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「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

資料:『平治物語』「信頼・信西不快の事」

2024-12-27 | 鈴木小太郎チャンネル2024
『新日本古典文学大系43 保元物語 平治物語 承久記』(岩波書店、1992)p146以下

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(信頼・信西不快の事)

 いにしへより今にいたるまで、王者の人臣〔にんしん〕を賞ずるは、和漢両朝をとぶらふに、文武二道を先とせり。文をもつては万機のまつりごとをおぎのひ、武をもつては四夷のみだれをしづむ。しかれば、天下をたもち国土をおさむること、文を左にし、武を右にすとぞ見えたる。たとへば人の二〔ふたつ〕の手のごとし。一〔ひとつ〕も欠けてはあるべからず。なかんづく末代の流れに及びて、人おごつて朝威〔てうい〕をいるかせにし、民はたけくして野心をさしはさむ。よく用意をいたし、せん/\抽賞〔ちうしやう〕せらるべきは勇悍〔ようかん〕のともがらなり。しかれば、唐の太宗文皇帝は、鬚〔ひげ〕をきりて薬をやきて功臣に給ひ、血をふくみ傷をすいて戦士をなでしかば、心は恩のためにつかへ、命〔めい〕は義によつてかろかりければ、兵、身をころさんことをいたまず、たゞ死を至〔いたさ〕んことをのみ願へりけるとぞうけたまはる。みづから手をくださざれ共、こゝろざしをあたふれば、人みな帰しけりといへり。
 近来〔きんらい〕、権中納言兼中宮権大夫、右衛門督藤原朝臣信頼卿といふ人ありけり。天津児屋根尊〔あまつこやねのみこと〕の御苗裔〔べうえい〕、中〔なかの〕関白道隆の八代の後胤、播磨三位すゑたかが孫、伊予三位仲隆が子息なり。文にもあらず、武にもあらず、能もなく、又、芸もなし。たゞ朝恩にのみほこりて、昇進にかゝはらず、父祖は諸国の受領〔じゆりやう〕をのみへて、年たけ齢〔よはひ〕かたぶきてのち、わづかに従三位までこそ至りしに、これは近衛府〔こんゑづかさ〕・蔵人頭〔くらんどのかみ〕・后宮〔こうぐう〕の宮司〔みやづかさ〕・宰相の中将・衛府督〔ゑふのかみ〕・検非違使別当、これらをわづか二三ケ年が間にへあがつて、年廿七、中納言・衛門督〔ゑもんのかみ〕に至れり。一の人の家嫡〔けちやく〕などこそ、かやうの昇進はし給へ、凡人〔ぼんにん〕にとりては、いまだかくのごときの例をきかず。官途〔くわんど〕のみにあらず、俸禄も又、心のごとくなり。家にたえてひさしき大臣の大将〔だいしやう〕にのぞみをかけて、かけまくもかたじけなく、おほけなき振舞をのみぞしける。みる人、目をおどろかし、きく人、耳をおどろかす。弥子瑕〔びしか〕にもすぎ、安禄山にもこえたり。余桃〔よたう〕の罪をもおそれず、たゞ栄華にのみぞほこりける。
 その比〔ころ〕、少納言入道信西〔しんせい〕といふ人あり、山井〔やまのゐの〕三位永頼卿八代の後胤、越後守季綱の孫、進士蔵人〔しんじくらんど〕実兼〔さねかぬ〕が子なり。儒胤をうけて儒業をつたへずといへども、諸道を兼学〔かねがく〕して諸事にくらからず。九流をわたりて百家にいたる。当世無双〔たうせいぶさう〕、宏才博覧〔くはうさいはくらん〕なり。後白河の院の御乳母〔めのと〕紀二位の夫たるによッて、保元元年よりこのかた、天下の大小事を心のまゝに執行〔しゆぎやう〕して、たえたるあとをつぎ、廃れたる道をおこし、延久の例にまかせて記録所を置き、訴訟を評定し、理非を勘決す。聖断〔しやうだん〕、わたくしなかりしかば、人のうらみものこらず、世を淳素〔しゆんそ〕に返し、君を尭舜〔ぎやうしゆん〕に致したてまつる。延喜・天暦二朝にもはぢず、義懐〔ぎくわい〕・惟成〔ゐせい〕が三年にもこえたり。大内はひさしく修造せられざりしかば、殿舎、傾危〔けいき〕して、楼閣、荒廃せり。