は一日、研究室に詰めるようにしておきますので」
「あ、ありがとうございます」
 麗夢も慌てて頭を下げ、それでは、と去っていく桂の背中を見送った。
「麗夢殿、どうも話がうまく行き過ぎているような不安を拙僧は覚えるのですが……」
 桂の姿が見えなくなってから、円光は少し難しい顔をして麗夢に言った。それには答えず、麗夢はバスケットで大人しく出番を待っていたアルファ、ベータを出してやると、盛んに尻尾を振る二匹に、桂の印象を問いただした。
「どう? 二人ともあの人に何か感じた?」
 アルファ、ベータの人の心に対する嗅覚は、麗夢や円光よりも遙かに強く鋭敏である。万一麗夢達が何も感じなかったとしても、この二匹なら微弱な何かを見いだしているかも知れない。だが、二匹は互いに目をかわすと、こくりと頷いて麗夢に振り返った。彼らはテレパシーで麗夢達と会話することが出来る。麗夢、そして円光の脳裏に、その小さな声が囁くように届けられた。
「……そう、やっぱり何も感じないの」
 麗夢はその事を確認すると、円光に振り返った。
「多分何もないと思うけど、実は私もちょっと変だとは思うの。桂博士って、何て言うのかな、全々陰が見えないのよ」
「確かに。あまりに無垢で清らかすぎる様に拙僧にも感じられた。ただ、だからどうだ、と言うこともないのだが……」
 危険と言うこともなければ、怪しいと言うこともない。ただ、尋常ではない何かを覚えさせるのが二人の心に引っかかった。
「まあ何にせよ屋代修一のとっかかりは出来たわ。来週までもうちょっと調べを進めて、それから桂博士の所へ行きましょう」
「拙僧もお供しますぞ」
 アルファ、ベータを再びバスケットに招き入れつつ、麗夢が振り向いて屈託ない笑顔で頷く。円光は少しばかり頬に暖かさを覚えつつ、いつの間にか雨が上がり、靄を透いておぼろな日が二人の影を地面に浮かび上げる中、駐車場に向けて歩き出した。

5.東都大桂研究室 その1」へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5.東都大桂研究室 その1

2008-04-20 23:00:59 | 麗夢小説『有翼獣は電脳空域に夢まどろむ』
 ROMの強引な依頼から一週間が過ぎた。あれからROMは一向に姿を見せず、何事もなかったかのような日常が淡々と流れていった。そんな中、麗夢と円光、アルファベータは、広大な東都大学キャンパスを一路情報科学部、桂研究室に向けて歩いていた。それというのも雑司ヶ谷霊園で桂の招待を受けたからだが、それ以上に麗夢は、もう一度桂との話を熱望していた。 あれから麗夢と円光は屋代修一について調べを進めたのだが、屋代邸そのものが灰燼に帰し、めぼしい証拠の一切が消滅した今は、榊から聞いていた以上の成果も上がらなかった。結局もっとも屋代について知る者は、桂以外にはいない、と言うことを確かめたに過ぎないのである。もっとも、成算あっての行動ではない。それに、どこか馬鹿馬鹿しい気が募るのも事実で、自分で殺した、と白状しながら、その人物を捜してくれ、というROMの言うことが、未だに麗夢には理解できなかった。その事を問いただそうにも肝心のROMからの接触がない。こちらから呼び出すわけにも行かず、はたしてこれで何かできるのか、と、自分にむなしささえ覚える麗夢である。
 目も鮮やかな美少女と眉目秀麗な上背のある墨染め衣、それにぬいぐるみのような子猫と子犬。そんな一行は、奇天烈な衣装がそう珍しくない大学構内でも相当に目立つ。特に麗夢は男子学生の目を引くと見えて、校門からここまで何人もが声をかけようと近づいてきた。それは円光が全て一睨みで退散させている。こちらに口一つ開かせることなくすごすご引き下がる連中も情けないと円光は思うが、おかげで一行はさしたる障害もなく、目指す建物に辿り着いた。古ぼけた五階建ての鉄筋コンクリートが、二〇年以上は風雪に耐え続けたのであろう薄汚れた壁をさらして、そびえ立っていた。一階の正面入り口も頑丈だけが取り柄のような観音開きの扉が据えられており、中に入ると、息の詰まりそうな暗い廊下と階段が続いていた。桂教授の研究室のある三階に登ってみると、今度はその狭い廊下に、机、使わなくなった古いパソコン、用途も内容も良く判らない巨大な鉄の塊など、様々な物品が隅の方に雑然と積み上げられており、麗夢達の進行を妨げた。時折見かける壁の掲示板も、廊下同様所狭しと張られたサークルのポスターや各種案内、今は絶滅危惧種かも知れない大時代的な政治活動壁新聞などで埋め尽くされ、自分達とは違う世界の混沌を、麗夢達に感じさせた。
「国立大学って、みんなこんな感じかしら?」
「鬼童殿の城西大学とは、少々趣が異なりますな」
 アルファ、ベータも古い建物の持つ独特な臭いや雰囲気に呑まれ、歩みも恐る恐ると言った感がある。その内にも、一行は桂研究室のドアの前に到着した。麗夢は一旦その疑問を自分の胸にしまい込むと、軽く息を吸っておもむろに安っぽいベニア板へ自分の拳を軽く打ち付けた。
「どうぞ、開いてますよ」
 くぐもった声が板の向こうから漏れ聞こえたのを合図に、麗夢はドアノブに手をかけた。
「お邪魔します、桂先生はいらっしゃいますか?」
 おずおずと開けたドアの隙間から、廊下に輪をかけた混乱が麗夢達を迎えた。壁の両側に天井までそびえ立つ書棚とその中を埋め尽くす内外の書籍。入り口すぐの正面に据えられた畳一枚ほどの大きなテーブルには、書棚から溢れた書籍が乱雑に山をなし、テーブルの下に置かれた段ボール箱やコンテナにも同じように溢れかえっている。その隙間を縫うようにして、何枚もの書類がそこここにはみ出し、全体として微妙なバランスを保っていた。わずかな空き地にはCDやフロッピーディスク、そして名も知れぬ電子部品などが散らばり、机には錐の立つゆとりすら見受けられない。その先に簡単な応接セットが据えられていたが、これも今は何かの書類が広げられ、客のための用をなしてはいなかった。更にその奥に、ミニタワー型パソコンと液晶モニターを置いた大きな事務机が居座っており、多くの書類が山脈を形作っていた。声はその山を越えた向こう側から聞こえてくる。
「ああ申し訳ない、学生のレポートを採点中でしてね。すぐ片付けますので少しだけ待ってもらえませんか?」

5.東都大桂研究室 その2」へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5.東都大桂研究室 その2

2008-04-20 23:00:54 | 麗夢小説『有翼獣は電脳空域に夢まどろむ』
 書類の山脈越しにぬっと一人の男の姿が立ち上がった。桂士朗である。ただ雑司ヶ谷霊園と違うのは、やせぎすな身体を糊の利いた白衣で包んでいることだけだ。総じて霧雨のように柔らかく印象薄い感じはあの霊園と同じである。
「お言葉に甘えて参りました。今日はよろしくお願いします」
 麗夢は幾分ほっとしながら、机の向こうの桂に言った。
「いえいえ、私こそお呼びだてしておいてこんな散らかしっぱなしで申し訳ない。すぐ片付けますのでちょっとお待ち下さい」
 桂は「山脈」から出てくると、応接セットに散らかった学生のレポートをかき集めた。
「さあ、どうぞ。今お茶を用意しますので……」
「どうぞお構いなく」
 手にした紙の束を自分の机の上にポン、と放り出すと、恐縮する麗夢に笑顔を返して、机上の電話を取った。
「どうも、アメリカの研究機関のように秘書でもいればもう少し片づくかもしれんのですが、どうも私は整理整頓が苦手でしてね、いつも場所が足りなくて困っておるのですよ」
 桂はにこやかにしゃべりながら、お茶を二人分用意して持ってくるよう頼み、茶筅の大きな封筒を取って麗夢達の前に腰をかけた。それとほぼ同時に入り口のドアが開き、男子学生と思しきにきび面が、緊張しているのかやたらとかたかた鳴らしながら、お盆にのせた茶托と湯呑みをそれぞれ麗夢と円光の前に置いた。ついで桂の前には、多分愛用の品であろう。寿司屋で出てきそうな肉厚の湯呑みを置き、一礼して出ていった。桂は、どうぞ、と二人にお茶を進めると、自らも湯呑みを取りあげた。
「実はあれから、屋代君に関するものでうちの研究室に残っていたものを集めてたんですよ。大したものはありませんが……」
 桂は脇に置いていた茶筅の封筒をテーブルに置き、中身をざっと開けた。写真、書類、メモ類、何かの電子部品やペンの類がぞろぞろと広がった。
「この写真は?」
 幾つかある中で適当な一枚を手にした麗夢の問いに、桂はにっこりと笑みを漏らした。
「ああ、グリフィンIIが無事稼働したときの記念写真ですね。ほら、ここに大学院を出てうちの助手になったばかりの屋代君が写ってますよ」
 桂の指先に、白線の入った紺のジャージに薄汚れた白衣を着た男がいた。薄笑いを浮かべたしまりのない口元に疎らな無精ひげが散らばっている。やせぎすな小男が軽い猫背で立っているため、一段とその姿が貧相に見える。
「彼が、屋代修一博士……」
「ええ、彼がその天才ぶりを発揮し始めた頃の写真ですね。ほら、こっちはグリフィンIIIを試験稼働させたときの記録写真ですよ。なかなかシステムが安定しませんでね、あの時は二人で何晩徹夜しましたか、今となっては懐かしいだけですが、当時は本当に必死でしたよ」
 そこに写る屋代修一は、小さな目が血走り、頬がこけて全体に刺々しい印象をみる者に与えていた。
「これはグリフィンIVの時ですね。この時やっと東京都のインフラの基幹として採用が決まりましてね、うちと武蔵野電気、それに東京都の共同研究計画が文部科学省の研究プロジェクトに採用されて、全てがバラ色に見えた頃ですよ。ほら、心なしか、彼の表情にも余裕が感じられるでしょう?」
 格好は相変わらずよれよれの白衣に紺のジャージ姿だった。頭もぼさぼさ、疎らな無精ひげ、最初に見た写真から外観は寸分変わらない。ただ、目元の角が取れたように全体に柔和な感じがあり、やせこけた頬も少しふっくらして色つやもいいように見えた。
「本当にこのころは順風漫歩に思えました。この直後に彼が亡くなって、あの事件が起きるまではね」
 桂の言葉はこれまでと変わらず淡々としていたが、その心中ではどれほどの嵐が吹き荒れていることだろう。麗夢はそれを思いやると見ていた写真をテーブルに戻した。
「あの桂博士、これ一式、しばらく私に預からせていただけませんか? 少し整理して、一通り目を通しておきたいのですが」
「ええ、どうぞお持ち下さい。貴女のお役に立てるなら」
「ありがとうございます」
 麗夢は心から礼を述べると、その雑物をひとまとめにして元の茶筅の封筒に納めた。
「それじゃあそろそろ、彼の最期の作品をお目にかけましょうか」
 麗夢が封筒を片付けるのを待って、おもむろに桂は立ち上がった。
「どうぞ、ついてきて下さい。グリフィンVは隣の研究棟に据えてあるんですよ」

