学問空間

「『増鏡』を読む会」、第10回は3月1日(土)、テーマは「二条天皇とは何者か」です。

四条隆親と隆顕・二条との関係(その3)

2022-12-19 | 唯善と後深草院二条

四条隆親の生年は、『公卿補任』の早い時期の記録の方が信頼できそうなので、建仁二年(1202)としておきます。
さて、承久の乱に際し、武装して後鳥羽院に近侍していた隆親(1202-79)が何故に処罰を免れたのかについて、姉の四条貞子(1196-1302)が親幕府派の西園寺実氏(1194-1269)室だったから、という理由が考えられます。
秋山論文の注(104)によれば、

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 嫡男降親も早くから後鳥羽に接近し、院御給で正五位下、従四位上に叙されたのだが、興味深いのは彼が承久の乱の最中、後鳥羽の比叡山御幸に武装して供奉したことである(『吾妻鏡』承久三年六月八日条)。ちなみにその時同行したのは、源通光、藤原定輔、親兼の兄弟、親兼の息子信成、尊長という院近臣ばかりであったが、承久の乱の張本の一人と見做された尊長は別としても、隆親以外は皆乱直後の七月二十日に恐懼に処された(『公卿補任』)。あまつさえ親兼、信成は六波羅に拘禁され、その際親兼は出家してしまった(同上)。通光もその後ずっと籠居し、安貞二年になってようやく出仕している(同上)。隆親一人何の処分もうけず、乱後も順調に昇進したのである。彼が処分を免れ得たのは姉貞子が幕府と親密な西園寺実氏の妻であったことによるのかもしれない。(但し貞子所生の長女姞子が嘉禄元年か二年の誕生であるので〈『女院次第』『五代帝王物語』『平戸記』仁治三年六月三日条など〉この婚姻が乱以前に成立していたかどうかには疑問が残る。)

http://web.archive.org/web/20150618013530/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/akiyama-kiyoko-menoto.htm

とのことで、西園寺実氏と姉・貞子との結婚時期という問題が一応ありますが、しかし、姞子(大宮院)が嘉禄元年(1225)生まれとして、その時に実氏は三十二歳、貞子は三十歳ですから、当時の上級貴族の結婚年齢としては高すぎます。
従って、二人の結婚自体はかなり前で、ただ子供が暫く生まれなかった、と考えるのが良さそうですね。
こうした西園寺家との関係の他に、承久の乱の時点で隆親は二十歳という若年であり、実際上の加担の程度が低かった、という事情も加味されたと思われます。
後鳥羽の比叡山御幸に同行した源(久我)通光など、上卿として義時追討の官宣旨に直接関与したのですから、殺されなかっただけマシかもしれません。
ま、それはさておき、四条家は承久の乱の影響を受けることなく、後堀河・四条天皇期にも北白河院(1173-1238)と密着して権勢を誇りますが、では何故、皇統が大きく変化した後嵯峨践祚後にも権勢を維持し得たのか。
再び秋山論文の引用となりますが、「〔四条天皇が〕嘉禎三年(一二三七)秋、閑院内裏の修理のために隆親邸に渡った時は翌年二月まで逗留している」に付された注(112)によれば、

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『百練抄』嘉禎四年二月十一日条。しかしこの直後の閏二月、隆親は「禁中狼籍事行不調事等之故」突然権大納言に任じられる代わリに近習を放逐されてしまった(『玉蘂』閏二月十五日条)。すなわち乳父をやめさせられてしまった訳である。こののち四条天皇生存中は殆ど朝廷の表舞台に登場しなくなるのだが、仁治三年正月、四条が急死し後嵯峨天皇が推戴されるとその近臣として再浮上した。しかも妻能子(足利義氏女)は後嵯峨の乳母と称されている。この点に関して深く言及することは避けるが、とりわけ注目されるのは四条が死去した閑院内裏に替って彼の冷泉万里小路殿が新内裏となったことである。それは幕府の使者が上洛する以前に内定していたようなので(『平戸記』仁治三年正月二十日条)、一早く彼が後嵯峨の許に参じたことがわかる。その後は後嵯峨の皇嗣久仁(後深草)の乳父となリ(久仁の母姞子は隆親の姪)、建長二年には家格を破って大納言に進み、また院の評定衆に加えられ、更に後深草院の執事別当となった(『民経記』正元元年十一月二十四日条)。かくして『とはずがたり』の著者二条の外祖父として知られる隆親は、『正元二年院落書』に「四条権威アリアマリ」と書かれるに至るのである。
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とのことで、嘉禎四年(1238)に隆親は何かトラブルを起こして乳父からはずされてしまいますが、結果的には、むしろこのトラブルで後高倉院の系統と距離を置いたことが良かったようですね。
仁治三年(1242)正月五日、四条天皇は近習や女房を転ばして笑おうと思って弘御所の板敷に蝋石の粉を巻いたところ、自分が転んでしまって頭を打ち、そのまま寝込んで九日に死んでしまいます。

「巻四 三神山」(その3)─四条天皇崩御
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ca597edec3cd8bc67c6d4495b5080308

歴代天皇の中でもこれほど情けない死に方をした人は珍しいと思いますが、僅か十二歳なので四条天皇に子供はなく、これで後高倉院の系統は断絶してしまいます。
そこで次の天皇を、後鳥羽院の系統のうち、土御門院皇子と順徳院皇子のいずれにするかが問題となりますが、承久の乱の結果、朝廷独自で皇嗣を決定することはできず、鎌倉の判断を待ちます。
この経過について『増鏡』や『五代帝王物語』には面白いエピソードが載っていますが、実際には朝廷対応の経験が長く、沈着冷静な六波羅探題北方・北条重時(1198-1261)が義兄・土御門定通(大江親広と離縁後、定通と再婚した妻が「姫の前」所生で、重時と同母)と相談した上で作成した対処案、即ち土御門院皇子案を執権・北条泰時に提示し、それを泰時が了解したということだと思います。

「巻四 三神山」(その4)─安達義景と土御門定通
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6c9b7d4f4b0df1e7801da6e5240cea61
『五代帝王物語』の「かしこくも問へるをのこかな」エピソード
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d39efd14686f93a1c2b57e7bb858d4c9

そして四条隆親は新しい天皇が土御門院皇子となることをいち早く察知し、幕府の使者が上洛する前に、自邸「冷泉万里小路殿」を新帝の里内裏として提供すると申し出て内定を得たのだそうで、まことに機敏な対応ですね。

「巻四 三神山」(その5)─後嵯峨天皇践祚
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d01cc8b88bb37aacbf623cc62fd4e6d5

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