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第六章 保元の乱の恩賞問題と源義朝
信頼の信西への憎悪は三条殿襲撃事件の動機になり得るか。
院政期に進んだ平家の優勢、源氏の劣勢─義朝が大博打を打つ動機
義朝の縁談を断った信西の洞察力を問題視する『愚管抄』
相反する兼実の証言─信西は希有の洞察力の持ち主
義朝・信西の縁談問題は結果(三条殿襲撃)と釣り合わない
保元の乱における義朝の恩賞問題─裏づけなき通説
保元の乱当日の恩賞
報酬への満足度は主観で決まる
義朝と義康、最初の恩賞に不満を表明し追加させる
清盛は国守の権益を拡大したが地位を上昇できず
清盛も流れに乗って追加の恩賞を要求・獲得
家格差を考慮すると恩賞は清盛にこそ薄い
源義康と平家が繰り広げる恩賞の追加要求競争
義朝のみ恩賞追加を要求せず─恩賞問題を動機とする通説は誤り
義朝と重盛の間で均衡させられる源平の勢力バランス
義朝一家の猛追─嫡子が平家に追い着く
義朝の恩賞不満説は成り立たず─二条に奉仕する動機あり
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p106以下
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相反する兼実の証言─信西は希有の洞察力の持ち主
しかし、慈円の同母兄九条兼実は、全く逆の証言をしている。兼実は、信西の才能を不世出と認めた。信西が著した『長恨歌絵』と、その製作意図を述べた信西の文書を読んだからだ〔『玉葉』建久二年一一月五日条〕。信西は、信頼に対する後白河の度を越した寵愛が、忠誠心どころか驕り高ぶる反逆心を育てると見抜いたが、何度そう諫めても後白河は聞かず、絶望した。そこで信西は、唐の玄宗と楊貴妃に関する史書を調べ上げ、挿絵入りの教訓書を著した。玄宗の度を越した寵愛は楊貴妃の一族を増長させ、その楊氏一族が、地方から台頭した実力者の安禄山を陥れようとして逆襲され、唐王朝を丸ごと潰滅寸前に追い込んだ。その教訓を活かせない後白河の治世は破滅するだろう。しかし、せめて未来の天皇たちは同じ過ちを繰り返さないで欲しい、と信西は述べている。
興味深いのは『長恨歌絵』を完成させて王家の宝庫「宝蓮華院」に納めた日付で、それは平治元年一一月一五日、つまり平治の乱勃発のわずか二四日前だった(一条天皇の大嘗会の八日前)。詳細は不明ながら、その段階で、信西ははっきりと動乱の予兆を察知していた可能性が極めて高い。
信西は、身に余る栄華が信頼の人格をどう変え、それがどう朝廷を没落させるかを見抜き、平治の乱まで察知したが、今の朝廷を諦めて未来に託した。それらはすべて、深い洞察力なくして行い得ないことだ。信西は希代の博識家だったが、頭でっかちの詰め込み型の知識人ではなく、同時代人の大多数が持たない洞察力を備えた人だった。しかも、そうした評価を下したのは、摂関家の三男でありながら長男基実の近衛家と対等な九条家を新たに興した兼実や、偉大な外記(太政官の文書行政官)として後世回顧された清原頼業など、トップクラスの政治家・実務家たちだった。その中で、信西が義朝からの婚姻の提案を無下に蹴り、あてつけのように清盛と婚姻関係を結ぶ、という行動がいかに重大な結果を招くか考えもせず、洞察力が欠けていた、という慈円の評価は浮いている。
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第六章 保元の乱の恩賞問題と源義朝
信頼の信西への憎悪は三条殿襲撃事件の動機になり得るか。
院政期に進んだ平家の優勢、源氏の劣勢─義朝が大博打を打つ動機
義朝の縁談を断った信西の洞察力を問題視する『愚管抄』
相反する兼実の証言─信西は希有の洞察力の持ち主
義朝・信西の縁談問題は結果(三条殿襲撃)と釣り合わない
保元の乱における義朝の恩賞問題─裏づけなき通説
保元の乱当日の恩賞
報酬への満足度は主観で決まる
義朝と義康、最初の恩賞に不満を表明し追加させる
清盛は国守の権益を拡大したが地位を上昇できず
清盛も流れに乗って追加の恩賞を要求・獲得
家格差を考慮すると恩賞は清盛にこそ薄い
源義康と平家が繰り広げる恩賞の追加要求競争
義朝のみ恩賞追加を要求せず─恩賞問題を動機とする通説は誤り
義朝と重盛の間で均衡させられる源平の勢力バランス
義朝一家の猛追─嫡子が平家に追い着く
義朝の恩賞不満説は成り立たず─二条に奉仕する動機あり
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p106以下
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相反する兼実の証言─信西は希有の洞察力の持ち主
しかし、慈円の同母兄九条兼実は、全く逆の証言をしている。兼実は、信西の才能を不世出と認めた。信西が著した『長恨歌絵』と、その製作意図を述べた信西の文書を読んだからだ〔『玉葉』建久二年一一月五日条〕。信西は、信頼に対する後白河の度を越した寵愛が、忠誠心どころか驕り高ぶる反逆心を育てると見抜いたが、何度そう諫めても後白河は聞かず、絶望した。そこで信西は、唐の玄宗と楊貴妃に関する史書を調べ上げ、挿絵入りの教訓書を著した。玄宗の度を越した寵愛は楊貴妃の一族を増長させ、その楊氏一族が、地方から台頭した実力者の安禄山を陥れようとして逆襲され、唐王朝を丸ごと潰滅寸前に追い込んだ。その教訓を活かせない後白河の治世は破滅するだろう。しかし、せめて未来の天皇たちは同じ過ちを繰り返さないで欲しい、と信西は述べている。
興味深いのは『長恨歌絵』を完成させて王家の宝庫「宝蓮華院」に納めた日付で、それは平治元年一一月一五日、つまり平治の乱勃発のわずか二四日前だった(一条天皇の大嘗会の八日前)。詳細は不明ながら、その段階で、信西ははっきりと動乱の予兆を察知していた可能性が極めて高い。
信西は、身に余る栄華が信頼の人格をどう変え、それがどう朝廷を没落させるかを見抜き、平治の乱まで察知したが、今の朝廷を諦めて未来に託した。それらはすべて、深い洞察力なくして行い得ないことだ。信西は希代の博識家だったが、頭でっかちの詰め込み型の知識人ではなく、同時代人の大多数が持たない洞察力を備えた人だった。しかも、そうした評価を下したのは、摂関家の三男でありながら長男基実の近衛家と対等な九条家を新たに興した兼実や、偉大な外記(太政官の文書行政官)として後世回顧された清原頼業など、トップクラスの政治家・実務家たちだった。その中で、信西が義朝からの婚姻の提案を無下に蹴り、あてつけのように清盛と婚姻関係を結ぶ、という行動がいかに重大な結果を招くか考えもせず、洞察力が欠けていた、という慈円の評価は浮いている。
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