5.東都大桂研究室 その3」へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5.東都大桂研究室 その3

2008-04-20 23:00:48 | 麗夢小説『有翼獣は電脳空域に夢まどろむ』
 麗夢と円光、アルファ、ベータの一行は、皆一様に軽く頭を下げると、先頭に立つ桂に続いて、研究室から再び狭い廊下に出た。そのまま元に戻って、さっき上がってきた階段の前を通り過ぎる。その向こうを右に曲がると、ずっと奥へと続く一筋の廊下がある。天井から薄暗い蛍光灯で照らされた通路は、桂研究室の辺りとあまり状況が変わらない、使い古した机や名も知れぬ機械類が窓際にうず高く積み上げられ、反対側に幾つかの実験室や教室が並んでいる様子である。その長い廊下を突き当たりまで進むと、そこに作りつけのスチール製ドアがあった。桂がノブに手をかけ、手前にドアを開くと、さあどうぞ、と麗夢達を奥に招じいれた。会釈して向こう側に足を踏み入れた麗夢達は、白く明るい光に出迎えられた。まぶしさを覚えて細める目にも、そこがこれまでとはうって変わった真新しい建物であることが判った。これまで煤けた天井を這うように広がっていた蛍光灯の明かりが、ドア一枚へだてたこちら側では、天井にはめ込まれたユニット内に納められ、明るい間接光で廊下中を照らし上げている。窓も美しい一枚ガラスのアルミサッシで、ペンキの剥げ跡ばかり目立つこれまでの校舎とは雲泥の違いだ。廊下も雑然とした倉庫代わりではない。数人がゆったり横になって進めるほどなスペースが確保され、張り紙の類も一切ない。グリフィンシステムのため新しく建設された実験棟、通称グリフィンドームの入り口に、今麗夢達は立ったのである。幾つかの真新しい実験室が廊下に沿って整然と並んでいるが、それぞれの扉も古い校舎とはまるで違い、左右両方に軽く引きあけることができる、大きな取ってのついたものだった。桂はその一つの前に立つと、右手ですっと扉をスライドさせた。立て付けの良さを誇示するかのように、扉はかすかな音を立てて思いのほか簡単に開いた。
「どうぞ」
 先頭に立って桂が入り、麗夢は少し落ちつかなげにその後を追うと、先を行く桂に声をかけた。
「あの、桂博士?」
「何です?綾小路さん」 
「すごい研究をなさってらっしゃる割には、随分オープンな施設ですね。大丈夫なんですか?」
「なるほど、さすがに探偵さんだ、よいところに気が付かれましたね。そう、一見ここのセキュリティーは目の粗いざるですが、実はそうではないのです。それをお見せしますよ」
 桂は更にその奥の扉を引き開けた。
「ここが屋代君が残していった最期の作品、グリフィンVの制御室です」
 そこは、20メートル四方程はある大きな部屋だった。一面圧迫感を感じさせないパステル調の薄い緑で彩られた床と壁が広がり、高い天井からの間接照明で一様に明るく照らされている。その中で否応にも異彩を放つのが、正面奥の壁面だった。磨き上げた黒大理石のような艶やかな柱が一つ、数メートルの高さでそびえ立っていたのである。一見すると、それはまるで荘重なパイプオルガンを連想させるものがあった。柱はギリシア彫刻のように表面に複雑な襞を備え、大きく三段に別れて、上段ほど細く長く伸びている。最上段正面に後ろを振り向く有翼獣、グリフィンのレリーフが飾られている所など、ほとんど機械とは思えない。だが、柱の所々に白や赤など様々な色のLEDが点滅し、もっとも下段に当たる部分に、60インチはありそうな大きなディスプレイと15インチ程度の小さなもの数台、さらに数多くのスイッチ、キーボードなどが並ぶ様子などは、さすがにそれがただの芸術的彫刻、と言った類の物ではないことを物語っていた。
 ディスプレイはその時濃いグレー一色に埋まって休止状態を示していたが、桂が軽く指さしたのを待っていたかのように、突然明るく輝いて異様な形をした真っ赤なシルエットを浮かび上げた。太くたくましい鷲の前足と獅子の後ろ足。しなやかな躍動感溢れる胴体。その胴体の中央から左右へ雄大に広がる巨大な翼。流線型の頭部が後ろを振り返り、威嚇するかのようにその鋭いくちばしを大きく開けている。グリフィン。知識をあらわす紋章ともなった中世の怪物が、ドラゴンにも匹敵する強力な力で今にも羽ばたかんとするかのように画面上に浮かび上がったのである。
「まだ調整中ですが、完成すればその性能はGIVの十倍、いえ、処理によっては百倍にも達するでしょう。GVは東京のライフラインだけを管理してましたが、これなら日本国そのものを管理運営する位簡単にこなせますよ」
 それがどれほどすごいものなのか、門外漢の麗夢には判らない。だが、鬼童がGIVの世界水準を軽く凌駕した性能に感嘆していたのを聞き、また自分達が屋代邸で苦戦を強いられた事などを考えれば、このGVの凄さもおぼろげながら理解できようと言うものである。

5.東都大桂研究室 その4」へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5.東都大桂研究室 その4

2008-04-20 23:00:41 | 麗夢小説『有翼獣は電脳空域に夢まどろむ』
「これにも、その、強力なセキュリティシステムが付随しているんですか?」
 麗夢は、屋代邸で遭遇した銃火器などの装備を脳裏に浮かべながら、桂に聞いた。
「このシステムのセキュリティは、これです」
 桂は左腕の白衣を肘までをめくり上げた。露わになった青い静脈の浮かぶ骨張った二の腕が、白衣に負けぬほどな生白さを浮かべている。だが、よく見ると血管に沿って縦に赤く引きつれたような後があり、その中央で赤と青の小さなLEDが、一定の間隔でゆっくり点滅しているのが見えた。
「バイオサイバネティックスの成果を取り入れ、私の神経繊維とグリフィンとの通信用ICチップを接続して埋めこんだんです。これで私はどこにいてもグリフィンを制御する事が出来るのです」
 麗夢と円光は目を見張ってその赤と青の点滅を見た。
「一見オープンに見えるのは、全てこれのおかげなんですよ。ここに至るルートには当然様々な個人識別システムがあって厳重に入室者を管理しています。でも、GVはこのバイオチップを通じて常に私の脳波をモニターし、個人識別を行っています。ですから、私は網膜パターンチェックやICカードを使った面倒な認証システムをフリーパス出来るんです」
「……高速道路のETCみたいですね」
「そうそう、あれのより高度なものと考えていただいて結構。今はそれくらいしかできませんが、屋代君の構想では、頭で思い浮かべるだけでグリフィンを思いのままに操作できるようにする究極のインターフェイスが目標でした。その屋代君の想いを実現するのが、今の私の目標なんです……」
 桂の微笑みは、ほんの少し寂しさを点じた、澄明な穏やかさを湛えていた。
  
