投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年12月11日(金)10時56分0秒
11月7日の投稿「ショパン・シューマン・憲法学者」で、岡田暁生氏の『音楽の聴き方 聴く型と趣味を語る言葉』(中公新書、2009)を引用し、ショパンがシューマンについて「このドイツ人の想像力にはほんとうに死ぬほど笑った」と評したと書きましたが、青柳いづみこ氏『音楽と文学の対位法』(みすず書房、2006)の「第2章 シューマンとホフマンの『クライスレリアーナ』」の説明は違っていますね。
シューマンは最初の音楽評論「作品二」を執筆するにあたって「ダヴィッド同盟」というペンネームを考案し、「自分の男性的、攻撃的人格をフロレスタン」、「女性的、内向的人格をオイゼビウス」と名づけ、「ピアノの師ヴィークをマイスター・ラロと命名し」、更に「筆記者としてユリウスなる人物を配し」、これらキャラクターを使って小説仕立てで書くという随分面倒くさい方法を取ったそうですが、
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記事は、「私」ことユリウスの一人称で語られる。フロレスタンと一緒にピアノの前に座っているところに、オイゼビウスがそっと戸をあけてはいってきた。「諸君、帽子をとりたまえ、天才だ」と言いながら楽譜を見せる。「およそ来るべきもの、新しいもの、異常なものなら何でもみな予感するという、まれにみる音楽的な男の一人」フロレスタンは、オイゼビウスにその曲を弾くようにうながした。オイゼビウスは霊感がのりうつったように見事に弾いたので、すっかり感激した二人は、これほどすばらしい作品はベートーヴェンがシューベルトが書いたのだろうと思って表紙をめくってみると、ショパン《ドン・ジョバンニの主題による変奏曲作品二》(通称《ラ・チ・ダレム変奏曲》)と記されている。
「さすがの僕らもびっくりして、思わず『作品二だって!』と大声を上げると同時に、腹の底から感心したので顔が真っ赤にほてった。(中略)ショパン─そんな名はきいたことがないよ」(『音楽と音楽家』)
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とのことで(p65以下)、「諸君、帽子をとりたまえ、天才だ」は小説の中の、「女性的、内向的人格」たるオイゼビウスの発言なんですね。
そして青柳氏は小説中の「マイスター・ラロ」の見解を紹介した後、
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ところで、現実の「マイスター・ラロ」ことヴィークの反応は、少しも冷ややかではなかったのである。シューマンよりさらに詳細に一小節一小節を分析し、オペラの場面とつきあわせた「何十ページもある」論文を執筆したヴィークは、「一般音楽新聞」から寄稿を断られると、マインツの音楽雑誌「ツェツィーリア」に掲載の約束をとりつけ、さらに同じものをパリの「ルビュ・ミュジカル」編集部とショパン自身に送りつけた。ショパンが手紙の中で「このドイツ人の想像にはほんとうに死ぬほど笑った」と書いているのは、シューマンの記事ではなくヴィークの論文の方らしい。
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と続けます。(p66)
シューマンの『音楽と音楽家』は吉田秀和訳で岩波文庫に入っているようなので、『ショパンの手紙』(白水社)と読み比べてみるつもりです。
ショパン・シューマン・憲法学者
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b12a0892a24825c2e874c357c3594acc
>筆綾丸さん
司馬遼太郎の説明は本当に分かりやすくて、練達の手腕に感心してしまいますが、さすがに「シェイクスピア以来といわれる卓越した人間把握力」はちょっと大げさな感じですね。
>石母田正が英文科へ行っていたら
石母田氏が法学部や経済学部のような実用的な学部に入っていたら「英文科に行こうかななど考えたことがあるのだから、よほど生意気だったのであろう」は一応理解できますが、石母田氏が実際に入ったのは文学部哲学科ですから、英文科よりよっぽど浮世離れしていて、「生意気」感に溢れているような感じもしますね。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
小太郎さん
司馬遼太郎『愛蘭土紀行?』(朝日文庫)は、むかし読んだものの、すっかり忘れていましたが、こういう記述があるのですね。
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シングの『海へ騎りゆく人々』は、一九〇四年、ダブリンで上演され、世界の演劇に大きな衝撃をあたえた。シングはその三十八年というみじかい人生の晩年に右の作をふくめてわずか六編の戯曲を書き、シェイクスピア以来といわれる卓越した人間把握力を示した。
『海に騎りゆく人々』の原題は”Riders to Sea”である。海へゆく騎手たち。
アイルランドでは、沖の白い波濤のことを”白い馬”という(私は安東一郎氏の訳のジョイス『ダブリン市民』の注から素人推量ながらそのように解した)。その編中、パーティからの帰路、登場人物たちが馬車でダブリンのオコンネル橋にさしかかったとき、そのうちの一人が、橋上から沖をみて、この橋をわたるときには、かならず人は”白い馬”を見る、という意味の会話をもらすのである。訳者の安藤一郎氏はその”白い馬”に訳注をつけて、”波のこと”としておられる。
波を白い馬という以上、シングの右の戯曲の題が海へゆく騎手(ライダー)であるのは、ごく自然なことばのつかい方かもしれない。
しかも、海へゆく舟は、布張りの、木ノ葉のようなカラハなのである。カラハは舟というより、白い馬(波)の背に置く鞍にすぎないのではないか。
鞍ならば、ずり落ちれば、死ぬ。アラン島のひとびとは、漁師とか船乗りとかいう安定した職業人というより、鞍(カラハ)にまたがって波を駆る騎手だからこそ、シングは”海のライダーたち”とよんだのにちがいない。(113頁~)
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同書に、アイルランドの cottier (入札小作人)というものへの言及がありますが(11頁)、石母田正が英文科へ行っていたら、この奴隷のような制度もあの明晰な頭脳で徹底的に研究していたでしょうね。
Synge 家は、祖先の美しい歌声がヘンリー八世(あるいはエリザベス女王)の御感に入って Sing 即ち Synge を賜った、という伝説がある名家なんだそうですね(72頁)。
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