牛馬の牧、雉兎〔きじうさぎ〕の臥所〔ふしど〕となりたりしを、一両年の中に造出して御遷幸あり。外郭重畳たる大極殿、豊楽院、諸司、八省、大学寮、朝所〔あいたんどころ〕にいたるまで、花の榱〔はへき〕、雲の栭〔たゝりかた〕、大廈〔たいか〕の構へ、成風の功、年をへずしてつくりなせり。不日と云べかりしか共、民のついへもなく、国のわづらいもなかりけり。内宴・相撲〔すまひ〕の節〔せち〕、久くたえたるあとをおこし、詩歌・管絃のあそび、折にふれてあいもよほす。九重〔こゝのへ〕の儀式、むかしをはぢず。万事の礼法、旧〔ふるき〕がごとし。
 その保元三年戊寅〔つちのえとら〕八月十一日、主上〔しゆしやう〕、御くらゐをしりぞかせ給て、御子の宮にゆづり申させ給けり。尊宮〔そんぐう〕と申は二条の院の御ことなり。しかれども、信西が権勢もいよ/\かさねて、とぶ鳥もおち、草木もなびくばかりなり。信頼卿の寵愛もいやいづれにて、肩をならぶる人もなし。こゝに、いかなる天魔の二人の心にいりかはりけん、その中不快、信西は信頼を見て、なにさまにもこれをば、「天下をもあやぶめ、世上をもみださんずる人よ」と見てければ、いかにもして失はばやとおもへども、当時無双の寵臣なる上、人の心もしりがたければ、うちとけ申あはするともがらもなし、ついでもあらばと、ためらいけり。信頼も又、なに事も心のまゝなるに、此入道をいぶせきことにおもひて、便宜〔びんぎ〕あらばうしなはんとぞ案じたる。
 上皇〔しやうくわう〕、信西におほせられけるは、「信頼が大将にのぞみをかけたるはいかに。かならずしも重代〔ぢうだい〕の清華〔せいぐわ〕の家にあらざれども、時によッてなさるゝこともありけるとぞつたへきく」とおほせられければ、信西、心におもひけるは、「すは、この世を損じぬるは」となげかしくおもひ、申けるは、「信頼などが大将になり候なば、たれ人かのぞみ申さで候べき。君の御まつりごとは、司召〔つかさめし〕をおゐてさきとす。叙位・除目〔じよもく〕にひがごと出できたり候ぬれば、上、天聞にそむき、下、人のそしりをうけて、世のみだれとなる。その例、漢家本朝〔かんかほんてう〕に比類すくなからず。さればにや、阿古丸〔あこまる〕の大納言宗通卿を、白河院、大将になさんとおぼしめされしかども、寛治の聖主〔しやうしゆ〕、御ゆるしなかりき。故中御門藤中納言家成卿を、旧院、「大納言になさばや」とおほせられしか共、「諸大夫の大納言になる事は、たえてひさしく候。中納言にいたり候だにも罪に候物を」と、諸卿、いさめ申しかば、おぼしめしとゞまりぬ。せめての御こゝろざしにや、年のはじめの勅書の上書〔うはがき〕に、「中御門新大納言殿へ」とあそばされたりけるを、拝見して、「まことの大臣・大将になりたらんよりも、なを過ぎたる面目かな。御こゝろざしのほどのかたじけなきよ」とて、老の涙をもよほしけるとこそ、承〔うけたまはり〕候へ。古〔いにしへ〕は、大納言、なをもつて執しおぼしめし、臣もいるかせにせじとこそいさめ申しか。いはんや近衛大将をや。三公には列すれども、大将をへざる臣のみあり。執柄〔しつぺい〕の息、英才のともがらも、此職をもつて先途とす。信頼などが身をもつて大将をけがさば、いよ/\おごりをきはめて、謀逆の臣となり、天のために亡ぼされ候はんことは、いかでか不便〔ふびん〕におぼしめさでは候べき」と、いさめ申けれども、君にはげにもと思召たる御気色〔きしよく〕もなし。信西、せめてのことに、大唐、安禄山がおごれるむかしを絵にかきて、院へまいらせたりけれども、げに思しめしたる御こともなかりけり。
 信頼、信西がかやうに讒言し申〔まうしし〕事をつたへきゝて出仕もせず、伏見源中納言師仲卿をあいかたりて、伏見なる所にこもりゐつゝ、馬のはせひきに身をならはし、力技をいとなみ、武芸をぞ稽古しける。これ、しかしながら、信西をうしなはんがため也。
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