承久の乱が後深草院二条の父方の祖父・久我通光(1187-1248)に与えた影響と、母方の祖父・四条隆親(1202-79)に与えた影響は対照的です。
久我通光は承久の乱の勃発時に内大臣で、北条義時追討の官宣旨に上卿(責任者)として関与しています。
即ち、長村祥知氏の翻刻によれば、「陸奥守平義時朝臣」を追討せよとの官宣旨は、
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史料4 承久三年五月十五日「官宣旨案」(小松家所蔵文書。鎌遺五─二七四六)
右弁官下 五幾内諸国<東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・大宰府>
応早令追討陸奥守平義時朝臣身、参院庁蒙
裁断、諸国庄園守護人地頭等事
右、内大臣宣、奉 勅、近曽称関東之成敗、乱天下政務。
纔雖帯将軍之名、猶以在幼稚之齢。然間彼義時朝臣偏仮
言詞於教命、恣致裁断於都鄙。剰輝己威、如忘皇憲。論之
政道、可謂謀反。早下知五幾七道諸国、令追討彼朝臣。兼又諸国
庄園守護人地頭等、有可経言上之旨、各参院庁、宜経上奏。
随状聴断。抑国宰并領家等、寄事於綸綍、更勿致濫行。
縡是厳密、不違越。者、諸国承知、依宣行之。
承久三年五月十五日 大史三善朝臣
大弁藤原朝臣
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e729067bee8a32cc39835bbc43e817a6
というものですが、四行目の「内大臣」が三十五歳の久我通光ですね。
幕府にしてみれば、通光は「合戦張本」の一人であって、当然に厳しい処分の対象となります。
処刑こそ免れましたが、七月三日に内大臣を辞し、安貞二年(1228)三月二十日に「朝覲行幸時始出仕。弾琵琶」とあるまで「承久三年後篭居」(『公卿補任』)を余儀なくされます。
そして、その後も実に二十五年間も散位の状態が続きますが、しかし、寛元四年(1246)十二月二十四日、突如として太政大臣に任ぜられ、同日従一位に叙せられます。
まあ、これは通光に何か功績があったからではなく、同母弟の土御門定通が後嵯峨天皇擁立に貢献したことへの論功行賞の一部ですね。
通光は一年と少しだけ太政大臣の地位を保った後、宝治二年(1248)一月十七日に上表し、翌日死んでしまいます。
また、通光は全財産を後妻(三条)に譲ってしまったので、死後も久我家は大変な相続争いが続きます。
若い世代向けの『とはずがたり』参考文献(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/245e51cbb2455b4ac2ba7355537b1fa3
これに対し、四条隆親は一応は甲冑を帯びて後鳥羽院の叡山御幸に同行するなどしましたが、若年ということもあり、処罰は受けていません。
受けていないどころか、先に『公卿補任』で確認したように、後堀河・四条天皇期も順調に出世しています。
この時期の四条家の動向は秋山喜代子氏の「乳父について」(『史学雑誌』99編第7号、1990)という論文に詳しいのですが、秋山氏によれば、四条隆親は「乳父」という制度を考える上でも興味深い存在のようです。
即ち、隆親は秀仁親王(四条天皇)の乳父の一人となりますが、
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寛喜三年(一二三一)二月十二日、秀仁が誕生すると『明月記』二月二十九日条に三人の乳父が定められたとある。これより先、二十日条によると「内々沙汰」(おそらく外戚九条道家の意向)で西園寺実氏(道家の舅公経の嫡男)が、また後堀河天皇の強い希望でその近臣(101)大炊御門家嗣(後堀河の乳母成子の婿)が推挙されており彼らが有力候補と見做されていたのだが、この二人に四条隆親が加えられて決定した。隆親は後堀河の近臣で(102)、この直前、正月二十九日に道家の次男良実を「婿」(103)(姉妹灑子の夫)にとった人物である(104)。
