学問空間

「『増鏡』を読む会」、第10回は3月1日(土)、テーマは「二条天皇とは何者か」です。

0236 桃崎説を超えて(その2)─平治元年十一月十五日、信西は「白鳥の歌」を歌ったのか?

2024-12-29 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第236回配信です。


一、前回配信の補足

『長恨歌絵』についてコメントをいただいた。

0235 桃崎説を超えて(その1)─「二代后」問題の発生時期〔2024-12-28〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/374251d95ee52146acc518fa6fba966d

則天武后
https://kotobank.jp/word/%E5%89%87%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%90%8E-89919

確かに楊貴妃は「二代后」の例ではない。
しかし、『平家物語』では則天武后だけが言及されているのではなく、

-------
 故近衛院の后、太皇太后宮と申しは、大炊御門の右大臣公能〔きんよし〕公の御娘也。先帝にをくれたてまつらせ給ひて後は、九重の外〔そと〕、近衛河原の御所にぞ移りすませ給ける。さきのきさいの宮にて、幽〔かすか〕なる御ありさまにてわたらせ給しが、永暦のころほひは、御歳廿三にもやならせ給けむ、御さかりもすこし過させおはしますほどなり。しかれども、天下第一の美人の聞えまし/\ければ、主上色にのみそめる御心にて、偸〔ひそか〕に行力使〔かうりよくし〕に詔〔ぜう〕じて、外宮〔ぐわいきう〕にひき求めしむるに及で、この大宮へ御艶書あり。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6998d04985f1ea7a2034bdf9faf3947a

とあって、作者は「行力使(高力士)」云々の表現により読者に楊貴妃を想起するように求めている。
平治元年(1159)、僅か十七歳の未熟な二条天皇が「二代后」という非常識な事態を招こうとしている状況において、それを諫言しようと思ったら則天武后では役に立たず、楊貴妃が適切。


二、平治元年十一月十五日、信西は「白鳥の歌」を歌ったのか?

私は「二代后」を阻止するために信西が『長恨歌絵』を作成して二条天皇に諫言したと考えるが、その際、信西は自分が殺されることを覚悟していたのか。
棚橋光男氏は、

-------
 ここで、信西がその経史、とくに〈史〉の蘊蓄を傾けた〈白鳥の歌〉─君側の佞臣・信頼を弾劾し"暗君"後白河を強く諫めた言葉を掲げておこう(『玉葉』一一九一年〈建久二〉十一月五日条)。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f74366cc38f45aaae2d95d22c873861

と言われる。
しかし、『玉葉』の「此図為悟君心、予察信頼之乱、所画彰也」はあくまで九条兼実の解説・感想に出て来る表現であり、信西自身の表現ではない。
信西の文章そのものから、果たして「白鳥の歌(Swan song)」が聞こえてくるのか?
平治元年(1159)十一月十五日、信西は「信頼之乱」の勃発を予想し、自分が殺されると覚悟していたのか?

白鳥の歌
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%B3%A5%E3%81%AE%E6%AD%8C

資料:桃崎有一郎氏「残された謎①─信西はなぜ自殺したのか?」〔2024-12-29〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c80f4a87aa01c3479590f27a8fbfa4b4
資料:桃崎有一郎氏「相反する兼実の証言─信西は希有の洞察力の持ち主」〔2024-12-29〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1934dc8760b565013ce4b612ca54070a

素直に考えてみれば、『長恨歌絵』を作るなど随分のんびりした話。
信西の息子に静賢という僧侶がおり、絵巻作成のための人脈を持ち、『後三年合戦絵詞』など多くの作品に関与したらしい。
『長恨歌絵』も「永施入宝蓮華院」するための作品であるから、静賢を製作統括者として、有名な絵師や能書家に依頼し、完成までに相当の時間と費用をかけたであろう。
とても「信頼之乱」の勃発という切迫した事態を予想しての対応とは思えない。

静賢(1124~?)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%99%E8%B3%A2

平治元年(1159)十一月十五日の信西は、大内裏造営などの様々な実績を上げ、有能な多くの子供たちも立身出世しており、後白河院政を取り仕切る自分の立場は盤石だと安心していたのではないか。
政治家として全盛期を迎えていた五十四歳の信西から見れば、二十七歳の藤原信頼など歯牙にもかけない存在。
まして十七歳の二条天皇など、まだまだ子供であり、自分が少し説得すれば直ぐに「二代后」のような無茶な行動は止めるだろうとみくびっていたのではないか。
『長恨歌絵』は、二条天皇への説得材料であるとともに、自分の優れた業績を後世に残すための記念碑的作品だったのではないか。

信西の説得に二条天皇がどのような反応をしたかは分からない。
激怒したかもしれないし、内心でははらわたが煮えくり返るような怒りを覚えつつも「ご指導ありがとうございます」と取り繕ったかもしれない。
しかし、二条天皇は特異な生活環境の中で育った異常にプライドの高い十七歳。
周囲の誰もが二条天皇の父親である後白河院を馬鹿にしており、二条も無能な後白河院に代わって早く自分が「治天の君」になるべきだと確信していたのではないか。
「天子に父母なし。吾十善〔じうぜん〕の戒功によッて、万乗の宝位をたもつ。是程の事、などか叡慮に任せざるべき」と確信していた二条は、人から説得されるのが大嫌いで、邪魔をする信西を何が何でも排除しよう、殺してやろう、と思ったのではないか。
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