 一行は桂の案内で、再び狭い廊下を通り抜け、暗い階段を下り、ようやく明るい陽光の下に辿り着いた。アルファとベータが、自分の周囲に蟠る陰気の残滓を掃き出すようにして思い切り伸びをする。麗夢も気分としては二匹に習いたいのだが、さっき別れたばかりの寂しげな桂の姿がまだ目の奥に残り、自分一人開放感に浸るのが何か悪い気がしてどうしてもできなかった。円光は、物思いに沈む麗夢の横顔に七割の心配と三割のときめきを覚えながら言った。
「麗夢殿、そうお気を悩ませても致し方ない。かの博士には気の毒ではあるが、麗夢殿にも拙僧にもしてやれることは残念ながら何も無い」
「それはその通りなんだけど、何か悪いことしちゃったみたいで」
「これというのもあのROMのせいであって、麗夢殿が気に病むことでは……」
 その時、軽快なテーマ曲が麗夢のポケットから鳴り響いた。円光が内心の不満を押し殺して黙った隣で、麗夢は携帯電話を取りだし、通話ボタンを押した。
「はいもしもし……」
『麗夢ちゃん、逃げて!』
「あ、あなた、ROM! 逃げるってどう言うこと?」
『いいから早く!』
 事態が把握できずに驚く麗夢の傍らで、錫杖の輪管が打ち合う音が、鋭く全ての混沌を切り開いた。
「どうやら、間に合わなかったようでござるぞ」
 !
 顔を上げた麗夢の視線が、いつの間に現れたのか、二人の若い警察官を従えた、頭髪やや寂しい小太り気味の背広姿にふさがれていた。
「綾小路麗夢と円光だな、屋代邸放火の容疑者として、逮捕する」
 刑事は円光と麗夢の前に、逮捕令状と仰々しく書かれた一枚の紙片を突きだした。
「ちょ、ちょっと待って、仰ってる意味が、良く判らないわ」
「白々しい事を言うな! 屋代邸が焼けた直前、お前達が屋代邸に侵入していたことは既に調べがついているんだ。その目的やら方法やらは、後でゆっくり聞かせてもらおう」
 刑事が目配せすると、警官が手錠を構え、左右から麗夢と円光に迫った。円光がやにわに錫杖を握り直して麗夢の前に一歩進み出る。それを制して麗夢は言った。
「待って、ここでお巡りさんといざこざを起こしたら榊警部に迷惑がかかるわ。ここはまかせて」
 麗夢は円光と並ぶと、じっと刑事と警官を見つめ、隠された能力をほんの少し開放した。これでこの三人はほんの数瞬記憶を失い、自分が何のためにここに来て、何をしようとしていたのかを忘れてしまうはずだ。一種の催眠術だが、麗夢の秘められた力を持ってすれば、相対するほぼ全ての人間を瞬きする間もなく術中に陥れることが可能である。
(あ、あれ?)
 二人の警官は、止まることなくまっすぐ麗夢と円光に向かって進んできた。
「いかがした、麗夢殿?」
「駄目、催眠術が効かないわ」
 是非無し、と今一度錫杖を構え直そうとする円光の手を麗夢は取った。
「あっ! れ、麗夢殿?」
「逃げるわよ!」
 想い人の紅葉のようなかわいい手が、意外と思えるほどな握力を発揮して、円光をぐい、と引っ張った。
「ま、待て!」
「待たんか!こら!」
 脱兎の勢いで走り出した麗夢達を、刑事と警官が大慌てで追いかける。
「もう! 何がどうなっているのよ!」
 麗夢、円光、アルファ、ベータは、学生達の間を縫うようにして走りながら、自分達の前に突然牙を剥いた意外な事態に、ただ動転するばかりであった。

6.つくば市武蔵野電気研究所 その1」へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6.つくば市武蔵野電気研究所 その1

2008-04-20 23:00:16 | 麗夢小説『有翼獣は電脳空域に夢まどろむ』
 東京から常磐高速道で北上すること約一時間。高層ビル街を縫う首都高を抜けて、のどかな田園風景が広がる関東平野の東北隅を駆け抜けると、そこに日本の科学技術界における東の総本山、つくば市がある。文部科学省や厚生労働省、農林水産省と言った国家組織に所属する各種研究機関や、日本を代表する物理工学系、生物科学系などの企業の研究所が集まっている、どこか自然とは隔絶した人工的な匂いが漂う街である。麗夢と円光が東都大を訪れていた頃、鬼童海丸は、一人そのつくば市中心街からややはずれにある、武蔵野電気つくば研究所に辿り着いていた。通された応接室で待つこと五分、ようやく現れた白衣姿に、鬼童は口元をほころばせた。
「お久しぶりね、鬼童君」
 自慢のロングヘアを、のりの利いた白衣の背中に三つ編みしてうちかけている、やや小柄な瓜実顔が白い歯を見せた。
「ああ、大学以来だな、美代子さん」
 まーたそんな他人行儀な口聞いて、と武蔵野電気研究員、田辺美代子は、笑みを見せながら対面のソファに腰を下ろした。
「で、どうしたの? 君の方からこんな田舎まで出張ってくるなんて、珍しいじゃない?」
 麗夢のようなきらびやかさはないが、実績に裏打ちされた自信がオーラのように輝いて、知性美溢れる顔がまっすぐ鬼童に向けられた。鬼童は、大学同期の好奇心いっぱいな視線に少々辟易しながら言った。
「実は君に折り入って相談があるんだ」
「改まってなによ? あぁ、そう言えば大学首になったんだってね。それで再就職でも頼みに来たの? でもおあいにく様。幾ら優秀な君でも、こっちは今リストラで大変なんだから」
 悪戯っぽいぽんぽん跳ねるような口調が、快く鬼童の耳を打つ。
「いやいや、仕事なら間に合っているよ。今日来たのは少し教えてもらいたいことがあってね。グリフィンのことなんだが……」
 天才でも判らないことがあるの? と軽口を叩こうとした美代子の顔が、グリフィンの単語にさっと陰った。
「ちょっと何よ、君までマスコミのまねごと? いい加減にして欲しいわ!」
「おいおい、僕がそんな興味本位だけでこんな所までわざわざ出てきたなんて思わないでくれよ、僕が知りたいのは、グリフィン開発者の……」
「屋代修一の横領額? それともその用途? 同期のよしみで何だって教えて上げるわよ。さあ、おっしゃいな」
 そのよしみのおかげでまだ「出ていって!」と怒鳴りつけられずに済んでいるようだが、皮肉な口調や怒りに歪んだ眉間のしわを見ても、美代子の機嫌が急激に傾いているのが鬼童にははっきり判る。鬼童は心中軽くため息をつくと、単刀直入に用件を切り出した。
「じゃあ教えてくれ。ROMって何だ?」
 一瞬、美代子の怒りが高真空に晒されたようにふっと消えた。てっきり屋代のことを聞かれると思ったのに、違うことを言われて虚をつかれたのだ。思ったとおりの反応を得た鬼童は、すかさず畳みかけて美代子の注意を喚起した。
「もちろんメモリーのことを聞いているんじゃないぞ。屋代修一がグリフィン上でプログラムした、インターフェイスユニットのことだ。屋代はROMと名付けて随分制作に熱を入れていたようなんだが、それについて君は何か知らないか?」
 美代子の眉間から怒りの縦皺が消え、変わりに不審と不安がない交ぜになった、怯え未満のこわばった表情が張り付いた。
「……知らない。聞いたこともないわそんなソフト」
「いや、知らないはずがない。グリフィンプロジェクトの中心メンバーの一人だった君が、聞いたこともないなんてどう考えてもおかしい。何か知っているんだろう? 頼む、その知っていることを教えてくれ。ROMプログラムのことでも、その制作者の屋代修一のことでも」
「知ってどうするの? いえ、何故君がそんなことを知りたがるの?」
「初めはちょっとした意趣返しさ。ただ、今はそれ以上にプログラムそのものに興味がある。屋代修一がどんな手を使ったのか知らないが、ROMというプログラムはまさに人格が備わった人間そのものの様に振る舞うインターフェイスだった。目をつぶっていれば、本当に一人の人間がそこにいる、って錯覚する程、完璧な存在感を持っていたんだよ。そんなこと、現在のコンピュータープログラミングの常識では到底理解できない。一体何万行、いや何億行書き連ねれば人間そのものをプログラムに写し取ることができるんだ? 一体どれくらいの処理速度でそのプログラムを走らせたら、人間と同じ振る舞いができるようになるんだ? グリフィンは確かにスパコンの歴史に飛躍的な革新をもたらすほど超高速な演算能力を誇っていたんだろうが、それでも人一人、思考、感情、仕草、会話、その他諸々をシュミレートするには到底間に合わないはずだ。そんな限界をどうやってクリアしたのか知りたいじゃないか。それはきっと、今僕が開発中の人間の夢をシュミレートするシステムへ参考にできるはずだと思うんだ」
「それは無理よ、鬼童君」
「何だって? それはどう言うことだ」
 気色ばむ鬼童に、美代子は深いため息を一つつくと、諦めたように肩をすくめて言った。 

6.つくば市武蔵野電気研究所 その2」へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6.つくば市武蔵野電気研究所 その2