さて、秀仁の立坊と同時に実氏(105)は東宮傅に、家嗣(106)は大夫に任じられたので、上級貴族である彼らは公経の系譜を引く全くの後見者化した乳父であるとみられる。一方、中級貴族の隆親には元来の「執事」的側面が色濃く残っている。それは通過儀礼における降親の経済的負担が他の二人よりも断然多いこと(107)、本来乳父、乳母の課役であることの多い装束(108)を隆親のみがしばしば献じていること(109)などに窺える。彼は東宮職に補されなかったけれども東宮に近侍しており(110)、むろん即位後も近習であった。例えば利子内親王が四条天皇の准母となって入内した天福元年(一二三三)四月十七日の『民経記』には「斎宮(利子)入御遅々之間、幼主(四条)令寝給、凡驚給之間及遅々、御乳母四條中納言(隆親)参入奉抱、為奉驚也」とあり、寝てしまった幼い天皇を乳父隆親が抱いて起こしたというのだが、このことは彼の近習奉仕の様子をよく示している。また四条天皇は方違いなどで隆親の冷泉万里小路殿へ行幸しているが(111)、特に嘉禎三年(一二三七)秋、閑院内裏の修理のために隆親邸に渡った時は翌年二月まで逗留している(112)。
とのことで、隆親は後堀河・四条天皇に密着した存在となっています。
こうした関係が形成されたのは、承久の乱後、隆親の父・隆衡が北白河院(後高倉院妃、後堀河天皇母、1173-1238)に親近したためのようです。
即ち、秋山論文の補注104によれば、
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それはさておき、四条家は乱後急速に北白河院(後堀河の母)に近づいたらしく、北白河院が貞応元年四月従三位となると、隆衡がその勅別当となっている。そして元仁二年正月、丹後国を拝領して北白河院御所持明院殿の造営に着手したのだが、それが成った翌年八月、隆親は勧賞で三人を超越して正三位に叙されている(『明月記』元仁二年正月十三日、嘉禄二年八月四日、五日条)。 こののち隆親が北白河院の執事別当とみえることからすれば(同上寛喜二年八月二十三日、同三年三月二十二日条など)、院号宣下時にまず隆衡が執事別当となリ、嘉禄三年九月に隆衡が出家した後隆親が跡を継いだのだろう。いずれにしろ四条家が側近中の側近として北白河院中をとりしきっていたとみられる(同上寛喜元年十二月十四日条を参照)。
こうした国母との親密な関係によって、隆親は後堀河の有力な近臣となった。それは後堀河が隆親邸へしばしば方違していることや(同上寛喜二年四月十七日、『民経記』同四年二月十九日条)、人事に関わることで後堀河への取り次ぎを依頼されている(『民経記』貞永元年四月十一日、九月二十八日条)のによく示されている。
以上にみた天皇家の近臣としての活躍は、四条家が大層富裕であったことと無関係ではない。その富威は隆衡、隆親らの天王寺参詣が女房二十人、侍二十人、侍従三百人を引き連れ、「諸人属目歟」という華やかさであったと記す『民経紀』嘉禄二年九月十九日条に明瞭にあらわれている。かかる豊かな財力による奉仕が見込まれて負担の重い院の年預や乳父に何度もあてられたのだろう。(既述のごとく隆衡は後鳥羽院の年預であったが、隆親も後堀河の譲位と同時に年預となリ〈『民経記』貞永元年十月四日条〉、隆親の一男房名も後嵯峨の退位時に年預〈但し実質上は隆親〉となった〈『陽龍記』寛元四年正月二十九日条〉。四条家が引き続いて任じられているのに留意すべきである。)
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とのことです。
それにしても、ここまで四条家が後堀河・四条天皇と近いと、四条天皇の頓死後、四条家が後嵯峨天皇と極めて良好な関係を保ったことが不思議に思えますが、そこは隆親に機を見るに敏な特別な才覚があったようです。
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