かっこうのつれづれ

麗夢同盟橿原支部の日記。日々の雑事や思いを並べる極私的テキスト

潔しこの夜、韓国の科学界は立ち直ることが出来るでしょうか?

2005-12-24 23:22:26 | Weblog
 本当は表紙にしようと思っていたのですが、到底間に合わないのでかなりおおざっぱに仕上げてとにかく「今日」に間に合わせようと、ブログに上げてみることにしました。次は年賀用CGですが、はたして間に合いますでしょうか?(笑)
 
 さて、韓国のES細胞疑惑は、とうとう渦中の博士が白旗を揚げて終わりと言うことになりそうです。成功の報を聞いたときは、バラ色の未来が見えた気が確かにいたしましたので、正直言ってこの結末は大変残念です。この研究成果をベースに、世界中で次の研究計画が組み立てられていただけに、この捏造問題がES細胞を巡る世界の研究その物を中断させ、再検証と研究計画の練り直しを余儀なくさせてしまう事になったのです。それが一体何年分のロスになるかは判りませんけど、最終的に我々一般市民にその成果の波及効果が得られるようになるのは、10年単位で遅れるかも知れません。
 それにしても、どうしていずればれるに違いない捏造をしてしまったのでしょう? ご本人の供述を聞かねば判らないことではありますが、一つ可能性として、我々日本人も含めて韓国、中国にも多分共通すると思われる性格的特性があげられるかもしれません。即ち、「失敗」に対する不寛容です。日常的に失敗というのは我々の周囲に当たり前に存在します。交通事故などの様に人が怪我をしたり死んだりするような大きなものもあれば、もっと身近に小さな失敗というのは結構頻繁に起こっていることでしょう。いわば人間は失敗するように出来ている生き物であるとも言えると思いますが、個人レベルの物ならともかく、社会的に影響のある失敗をやらかしたとき、しばしば我々はその失敗した個人の責任を責め立てて、話を終わりにし勝ちです。交通事故などまさにその典型で、不注意、義務違反、過失などと、とにかく事故を起こした運転手を責め立てる事に終始します。でも、個人が責任を負える範疇で注意をしても避けられない事故や、個人の注意力を損なうような様々な状況、現象が複合的に作用して生じる事故だってあります。でも、そう言う点が焦点になることは希ではないでしょうか? 
 このように失敗を個人の問題に収斂させると、結局失敗するのはお前が悪いからだ、となってしまうでしょう。
 この博士も、本人が今もまだ主張するように、ひょっとしたら幾つかの成功は手にしていたのかも知れません。でも、それ以上に多くの失敗をしてしまっていたのかもしれません。本来研究というものは思いもよらない事象の前に失敗を重ねて真相に迫ると言うところがあります。時にはそんな中から素晴らしい成果がくみ出せたりもする事があります。だから失敗もまた貴重な体験なのですが、国家の英雄として、経済的にも社会的にも祭り上げられてしまった結果、この博士は謙虚に自分の失敗を明らかにすることが出来なくなったのではないでしょうか? いずれにしてもこの事件の顛末は、当の博士一人の問題ではなく、捏造を見抜けなかった科学界や、最初の疑念が生じたとき、熱狂的にその声を圧殺した政府やマスコミと言った構造的な問題も含めて、韓国という国が世界に伍して立てるかどうかを占う試金石ともなることでしょう。せっかくの研究の灯を消してしまわないよう、科学の発展のために祈りたいものです。


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