2008-04-20 23:00:10 | 麗夢小説『有翼獣は電脳空域に夢まどろむ』
「あれはね、鬼童君。屋代修一って言う化け物が生んだ魔法の産物なのよ。到底人間技で生み出せる代物じゃない」
「魔法だと? 君らしくない言い方だな」
「黙って聞いて。信じる信じないは君の勝手。でも、それ以上口を挟むなら何も教えて上げないわよ」
 思いの外きつく言われて、鬼童は素直に両手を挙げた。
「……判った。謝るから先を続けてくれ」
「……あれは、本当に信じがたい光景だったわ……」
 美代子が語り始めたのは、屋代修一の驚異的な能力についてであった。
「私がグリフィンプロジェクトに参加したのはほんの最近のことよ。もともとうちの会社と東都大の桂教授が組んで始めたんだけど、最初は安藤さんっていう本当に優秀な人がうちから派遣されていたの」
 鬼童の脳裏に、ややぼけた記憶が甦った。鬼童とはあまり交渉がなかったが、美代子と一緒にいるのをよく見かけたことがある。名前は確か……。
「安藤ってひょっとして三年先輩の安藤和重か?」
「その通り。私は学校でも安藤先輩とは息があって、就職するときも「うちに来ないか? 俺と一緒にやろう」って誘ってもらったのよ。グリフィンプロジェクトがスタートしたときは、私はまだ入社したてで武蔵野の工場で研修中だったんだけど、彼は今の私と同じ立場、つまり研究主任になっていたの。屋代修一って言う名前を知ったのは、それからしばらくたってからよ。ようやく研修が終わって研究所に配属された時、たまたま戻ってきていた安藤先輩が、「東都大にとんでもない天才がいる」って教えてもらったのが、屋代修一のことを知った最初だった。でも、初めは興奮してうれしそうに屋代のことを話していた先輩が、一年ほど立った頃からめっきり話題にしなくなったの。そればかりか、ちょっと見ないうちにすごくやつれちゃって、その内にとうとう体をこわして入院して……。不眠症だったそうよ。それも、眠れなくて悩むんじゃなくて、眠るのが恐ろしい、眠りたくない、っていうのよ。どうしたのか心配になって、根気よく見舞いに言ったんだけどなかなか教えてくれなくて……。その間も容態が悪化していって、もう助けようも無くなったとき、やっと教えてくれたの。屋代修一が化け物だって」
 美代子は一息ついたが、鬼童は疑問も合いの手も挟まなかった。薄々その顛末が鬼童にも予測できたのだ。そして、美代子が安藤に抱いていた憧憬とは少し色合いの異なる感情についても。鬼童の心に、聞くべきではなかったのではないか、と淡い疑問がわき起こった。だが、それを口にするのははばかられた。彼女はこの鬼童海丸を信用して、これまで封印してきた思い出を語ってくれているのだ。そして、語りながら自分の過去を心の中で精算しつつある。鬼童はじっと腕を組んで目をつむった。その瞬間、美代子の目に光るものが見えた気がした。
 美代子は再び語りだした。
「初めは何でもない夢だったそうよ。彼が見ている夢に、屋代修一が出てくるの。まあ仕事や同僚の姿が夢に出てくるのって、別に不思議でも何でもないじゃない。だから彼も初めは気にもとめなかったそうよ。でもそれが毎日決まって現れるようになり、出張で遠く離れていても、乗り物で移動する最中でも、一度こくりと眠りに落ちると、屋代修一が夢に現れて来たそうだわ。そして、ついに神経を病んで病院にかつぎ込まれたけど、屋代修一は病院にも追ってきて、彼を苛んだ。そしてとうとう彼は……」
 夢守の民だ! 最期の結末で言葉をなくした美代子を前にして、鬼童は屋代の正体を知った。麗夢と同じ夢守の民。だが、何かおかしい。その話が正しいとしたら、屋代修一は麗夢と同じと言うよりむしろ死夢羅に近いではないか。そんな力がある者が、そうそうあちこちにいるものだろうか? 考えにふける鬼童を前にして、美代子は胸の内からわき上がる膨大な感情を辛うじて押さえた。美代子は、熱くなった目頭にそっと手をやり、弱々しい笑みを浮かべて鬼童に言った。
「……。ご、ごめんなさい、まだ話の続きがあるの。君の知りたいROMの事よ」
 鬼童は黙って頷いた。こうなったら最期まで聞かねばならない。屋代修一のこと。グリフィンのこと。そして、ROMのこと。それらを聞いてはたしてどうするのか、鬼童には確とした未来像があるわけではない。だが、きっとこの情報は麗夢のために役に立つ。そう、鬼童は信じた。
「ROMのことは、正直言って私もあまり詳しいことは知らないわ。可愛らしい外観は屋代修一の趣味だと聞いたけど。でも、私が安藤さんの後継としてグリフィンプロジェクトのメンバーに指名され、東都大学で初めてそれを見たとき、同時に私は、安藤さんが過労で錯乱していたり、ましてやうそを言ったりしたんではなかったことを知ったの。それまで私は、安藤さんの事をあれほど尊敬していたのに、最期の言葉だけ実は疑っていたの。そんな馬鹿なことがあるもんか、って。でも、あれを見て私は納得したわ。屋代修一が、どうやってプログラミングしているか知ってる? 鬼童君」

6.つくば市武蔵野電気研究所 その3」へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6.つくば市武蔵野電気研究所 その3

2008-04-20 23:00:04 | 麗夢小説『有翼獣は電脳空域に夢まどろむ』
「いいや」
「屋代はね、キーボードもマウスも、およそ入力に使うデバイスは一切使わないのよ。ただじっと端末の前に座って、ディスプレイに手を付けるの。こんな風にぺったり、とね」
 美代子がまっすぐ両手を前に出し、指先を上にしてピンと伸ばした。
「そのままじっとして数秒もすると、突然プログラムが画面に浮かび出すの。驚いて桂教授に尋ねたら夢でも見たんだろう、って相手にしてくれなかったけど、きっと屋代は、人の夢に侵入するみたいに、コンピューターにも直接アクセスする何か特殊な力を持っていたのよ。その力でデバイスを一切使わず、まるで自分自身がコンピューターの一部になって、プログラムを生み出すんだわ」
 鬼童が黙っているのを見て、美代子は苦笑した。自分がいかに荒唐無稽なことをしゃべっているか、それが鬼童にどう聞こえているかを慮ったのであろう。だが、当の鬼童はただ真剣に美代子の語る話の信憑性とその可能性について吟味していた。夢守の力は、対象の精神エネルギー波動に干渉して奇跡を見せる。弱ければ催眠術程度で留まろうし、強ければ麗夢のように人の夢に入り込み、無敵の力を発揮することもある。だが、同じ事がコンピューターでもありうるのであろうか? コンピューターのCPUやメモリを飛び交う電子に干渉し、その純粋な物理空間に影響を及ぼすような精神エネルギーが想定できるだろうか。だが、仮説としてその可能性を立てた場合、およそグリフィン開発で発揮された屋代修一の奇跡的な天才ぶりはごく簡単に解ける。ROMのプログラムもそうだ。恐らく屋代は、プログラム言語を必要としないのだろう。ただコンピューターに侵入し、自分のやりたい事、実現したいことを思うだけでいいのだ。それは、人が無意識にペンを動かしたりするのと同じレベルで、コンピューターにプログラムを生成させるに違いない。
「美代子さん、貴重な情報をありがとう。これで謎が少し解けた気がする」
「信じるの? 鬼童君。こんな夢みたいな話を」
「信じるさ。実は僕も夢に入ることのできる人間を他に知っているんでね。僕の今のメインテーマは、まさにそこなんだ。おかげで研究の方向性が見えてきたよ」
 美代子は意外に鬼童が真剣なのを知って、ほっと胸をなで下ろした。けして自分を慰めようとしない態度も、今の美代子には有り難かった。それじゃあこれで東京に戻る、と言う鬼童に、美代子は言った。
「……また会えるかしら?」
 鬼童はドアを開ける前に立ち止まると、肩越しに振り返って言った。
「もちろんだ。僕も君のような優秀な研究者とは、時々ディスカッションしてみたいからな」
「相変わらずね。まあいいわ。今度は私の方から質問に行くから、いいわね」
「ああ。いつでも歓迎するよ。それじゃあ」
「ええ」
 応接室のドアが音もなく閉まり、上品なスーツを着こなした見栄えのする長身の姿が消えた。美代子はしばらく白衣のポケットに両手を突っ込んで、窓の外を去っていく鬼童を見つめていた。やがて鬼童はふと立ち止まり、胸ポケットから携帯電話を取り出した。そして、ひどく驚いた様子で辺りを見回した。と、その時、鬼童の周りから青い服の警察官達が忽然と姿を現し、鬼童を包囲した。美代子は、やにわに手をポケットから引き抜くと、今鬼童が出ていったばかりのドアを思い切りよく突き開けた。そして上履きのまま研究所の玄関を飛び出した。
「鬼童君!」
 鬼童海丸は、既に後ろに回された手を手錠で固められて、左右から警官に挟み込まれながら向こうに連れて行かれるところだった。
 鬼童は美代子の声に気づくと、軽く抗いながら後ろの美代子に首を曲げた。
「美代子さん! れ、連絡を、警視庁の榊警部に連絡を入れてくれ!」
「榊警部?」
「警視庁捜査第一課の榊警部だ! 頼んだぞ!」
 鬼童はそれだけ必死に叫ぶと、自分を取り囲む警官達にこづかれながら、側に待機していたパトカーに押し込められた。茨城県警、と大きく書かれたドアがバタン、と閉じられると、両側を警官に挟まれた鬼童が、一度だけ後ろを振り向いた。美代子はもう一台、まだ無線で連絡を取り合っているパトカーに近づくと、連絡を終えたその警官を捕まえて言った。
「彼は、あの男は一体何をしたんですか?」
「ああ、あいつね、東京の方で放火か何かやらかしたらしい。指名手配が回っていてね。お宅から通報があって助かったよ」
(うちから?)
 おい、行くぞ、と呼びかけられて車に乗り込む警官に会釈しながら、美代子はいつ誰がそんな連絡を警察に入れたのかをいぶかった。
(それに鬼童君が放火だなんて、一体何があったの?)
 美代子は並木道の向こうに消えていくパトカーが見えなくなると、急いで建物の中に入った。そうだ、榊警部に連絡を取らないと!

7.警視庁捜査第一課 その1」へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7.警視庁捜査第一課 その1

