学問空間

「『増鏡』を読む会」、第10回は3月1日(土)、テーマは「二条天皇とは何者か」です。

「有明の月」ストーリーの機能論的分析(その15)

2022-12-15 | 唯善と後深草院二条

『公卿補任』では弘安二年(1279)九月六日に死去したと明記されている四条隆親が、国文学者の『とはずがたり』年表では、その四年後の弘安六年(1283)初秋に存命で、東二条院の手紙を受け取り、東二条院の指示に従って二条が御所を退出する手はずを整え、退出してきた二条と対面している点、『とはずがたり』を自伝風小説と考える私の立場からは別にどうでも良いことですが、『とはずがたり』を事実の記録と考える人々にとっては相当に重大な問題ですね。
そもそも『とはずがたり』自体には、二条の御所退出が弘安六年(1283)の出来事と明記されている訳ではありません。
国文学者は弘安八年(1285)の行事であることが明確な「北山准后九十賀」から逆算して、二条が御所を退出し、東山で「有明の月」の三回忌を営んだのは弘安六年(1283)、従って巻三が始まり、「有明の月」が死去したのは弘安四年(1281)と推論しています。
それなりに合理的な推論ですが、その結果、巻二と巻三の間に三年半もの空白が生じ、隆親の死去は四年も後ろにズレることになります。
また、巻三の「院、有明を許す、有明感謝」(7)の場面で、後深草院が引用する「有明の月」の発言の中の「三年過行」の解釈が非常に難しいものとなります。

「有明の月」ストーリーの機能論的分析(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/146109dc93c7c5948c160d7cf1936b99

私としては、『とはずがたり』を事実の記録と考える立場の研究者から、空白期間を後ろに置こう、という発想が出てこなかったのが何とも不思議です。
この点、上記リンク先の投稿で既に一部を紹介しましたが、日下力氏は『中世尼僧 愛の果てに 『とはずがたり』の世界』(角川選書、2012)において、「三年過行」に触れて次のように書かれています。(p125)

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 ところで、右の引用文中、有明の月が「三年過ぎ行くに」と語っている箇所は、解釈に諸説がある。たとえば、二条と知り合ってから起請文を届けるまでの年数と解して「二年」を誤写したものかと言い、また、三年過ぎ行くうちには断念してしまおうの意か、とも言う(新潮日本古典集成・頭注、新日本古典文学大系・脚注)。いずれも、巻二から事実としては三年半が経っていることを考慮しての説。が、再三述べてきたように(六三、一二一頁参照)、筆写の筆の運びは、その事実を感じさせない。ストーリーをすなおにたどれば、ここは二人の出会いからまる三年目、絶交した時から数えたとすれば足掛け三年、どちらにしても「三年過ぎ」たことになる。事実を超えて、ものがたろうとしている叙述姿勢の表れと理解すべきであろう。
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「事実を超えて、ものがたろうとしている叙述姿勢の表れと理解すべき」か否かはともかくとして、『とはずがたり』の時間の流れでは巻二・巻三で断絶はないと考えるのが自然です。
そこで、断絶なしと仮定して新たな年表を作ると、

建治元年(1275)三月十三日 「有明の月」の初出。唐突に二条に恋心を打ち明ける。
建治二年(1276)九月十余日 隆顕の計らいにより出雲路で「有明の月」とあう。絶交を決意。
同       十二月   「有明の月」から(外形だけの)起請文が送られてくる。
建治三年(1277)三月    「女楽事件」。御所を出奔し、行方不明に。
弘安元年(1278)二月中旬  後深草院、「有明の月」と二条の関係を知り、これを許す。
同       十一月六日 「有明の月」の男児(第一子)を出産。
同       十一月二十五日 「有明の月」死去。
弘安二年(1279)三月    「有明の月」の第二子懐妊を知る。
同       八月二十日 東山でひそかに「有明の月」の第二子を出産。
弘安三年(1280)初秋    東二条院の命により御所退出、祖父・隆親と対面。
同       秋     隆親死去。
同       十一月   東山で「有明の月」の三回忌を営む。
弘安四年(1281)二月    祇園社に桜の枝を奉納。

となります。
日下氏の言われるように、「院、有明を許す、有明感謝」(7)の場面の時点で、「二人の出会いからまる三年目、絶交した時から数えたとすれば足掛け三年」ですね。
そして、「有明の月」との出会いからその死去まで四年ですから、間延びが一切なくて、まことに自然なストーリーとなります。
このように年表を修正したとしても、隆親の死去が一年後ろにずれてしまいますが、四年ならともかく、一年程度だったら記憶違いという説明も可能でしょう。
そして、弘安四年(1281)二月、祇園社に桜の枝を奉納して以降、弘安八年二月末の「北山准后九十賀」までに空白期間を移します。
ここは力業になりますが、『とはずがたり』を論ずる国文学者が好むマジックワード、「朧化」を使えばよいと思います。
ま、所詮、私は『とはずがたり』を自伝風小説と考える立場なので、どうでも良いのですが、今後も『とはずがたり』を事実の記録とする立場を維持したい研究者の方々にとって、多少なりとも参考になれば幸いです。

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