2008-04-20 22:59:31 | 麗夢小説『有翼獣は電脳空域に夢まどろむ』
(どうも妙だ。桂士朗、この男、何か隠しているな・・・)
 警視庁刑事部第一課。殺人、強盗と言った凶悪犯と日夜対峙する最前線の一角で、榊は集めた資料を広げて頭をひねっていた。屋代邸放火事件と背表紙に手書きで記された一件綴りには、榊が自分の目と耳で集めた生の情報が綴じられている。榊はその中で、恐らく放火事件と密接に関わりを持つはずの、屋代修一による研究費横領事件の顛末に目を通していた。その事件は屋代の死後発覚したもので、グリフィン開発に関わる研究費の一部を、屋代修一が着服・横領したとされるものである。だが、相当な巨額であるにもかかわらず、その金の動いた先がさっぱり掴めないのが、榊の推理に大きな困難を与えていた。詐欺、横領を専門とする二課も必死に捜査しているはずなのだが、親しい連中へ裏事情の探りを入れてみても、ただ首をひねるばかりと言うから不思議と言うしかない。あげくにあの放火事件である。榊も当初は、ROMによる証拠隠滅のための自殺手段だった、という説に与していた一人だった。だが、調べを進めるに連れて、ある別の可能性に想いが至るようになっていた。
(証拠を隠滅したんじゃない。証拠が何もない、と言うことを、隠したかったんじゃないのか……)
 榊の推理によると、屋代修一にかけられた巨額の公金横領事件は、どうもえん罪の可能性が高い。
 麗夢と円光が屋代邸で見た日記やその他の証言を突き合わせても、グリフィンが正式に採用されるまでの屋代は、まさに爪先に火を灯すような赤貧に喘いでいた。第一、幾つかの証言から屋代が金というものにあまり興味を示さない性格だったことが浮き彫りになっている。東都大学へは緩慢に遺産を食いつぶしながら通っており、日常においても必要最小限の生活で過ごしていた。例えば屋代の食事と言えば、学生食堂で唯一ワンコインで購える、萎びた刻みネギと向こうが透けて見えそうな蒲鉾二切れの乗ったうどんが定番であり、時折贅沢と称して定食メニューでもっとも安価なA定食を食べるくらいであった。グリフィン採用で経済的には随分ゆとりができた後も、うどんの回数が減って定食が増え、日頃の贅沢がA定食から100円だけ高いB定食に『格上げ』された程度である。服装も判で押したように紺のジャージと薄汚れた実験用白衣で押し通している。ここ数年で唯一購入した服は、学会発表用の安物スーツだけであり、これもさすがに見るに見かねた周囲からのやかましさに耐えかねたためだそうだ。もしそんな助言がなければ、まるで頓着することなく普段のままの姿で、数百人を超す謹厳実直な研究者の前に登壇したことであろう。
「はたしてそんな人物が、自ら億単位の金をだまし取ろうなどと考えるだろうか」
 もちろん人には、外見からは窺えぬ深遠な闇がその心の奥に眠っている場合がある。また、巨大な悪ほど普段はあまり目立たないものかも知れない。警察官として経験豊かな榊にもそれは充分判っている事なのだが、その榊の勘から見ても、屋代犯人説は疑わしい点ばかりが募るのである。
「それよりも、桂博士が怪しい」
 一見、桂のそれは屋代に似た意味で清廉潔白である。それに、偶然屋代の墓で会ったという麗夢が証言した、優しく、控え目で常に一歩下がっているような男、と言うイメージは、およそ巨額横領事件の犯人像とは一致しない。だが、桂について周囲に聞き込みをすると、人によって桂の印象がまるで違うことに気づかされる。麗夢と同様の印象を語る者がいる一方で、桂が外見とは裏腹の強烈な上昇志向の持ち主であり、自信家の切れ者、先頭切って皆を引っ張っていく傲岸不遜なワンマンタイプ、という全く逆の人物像を語る例が出てくるのだ。確かにグリフィンを政府筋に売り込んだ時の手腕は、とても清貧に甘んじる学究の徒とは思えない辣腕、豪腕ぶりだったという。その事実は、獲得した研究費の総額を見ても明らかで、担当した役人が苦々しげにその傲慢な運営を語る例が幾つか見られる。そして特に屋代修一がグリフィンプロジェクトに加わり、研究そのものが飛躍的な伸張を見せ始めた時期以降に桂を知った人物ほど、そんなやり手の自信家として語る人間が増えてくる。初めてそれを耳にしたとき、榊は、ひょっとして同姓同名の赤の他人が二人いるのではないか、と真剣に疑った。だが、東都大教授に桂士朗は一人しかおらず、写真も含めての聞き込みで、人違いはまず考えられない。これは一体何を示しているのだろう。グリフィンシステムの望外な成功で自分を見失ったりというようなことがあったのだろうか。それとも、何か理由があって「いい人」を演じているのだろうか? どっちが桂士朗の本質を示しているのかを見極めないと、まるで見当違いの捜査になってしまいかねない危うさが、この男には付きまとう。

7.警視庁捜査第一課 その2」へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7.警視庁捜査第一課 その2

2008-04-20 22:59:25 | 麗夢小説『有翼獣は電脳空域に夢まどろむ』
 屋代修一の死に関しても、桂の動きは奇妙である。屋代修一がROMに狙われていたことを桂が知らなかったとしても、屋代自身が死に至る数日間に相当な挙動不審ぶりを示したことは周囲の証言で明らかだ。あれほどコンピューターの申し子ぶりを発揮した屋代がとんとコンピューターの前に座らなくなり、携帯電話が鳴っただけで、冬場の静電気に当てられたように、いちいちびくっと驚いていたと言う者がいた。屋代は桂にとってもっとも信頼を置いていた愛弟子であり、自分の後継者として公私に渡る面倒を見ていたという。それなのにどうして屋代のそんな異常に気づかなかったのだろう。ましてやそんな屋代一人を置いて、研究室総出で関西の学会に出席し、またタイミング良く一人大学に戻ってきて、変わり果てた屋代を発見している。屋代を知り合いの東都大学病院の医師の元まで運んだのも桂なら、その後火葬場で荼毘に付すまでの一切を取り仕切ったのも桂である。愛弟子の死に対する責任を感じる、と言うには、その執着ぶりが榊にはいささか引っかかるのである。
 だが、いずれにしても確証は何一つない。
「やれやれ……」
 榊は堂々巡りしそうになった頭を一旦休め、綴りを机に放り出した。すると、そのタイミングを待っていたかのように、向こうの課長席から声が飛んできた。
「榊警部! ちょっと来てくれないか」
 榊は軽く首をひねってこりをほぐすと、向こうで待つ直属の上司の元に歩み寄った。
「課長、何かご用ですか?」
「ああ、ちょっとな。お前さんの捜査の件だ」
「何か苦情でもありましたか?」
 榊は相手に先回りして話の内容を予測した。実際、温厚にして敏腕を歌われる榊も、若い頃は「荒武者」の異名に相応しい暴れぶりを示して上司の背中に何度も冷や汗を浮かばせたものである。ことに目の前にいる警視庁刑事部捜査第一課の課長、山本権兵衛は、入庁当時から良くコンビを組んで仕事をしてきた仲だけに、その手の苦労を人一倍かけてきた、と言う自覚が榊にはあった。相手もそんな榊の心情を理解しているので、自分の頭がこんなに薄くなったのはお前さんのせいだ、とよく冗談愚痴を叩くのである。だが、この時はそんな榊の予想を上回る話を、山本課長は持ち出した。榊は次第に募る憤りを腹の中だけに押さえながら、言いにくそうにぼそぼそ言うその言葉を最期まで黙って聞いた。
「つまり、私に捜査から手を引けと言うんですか? 課長」
 榊は、仏頂面で見上げる課長を睨みすえ、机へ両手を叩き付けたいという衝動をこらえた。
「理由を、聞かせてもらいましょうか」 
 山本課長は、ずり落ちた老眼鏡を指で押し上げると、もっとも信頼する部下に告げた。
「このヤマは元々うちの管轄じゃない。今更お前さんに言うのもなんだが、これは詐欺横領専門の二課の仕事なんだよ。それに、お前さんにはもっと他にやってもらわなくっちゃならん仕事があるんだ」
「承伏いたしかねますな。確かに屋代修一にかけられた公金横領容疑は二課の管轄でしょう。でも、屋代邸放火事件は我々一課の領分ですよ。それに第一発見者からの通報を受けて現場に一番早く到着したのも私です。それを、二課と協力して当たれと言うならともかく、こっちだけ一方的に下りろと言われて、この私がはいそうですか、と納得するなどとは、まさか信じてはいないでしょうな、課長」
「判ってる。言いたいことはよっく判るよ、真ちゃん」
(出た、課長の泣き落とし(一八番)だ)
 榊は少々うんざりした気分で、かつての愛称で呼びかけてきた課長を見た。若い頃から「山さん、真ちゃん」で一緒に仕事してきた仲なのだから、今、課長が陥っている苦境も、榊には薄々感じないわけではない。恐らく課長の裁量で何とかなるレベルより、遙か高いところから下りてきた命令なのであろう。この課長は、相手が部長クラスなら、一言も二言もごねて見せないと気が済まないへそ曲がりなのである。この部下にしてこの上司あり、と言う典型的なコンビの二人だが、その課長が急に今になってひたすら榊に下りろと懇願する所からしても、下りてきた命令の高圧ぶりが透けて見えるではないか。それに気づいた榊は、これ以上課長をいたぶる無益を悟った。
「……判りました。課長、それは命令ですな」
「う、うん。そう、そうなんだよ真ちゃん。これは課長としての命令だ。いいな、真ちゃ……いや、榊警部」
「承知しました。では、今までの捜査分をまとめておきますので、次の仕事まで少し時間をいただけますか?」
「お、おう、結構結構。じっくりまとめて、報告してくれ」
 手のひらを返したように機嫌を直した課長の声を背に、榊は自分のデスクに戻った。様々な資料や調書、それに庁内を回覧されている各種文書が見苦しさ一歩手前の混雑ぶりで机の上を占拠している。その一番上に載っかっているのが、さっきまで榊が仮説を元に眺め直していた資料集である。どうやらもつれた糸口が、桂博士をキーワードにして解けそうに思えてきた、と言う矢先だっただけに、榊の憤りは一通りではなかった。これらの資料はいずれ段ボールに詰めて二課に送りつけなければならないが、それまでにもう一度一通り目を通して置こうと榊は思った。後はどう課長や同僚の目を盗み、麗夢、円光、鬼童等と共同してこの事件に当たるかだ。榊は不敵な笑みをわずかに漏らして、今は安心しきっている課長に心の中で呼びかけた。
(山さんには悪いが、この件から手を引くつもりはないよ)
 榊は資料一式を一旦神妙なそぶりで脇にどけ、次ぎにこれも少々溜まり気味の回覧文書に手を付けた。一応全部目を通すことを要求されている文書だが、普段は大抵中身も見ずに、三文判だけ所定の場所に押して次の係員に回している。時に、タイトルが引っかかって中身にまで手を伸ばす文書もあるが、そんなものは数あるうちでほんの一つか二つだろう。今日はそれすら適当に流そうとしていた榊だったが、その中に混じっていた一枚の手配書で手が止まった。
「何だこれは?」
 見慣れた顔が三つ並んでいる。一番右が円光、次が鬼童、そして一番左端に印刷されているのは……。

7.警視庁捜査第一課 その3」へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7.警視庁捜査第一課 その3

2008-04-20 22:59:17 | 麗夢小説『有翼獣は電脳空域に夢まどろむ』
「どうして麗夢さんがこんなものに?」
 容疑はとみると、今榊が課長から下りろと言われたばかりの屋代邸放火事件だった。寝耳に水の事態に暫し言葉を失った榊は、次の瞬間、憤懣を遂に爆発させた。榊は手配書を鷲掴みにすると、今し方戻ってきたばかりの課長のデスクへ、一直線に駆け戻った。
「課長! これは一体なんです!」
 鍛え上げられた榊の右手が、窓外で休む鳩も仰天するほどな音を立てて、課長の机に叩き付けられた。
「お、驚かすな! 老眼鏡壊したらどうするんだ」
「老眼鏡などどうでもよろしい! これ! この手配書は一体どう言うことですか!」
 課長はセーム皮で丹念に拭いていた眼鏡をかけ直し、榊が叩き付けた件の手配書に目をやった。
「ああ、これか。ついさっき回ってきたばかりだが、どうかしたのか?」
「どうかしたのか、ではありません! この二人は、事件を通報してきた善意の市民、こっちの男に至っては、事件当日、アメリカにいて日本にいなかったんですぞ。どうしてそんな連中が重要参考人になるんです?」
「そういわれてもなあ……」
 課長は手配書をなで回しながら、困惑したように榊に言った。
「これはうちの捜査の結果じゃないから、俺に言われても判らないよ」
「当たり前です! うちがこんないい加減な手配書を作るわけがありません! 一体どこの誰がこんなふざけたものを作って回覧しているのか、すぐに調べて下さい!」
 いつにない榊の剣幕に、課長はたじたじとなって傍らの電話を取った。その結果を待つ榊に、後ろから同僚の声がかかった。
「私に?」
「若い女性からご指名ですよ」
 ちゃかされてむっとした榊だったが、すぐに相手の目星をつけて、引ったくるように受話器を取った。
「もしもし、榊ですが」
『ああ、榊警部さんですね? 良かった』

 榊はてっきり電話の主は麗夢だと勘違いしていた。自分を名指しで電話口に呼び出す若い女性と言えば、榊には麗夢しか思い浮かばなかったからだ。だが、電話の向こうでうれしげにしゃべる人物は、麗夢はもちろん娘のゆかりでもなかった。
「失礼ですが、どちら様ですか?」
『わ、私? ああ、私、田中美代子って言います。武蔵野電気つくば研究所で、研究員してます』
 武蔵野電気? 榊の脳裏にピン! と明るいシグナルが点灯した。スーパーコンピューターグリフィン開発における、民間側代表企業ではないか。
「で、田中さん、私に一体何のご用ですか?」
『鬼童君が、鬼童海丸が大変なんです! 彼があなたに連絡を取ってくれって』
「鬼童君が! よし、詳しく話して」
 田中と名乗った女性はかなり切迫していたが、思ったよりも秩序だった話しぶりで、ごく短時間に鬼童の来訪からその逮捕までをまとめて榊を感心させた。
「お話は良く判りました。茨城県警ですな? 後はおまかせ下さい。私が責任を持って引き受けます」
『鬼童君が放火犯だなんて、嘘ですよね、警部?』
「ええ、もちろんえん罪ですとも! 私から連絡してすぐに解放してもらいますからご安心を!」
 心配げに鬼童の身を案じる田中美代子に力強く返事をして、榊は電話を置いた。これは麗夢さんにも一言注意を喚起しとかないといけないな。榊は携帯電話を探して、机の上を引っかき回した。よく娘のゆかりに「携帯電話は持ち歩くから携帯って言うのよ。お父さんみたいにあちこち放り出してたら、意味ないじゃない」と揶揄されるのだが、こればかりは榊もなかなか習慣が改まらない。先週三日ほど姿が見えなくなったときはさすがに反省したが、書類の下敷きになっていた携帯電話を見つけた途端、結局けろりと忘れてしまった。今も自分で埋めてしまった携帯電話に「勝手にどこかに行きよって!」と八つ当たりしながらも、ようやく現れた小さな機械にほっと一息つく始末である。榊は不器用にやや小さすぎるボタンを押し、やっと覚えたばかりの呼び出し機能で、麗夢の携帯に電話をかけた。
(まだか。まだ出ないのか。早く、早く出てくれ、麗夢さん!)
 呼び出し音が虚しく五度榊の鼓膜を打った。だが、六度目がなる前に、ぷつっと独特の音と共に、相手が電話に出たことが判った。
「麗夢さん? 私だ、榊だ! そちらは無事か? どうしたんです! 麗夢さん! 麗夢さん!」
 すると、麗夢の声とは似ても似つかないしわがれた男の声が、携帯から流れ出した。
『榊真一郎……。さあ、綾小路麗夢と円光、鬼童海丸を捕らえるのだ。君の職責を果たしたまえ』
 何者! と叫ぼうとした榊の意識が、急にぼんやりとして消えかかった。これはまずい! と榊は手から電話を離そうとしたが、榊の意思は、既にその肉体を操作する力を失っていた。
『さあ、行き給え。行って犯人を捕まえるのだ』
「……はい」
 榊は携帯電話を切ると、そのまま操り人形が引かれていくように、捜査第一課の部屋を出ていった。
「おい、榊警部はどうした?」
 ようやく電話確認を終えた山本課長が顔を上げたとき、榊の姿は既に部屋から消えていた。
「トイレじゃないですか? 何もおっしゃらずにたった今出ていかれましたよ?」
 課長と目のあった係員の報告を聞くと、山本は不機嫌そうに眉間へしわを刻みながら一人ごちた。
「真ちゃん頼むぞぉ。あの手配書出したの、お前さんじゃないか……」
 戻ってきたら一言文句を言ってやろうと待ちかまえる山本は、そのチャンスを意外に長く待つことになった。

8.突入!  つくば中央警察 その1」へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8.突入!  つくば中央警察 その1

2008-04-20 22:59:10 | 麗夢小説『有翼獣は電脳空域に夢まどろむ』
 麗夢と円光、アルファ、ベータは、麗夢の愛車、プジョーの軽快なエンジン音を残しながら、まっすぐつくば中央警察署目指して市の中央大通りを疾駆していた。その後ろから、赤いライトを明滅させながら、緊急通行時の警告音で合唱を奏でつつ追走するツートンカラーの車体が列をなす。時折居丈高に「停まれ!」と命じる声が届くが、元より麗夢に聞く耳はない。ただ、どうやれば鬼童を無事救出し、この状況を打破して事態を解決に結びつけることができるか、が、麗夢と円光唯一の関心事である。
 東都大で警官に捕まりそうになった所を辛うじて脱した一行は、ようやく麗夢の事務所まで逃げ帰ったところで、再び携帯に現れたROMから、鬼童逮捕という驚くべき情報を得た。
『警告したんだけど一歩遅かったわ。でも、あのおじさんは必要だから、麗夢ちゃん、助けてあげて』
 それだけ一方的にまくし立てて、ROMからの連絡は切れた。ROMが長時間の接触を極力避けようとしているのは麗夢にも判ったが、それが何故なのか、一体ROMは何を知っていて、何をしようとしているのか、そう言った、今麗夢がもっとも知りたい事柄が一切不明であった。一度は携帯の通信履歴を元にROMを呼び出そうと試みたが、どうやっているのか、ROMはその記録をきれいさっぱり消去して自分が麗夢と連絡を取っていたという痕跡を残さなかった。その徹底ぶりに麗夢の不審な思いはいや増しに増したが、といって麗夢も円光も囚われの鬼童を放置しておく積もりはない。そしてこういうとき誰よりも頼りになるのが榊警部、と言う共通認識の元に、麗夢は直ちに榊へ、事実確認と鬼童の保護を求め、連絡を取ったのである。しかし、警視庁への通話では、榊は留守、とけんもほろろにいなされ、それではとかけた榊の携帯も、一向に応じる気配がなく呼び出し音ばかりが虚しく鼓膜を打ち続けた。こうなれば、自分達や鬼童に降りかかった災難を思えば、榊にも何か連絡の取れない不測の事態が出来したと考えるのが自然である。つまりどこかの誰かが警察組織を動かし、ささやかな麗夢ファミリーをからめ取ろうと、その悪意の網を都下に投げかけてきたらしい。一体その勢力がどの程度の影響力を持つのか、情勢不明なのが困る所だが、基本的に思い悩むよりは動き回って事態打開を目指すのが麗夢の基本姿勢である。アルファ、ベータは元より主人と一心同体だし、円光も、「見事なもののふの心意気!」とそんな麗夢の態度に感服して、一緒に修羅場に突っ込むのを躊躇わない。こうして二人と二匹は、取るものも取りあえず、とにかくROMの言うところのつくば市に向け、出発したのである。途上主要道路では既に検問が始まっており、危うく麗夢達もその網にからめ取られそうになったが、麗夢は目ざとく間道を抜け、更に道なき道をプジョーの「特殊能力」を駆使して走り抜けるなどして凌いだ。しかし、そのための時間ロスは致し方なく、普通なら常磐道を使って一時間足らずの道のりを、三時間半もかけることになってしまった。どうやら既に警察も麗夢達一行の目的を承知しているらしく、通常は一般車両で溢れかえるこの中央大通りに、走る車両は麗夢のプジョーと警察の車ばかりになっている。これは最悪の事態を一応想定して置いた方がいいかも知れない、と麗夢と円光はうなづきあった。警視庁と茨城県警、ひょっとすると関東一円、あるいは日本全国の警察が、自分達に牙を剥いているのかも知れない。そうなれば、いかに榊の人望が厚く、警察組織で影響力が大きかったとしても、ただ一人の力でどうこうできるレベルでは無くなっているだろう。榊と連絡が取れないのはそういう事情もあるのではないか、と二人と二匹は考えていた。
「麗夢殿あれを!」
 つくば市の中心街、つくばターミナルを核に百貨店や銀行、郵便局などが集合する一角に、つくば中央警察の武骨な建物が見えてきた。もちろん警察署など、それと知って注意していないと普段は見落としがちな没個性極まる建物であるが、十数台のパトカーを前に連ね、その隙間を埋めるジュラルミンの盾と、制服、私服様々な姿をした男達の群が一様に同じポーズを取って麗夢達を出迎えたので、今回ばかりは見間違えようもない。警官の大方は、官給品であるニューナンブの銃口をこちらに向けているが、ふと視線を上にずらすと、署の屋上などにライフルを構える者の姿も見える。指揮を執っていると思しきがっしりした体格の警官がメガホンを持って、しきりに停まらないと撃つ! と警告を繰り返している。
「麗夢殿、いかが致す?」
「もちろん、正面突破よ!」
 麗夢の目がきらりと輝き、不敵な笑みがその可憐な唇に刻まれる。円光もその言葉に否やはない。力強く円光が頷くのを見た麗夢は、普段は目立たないよう巧妙に仕込まれたプジョーの力を開放した。目一杯踏み込まれたアクセルに呼応して、イタリアの闇の名匠ジェッペットの自信作が全力発揮の咆哮を上げた。たちまち油断していると首がのけぞってしまいかねないほどな加速が加わり、一流のマラソンランナーがゴール前で見せるようなラストスパートが、後ろの行列を見る見る引き離していく。このまるで躊躇いも見せず突っ込んでくる麗夢の車に、前方のバリケード部隊は、堪らず発砲を開始した。だが、いかに正面から迫ってくるとはいえ、予想を上回るスピードで突っ込まれて浮き足だった銃弾が、目標を捉えるはずもない。
「行くわよ! みんな掴まって!」

8.突入!  つくば中央警察 その2」へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8.突入!  つくば中央警察 その2

2008-04-20 22:59:04 | 麗夢小説『有翼獣は電脳空域に夢まどろむ』
 クラッチを踏み込んだ麗夢は、チェンジレバーを通常の車には無い位置に叩き込んだ。たちまち円光、アルファ、ベータの身体に、地面との繋がりを意識させるしっかりした接地感と震動が失せ、タイヤが地面を蹴る轟音が、甲高い空気を切り裂くファンの音に変化した。同時に前方の視野が大型トラックの運転席並に持ち上がった。
 前方でバリケードを構える警官達も、必死にアクセルを踏み込んで追走するパトカーの連中も、皆一様に唖然としたことであろう。それまでちょっとばかり大排気量なエンジンを積んでいるだけの、スポーティーな外車とばかり思っていた車が、その車輪を畳み込むようにして水平に倒したと見るや、たちまちふわっと宙を飛んだのだから。車輪は地を蹴るときよりも更に速く回転を増し、空気を掴んでプジョーの車体を数メートルも浮かび上がらせたのだ。車は、激突する! と左右に飛び別れようとしていた警官達の頭上を飛び越え、その後方の空き地に見事舞い降りた。タイミング良く車輪が垂直に降ろされ、ぎゃん!と二つのスリップ跡をアスファルトに刻んで、再び地面を駆る車に変身する。プジョーの見せた華麗なホバリング能力に度肝を抜かれた警官達がようやく我に返ったとき、その後ろから、突然の破局が襲いかかった。麗夢を必死で追いかけてきた車両群が、突然見せつけられたプジョーの隠し芸に気を取られ、ブレーキを踏むタイミングを失したのだ。先頭を走る車が甲高い急ブレーキ音と共にバランスを失い、斜め四十五度の姿勢でバリケードに突っ込むと、後続の車も次々と吸い込まれるようにバリケードへ襲いかかった。金属と金属がぶつかり合い、ひしゃげあう阿鼻叫喚がひとしきり現場を覆い、銃声の替わりに悲鳴と怒号が騒音に負けじとこだまする。どこか間の抜けたようなクラクションが不快なBGMを奏でる中、つくば中央警察署に動員された麗夢捕捉部隊は壊滅した。
 その間も麗夢の疾走は止まらない。勢い良くスリップしながら進行方向を署の正面玄関に据えたプジョーは、後部トランクから、大きめのゴルフバックのような円筒をせり上げた。がっしりしたアームに支えられた円筒は、くるりと九十度回転すると、前面に開いた七つの穴を、署の正面玄関の方へ向けた。
「逃げろ!」
 万一のバリケード突破に備えて所内で待機していた署員が、その円筒から白煙を噴きながら飛び出してきた五〇〇ミリリットルサイズのペットボトルのような物体を見て、異口同音に叫んだ。それはやや回転しながらもまっすぐ錠を下ろされた自動ドアのガラスに突入し、一瞬の閃光と耳をつんざく炸裂音で警察署建物を揺さぶった。麗夢は、その濛々たる白煙がたちこめる中へプジョーを躍り込ませると、ぐいとハンドルをひねって横向きに急停車させた。
「後はよろしく♪」
 麗夢はアルファ、ベータに呼びかけると、円光と共に車から飛び降りた。
「にゃん!」
「わんわんワン!」
 アルファ、ベータが元気良く返事して、プジョーの操作を麗夢から引き継いだ。即座にベータが武器管制システムに取りつき、アルファが窓枠に前足をかけて、警戒の視線を四方に配る。ようやく白煙が晴れた所で、一時の混乱から立ち直った警官達が、大胆にも建物内まで躍り込んだ不審車両目がけて恐る恐る包囲の輪を縮めてきた。
「にゃん!」
 そろそろ頃合いだ、と見たアルファの合図で、ベータがスイッチを一つ、ぽん、と押した。
 続いて生じた事態に、茨城県警の警官達は、まさに信じられぬ思いで逃げまどった。人の乗っていないプジョーの小さな車体の脇から突然ガチャリ、と金属的な音と共に武骨な銃身が現れ、けたたましい特大のタイプライターのような音を奏でながら火を噴いたのである。警官達は、七・六二ミリの機関砲弾に足元をミシン掛けされ、火花とアスファルトの破片が飛び散る中を、パトカーの残骸まで這々の体で退却した。
「何なんだあの車! あんなもの自衛隊でもないと対抗できないぞ!」
「それにどうやって操縦しているんだ? 女も男も姿が見えんじゃないか」
 パトカーの陰に隠れる署員達は、ほぼ同時に考えたくもない未来を想像して怖気を振るった。想像を絶する武装テロリストに占拠され、落城する自分達の城の姿を。
「県警本部に応援を頼もう! いや、霞ヶ浦駐屯地に連絡して、陸自に来て貰おう!」
 そう叫んで辛うじて生きている無線機に取りつこうとした若い署員を、一人の刑事が押し止めた。
「俺は、見た。あの車、操縦しているのは猫と犬だ……。そんなこと、報告できるか?」
 えっと驚き、皆が車体の隙間からプジョーを窺おうとした時、通信機へ、向かいのビルに配置した狙撃班からの連絡が入った。
『犯人の姿が見あたりません! 車に残っているのは小さな猫と犬のみです! どうしますか、指示願います!』
 指揮を執っていた年輩の刑事は、通信機を握ったままただ絶句するしかなかった。
「俺達は、……猫と犬にしてやられているのか?……」

9.激闘!  恐怖の荒武者 その1」へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

9.激闘!  恐怖の荒武者 その1

2008-04-20 22:58:32 | 麗夢小説『有翼獣は電脳空域に夢まどろむ』
 アルファ、ベータの活躍で署員の大半が屋外に釘付けになっている頃、麗夢と円光は少数の抵抗を実力で排除しながら、鬼童のいる留置場目指して突き進んでいた。
「麗夢殿、いくらなんでも少々やりすぎたのではあるまいか……。これでははたして榊殿でも収拾できるかどうか」
 かくいう円光も、車を降りてからこっち、既に七名の署員にその錫杖を振るって床を舐めさせている。
「まあ事件そのものを解決したらどうにかなるわよ。それより早く鬼童さんを回収しましょう。先のことはそれからよ」
 麗夢もやりすぎは認めるものの、さりとて他の手段も思いつかない。これで榊警部がいてくれたならもっと穏便にできたかも知れないのだが……。
「あれ? 榊警部!」
「榊殿、どうしてここへ?」
 廊下の突き当たりを折れ、鉄格子が見えた瞬間、二人はその厳めしい部屋の入り口の前に、思いもよらない人物の姿を見て一瞬喜んだ。筋骨隆とした肉体によれよれのレインコートを引っかけ、手入れの悪い髭が周りをすっかり覆う口に、短くなった煙草をくわえて立つその姿。こういうときもっとも頼りになる男が、この土壇場で現れてうれしく思わないはずがない。思わず口元をほころばせて麗夢より一歩早く榊の前に走り込んだ円光は、次の瞬間、かちゃり、と冷たい音が自分の左手首から発したのを聞いて、愕然となった。
「さ、榊殿、これは一体?!」
 円光が驚愕から立ち直る隙も与えず、榊はすぐ背後の鉄格子へ、手錠のもう一端をかけた。
「ど、どうされたのだ! 榊殿!」
 同じく驚きで立ち止まってしまった麗夢の方へ、榊が新しい手錠を手につかつかと歩み寄る。円光はその背中に叫んだが、榊は一顧だにしなかった。
「円光並びに綾小路麗夢。屋代邸放火犯として、逮捕する」
 まるで意思の存在を感じさせない棒読みが、榊の口からぼそぼそと発せられた。
「榊警部、どうしたの?! 榊警部!」
 じりじりと後ずさりしながら、麗夢は必死で呼びかけた。だが榊の足は止まらない。手錠の鎖をじゃらじゃらとこれ見よがしに鳴らしながら、一歩また一歩、麗夢を元来た道に押し込んでいく。麗夢は悟らざるを得なかった。あの東都大であった警官達と同じく、榊は未知の邪悪な何かに操られている!
「麗夢殿、逃げろ! 今の榊殿は拙僧等の知る榊殿ではない!」
 麗夢と同じく榊の異変に気づいた円光が必死に呼びかける。だが、麗夢も円光を残して退却するわけには行かなかった。麗夢はタイミングを見極めると、一二の三!で鷹揚に構える榊の左脇に飛び込んだ。そこへ榊の丸太のような足が、横薙ぎに麗夢目がけて飛んできた。
「きゃっ!」
 常人離れした動体視力と反射神経で辛うじてかわした麗夢だったが、飛び越そうとした向こうずねに、榊の足が僅かにかすった。それでも麗夢は、足が骨折したか、と錯覚するほどな強い衝撃を覚え、もんどり打って床を転がった。あいててて、と手をついて立ち上がろうとした時、円光の叫びが耳を打った。
「麗夢殿、危ない!」
 え、と一瞬こわばった耳元に、強烈な殺気を伴った気圧変動が、唸りを上げて襲いかかった。急速に視界を埋める榊の足に、恐怖に凍り付いた麗夢の目がただ丸く見開かれる。そこへ一筋の白い閃光が、麗夢の頭上を飛び越えて榊の胸元に吸い込まれた。
「ぐふっ!」
 声ならぬ声を上げて榊が仰向けに倒れる。辛うじて窮地を脱した麗夢は、白木の錫杖を投げつけた円光の元へと走り寄った。
「あ、ありがとう、円光さん!」
 息を切らし笑顔を見せる麗夢に、円光は厳しい表情で言った。
「まだ気を抜いてはいけない、麗夢殿!」
 はっと振り返る視線の先で、自分を倒した錫杖を杖代わりに、榊の巨体がゆっくりと立ち上がった。
(絶体絶命だわ)
 相手は、操られているとはいえ警視庁きっての荒武者とたたえられたあの榊である。油断していたのを割り引いても、円光の手強さを見抜いて一瞬でその自由を奪った鮮やかな手並みは、およそ凡人のそれではない。しかも今度は錫杖という武器まで手にしているのだ。素手でさえ麗夢にはまともな抵抗はできそうにない相手なのに、あんな武器まで持たれては、麗夢に残された道はもはや最後の手段しかなかった。麗夢は決心を付けると、おもむろに右手を左の脇に突っ込んだ。紫のケープが翻り、本皮のホルダーがかいま見える。冷たい金属音と共にコルト四四マグナムを取り出した麗夢は、まっすぐその銃口を迫り来る榊へと向けた。
 「警部、お願い、目を覚まして!」
 この銃もまた、ジェッペットの手により麗夢に最適にチューンされた逸品である。先端に十字の切れ込みが入った特製の銀弾が撃ち放たれる時、その威力に抵抗できる夢魔はまずいない。
 麗夢は両手を伸ばし、しっかりと銃をホールドした。できれば撃ちたくない。だが、状況はそうはいってもいられない。となれば、けして致命傷になったり後々後遺症が残るような所に命中させるわけには行かない。ぎりぎりの集中力が額に汗を噴き出させ、銃把を握る掌をじっとりと湿らせていく。榊の動きは相変わらずゆっくりだ。一歩一歩、確かめるように歩いてくる。麗夢の右手人差し指に力が込められ、引き金の冷たい固さがその肉に食い込んだ。
「円光さん! そこにいるのは円光さんか?! 麗夢さんも一緒なのか?」
 麗夢の耳に、かすかな声が届いた。かなりくぐもってはいるが、確かにそれは、鬼童海丸の声に違いなかった。
「おう! 麗夢殿と拙僧で鬼童殿を助けに参ったが、榊殿が敵に操られて難渋しているんだ!」
 榊から目を離せない麗夢に変わって、円光が鉄格子の奥に叫んだ。ややあって鬼童が重要な言葉を返してきた。
「麗夢さんもいるなら聞いてくれ! 携帯電話だ! 警部の携帯電話を見つけて、それを破壊すれば警部の目が覚める!」

9.激闘!  恐怖の荒武者 その2」へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

9.激闘!  恐怖の荒武者 その2

2008-04-20 22:58:27 | 麗夢小説『有翼獣は電脳空域に夢まどろむ』
「携帯電話? 榊警部はそれに操られているの?」
 じりじりとにじり寄る榊に注意を集中しつつ、麗夢も大声で鬼童に答えた。「あぁ、麗夢さん! そうです。榊警部は携帯電話に仕込まれた、一種の催眠電磁波発生装置の影響で悪夢のただ中に閉じこめられているんです! ですから警部の携帯を壊して電磁波を止めれば、警部は正気を取り戻すはずです」
「判ったわ! ありがとう鬼童さん!」
 さて、方法は判ったけど警部はどこに携帯を持っているのだろう? レインコート越しでは、どのポケットに仕舞ってあるか判然としない。その場所によっては銃撃で携帯だけ破壊できるかも知れないのだが……。その時、ややおずおずという体で、円光が言った。
「その、麗夢殿、榊殿に電話をかけてみればどこに仕舞われているのか、自ずと知れるのではなかろうか?」
「なーる程、それなら判るかも! 円光さんかしこーい!」
「い、いや、そんなにお褒めいただかなくとも……? 何ですか、それ?」
 思わず照れる円光の目の前に、ずいと可愛らしい携帯電話が突き出された。
「早く取って! それで榊警部の携帯に電話して頂戴!」
「せ、拙僧が?!」
「私は今手が放せないの! お願いだから早く!」
「は、はい!」
 円光はおぼつかない手つきで携帯を受け取ったが、すぐに自分がとてもそれを操作する能力に欠けていることに気がついた。
「れ、麗夢殿! これは一体どうしたら電話できるのだ?!」
「左側の上から二番目のボタンを押して!」
「こ、こう? おおー、確かに表示が変わりましたぞ、麗夢殿」
「次は、真ん中の一番大きなボタンよ! 下に押していったら榊警部が出るから、早く探して!」
「ん? 鬼童海丸、090……」
「鬼童さんはいいから! もう一度押して!」
「もう一度……おぉ! これは確かに榊殿の名前と番号! 何々?090986……」
「円光さん何してるの!」
「れ、麗夢殿、今話しかけられては幾ら拙僧でも困り申す。番号が覚えられぬではないか」
「覚えなくていいの! 左上の電話のマークがついたボタンを押して!」
 円光の余りの機械音痴に思わず振り向いた麗夢は、その瞬間、自分が非常に危険な状態にあることに気がついた。はっと振り返った視界に、唸りを上げて飛んでくる金色の光が射しこんだ。
「危ない麗夢殿!」
 驚き叫ぶ暇もあればこそ、辛うじてすくめた頭を両手でかばうのが精一杯な麗夢の右手に衝撃が走った。
「きゃん!」
 麗夢は思わず悲鳴を上げて倒れたが、紙一重で砕けた頭蓋骨を晒す事だけは避けられた。一瞬の判断で蹴り上げた円光の足が、辛うじて錫杖の勢いを逸らしたのだ。それでも麗夢の拳銃が床にたたき落とされ、勢い余った円光の手から、麗夢の携帯が跳ね飛ぶのまでは避けられなかった。
「しまった!」
 慌てて円光は手を伸ばそうとしたが、もう少し、と言うところで左手が引っ張られ、どうしても携帯まで右手の指が届かない。麗夢も右手を押さえながら拳銃を拾おうとしたが、その隙に走り寄った榊真一郎のがっしりした右手が、麗夢の軽くウェーブのかかった碧の黒髪を鷲掴みにしていた。
「きゃあっ!」
 強烈な痛みが頭を走り、首が抜けるかと錯覚するほどな勢いで上体が引き起こされる。思わず涙ぐむ麗夢の目に、正気を失った榊の顔が飛び込んでくる。
「け、警部、お願い、目を、目を覚まして……」
 麗夢は、榊の左腕に取りすがりながら苦しげに言った。だが、榊は残忍な微笑みをその唇に浮かべ、左手を麗夢の華奢な首にかけた。
「や、やめて!」
と叫ぶ声は、既にくぐもった呻き声にしかならなかった。片手一本とは言え榊の握力は、麗夢の呼吸を奪うのに充分な力を有している。いや、下手をすればそのまま首の骨をへし折るくらいは榊ならやるかも知れない。麗夢は必死で榊の右腕を掴んだが、榊は麗夢の髪を離すと、右手も添えて麗夢の首を締め上げ、そのままぐいと持ち上げた。つま先立ちで辛うじて体重を支えていた麗夢の足が床を離れて宙に浮く。麗夢は残された力を振り絞って榊の顔に蹴りを入れたが、榊は動じることなく麗夢の絞首刑を執り行い続けた。
「麗夢殿ぉっ! く、くそっ! ええい、南無三!」
 ごきっと言う音が、意識が遠のきかけた麗夢の耳にも届いた。さすがに苦痛で歪んだ円光の顔に、脂汗が玉と散る。だが、無茶をしただけの甲斐はあった。それまで指一本分不足していた携帯電話までの距離が、肩が抜けた分で遂に埋まったのである。円光は急いで電話を取り上げると、不器用ながらも麗夢が最後に告げたボタンをしっかりと押した。カラフルな液晶に、この場ではあまりにそぐわない可愛らしいキャラクターが現れ、その上で090から始まる数字がずらりと並ぶ。一瞬遅れて、榊の左胸から軽やかな電子音で装飾された、呼び出しの音が流れ出た。麗夢は最後の力を振り絞り、その音目がけて思い切り右足を叩き付けた。
 涼しげな呼び出し音が、突然耳障りなノイズに変化した。途端に榊の両手から力が抜け、麗夢の身体がその足元に落ちた。うつぶせのまま喉を押さえて激しくせき込む麗夢の前で、榊もまた急に足の力が抜けたように、すとん、と床に尻餅をついた。ようやく咳が止まって苦しい息をつく麗夢を、聞き慣れた声が包み込んだ。
「あれ? 麗夢さんじゃないか……。どこだここは?」
 きょとん、とした顔で麗夢を見つめるつぶらな瞳に、思わず麗夢は安堵のほほえみでその帰還を祝した。
「良かった、私の榊警部に戻って……」
「何のことです? これは一体……?」
「榊殿、説明は後でいたす! それよりも早くこの手錠をはずして下され!」
 鉄格子に繋がれている円光に視線を転じた榊は、鮮やかすぎる手並みで手品の大技を披露された観客のような表情のまま、どっこらしょ、と立ち上がった。

10.東都大、再訪 その1」へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする