投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月10日(月)19時31分50秒
>筆綾丸さん
>宮沢先生の教えに反してはいないか
そうですね。
そこもブーメランになりそうな変な箇所の一つですね。
前にも書きましたが、私は樋口陽一氏が東北大から東大に来た頃に憲法の講義を聴講したことがあります。
ま、聴講と言っても六百人以上入る大教室で、講壇の遥か遠くの席から眺めていただけですが、樋口氏の慎重に言葉を択ぶ学究的態度と爽やかな容姿には非常に好感を抱きました。
数十年の時を経て、「立憲主義」騒動の主役としてメディアに頻繁に登場する樋口氏はすっかり老人になっていて、外見だけでなく頭脳もかなり衰えてしまったようで、ちょっと悲しいですね。
>『真田丸』
私は草刈正雄の演技が面白くて時々見ていました。
真田昌幸タイプの軍略の天才は、今でも「イスラム国」あたりで活躍していそうですね。
>ザゲィムプレィアさん
歴史的事実として重要なのは岸信介が東條内閣の継続を阻止する役割を果たしたことだけで、「黙れ兵隊!」など些細なエピソードですから、私もその事実関係に特にこだわる訳ではありません。
ただ、『岸信介回顧録─保守合同と安保改定』は最晩年の岸信介が自分の軌跡を歴史の評価に委ねるために、それなりに客観的立場を維持しつつ記述した自伝であって、都合の悪いことは書かなかったかもしれませんが、書いてあることは決して脚色だらけという感じではないですね。
ウィキペディアは調べものの出発点としては便利だとは思いますが、その記述を根拠に「疑問を感じます」と言われても、こちらも対応に困ります。
せめて吉松安弘『東條英機暗殺の夏』や細川護貞『細川日記(下)』を実際にご自分の目で確認されてから意見を述べて欲しいですね。
なお、『岸信介の回想』は既に読んでいます。
「内閣書記官長・星野直樹」
※筆綾丸さんと宮沢先生さんの下記投稿へのレスです。
宮沢先生 2016/10/10(月) 13:48:28(筆綾丸さん)
小太郎さん
次の個所を読むと(215頁~)、岸信介や日本会議の面々への批判は、宮沢先生の教えに反してはいないか、と思われますね。
-------------
樋口 その素性についての反論として、安倍首相が崇拝してやまないおじいさまの岸政権のとき、憲法学者の宮沢俊義先生が「憲法の正当性ということ」という論文を発表しています。
この論文で興味深いのは、宮沢先生が使った「うまれ」と「はたらき」という言葉です。宮沢先生は、こういうレトリックを使った。「今の時代、生まれや素性を云々して、その人の価値を論ずるのはよくないはずだ」と。では、なにを基準にものを考えるかといえば、その人が成す物事、つまり「はたらき」であるはずだというわけです。
小林 憲法を擬人化しているんですよね。とても分かりやすい。
-------------
https://twitter.com/kazumaru_cf?lang=ja
『真田丸』は見ていませんが、Twitterを見ると、門前の小僧たちに講釈を垂れるという丸島先生のスタイルは貫徹されていますね。以下は昨日のもので、勝手な引用は怒られそうですが、まあ、こんな感じです。
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この「「国家安康」は喜んで貰えると思って書いた」という話は、戦前から論文発表されていたはずですが、なかなか研究者の間でも共有されません。思い込みというのを糺すのは、本当に難しい。したがいまして、ドラマ中で文英清韓がとうとうと述べていたのは、史料を踏まえたものなのです。
そして幕府から詰問された文英清韓は、「国家安康と申しますのは、御名乗りの字を隠れ題にいれ、縁語(表現の面白みやあやをつける事)をとったものです」「君臣豊楽も、豊臣を隠れ題にいれました。こういう事例は過去にもございます」と「喜んで貰えると思って撰した」と素直に述べています。
その後提出された鐘銘の写をみて、「御諱」が刻まれている点を特に不快に感じたとあります。しかし、私が戦国史研究会8月例会で報告したように、西国の戦国大名書札礼を継承した豊臣政権下では、「実名」を書くことが尊敬の念を示すものでした。拙著『真田信繁の書状を読む』158頁も参照。
家康は大仏殿の鐘銘について、「後世に残るものである」「時の天下人が作ったものであると理解されていくだろう」「現在の天下人は家康なので、恥ずかしいものは作りたくない」「しかるに田舎者が書いたような悪文らしい」と、写の提出を命じます。したがって、「国家安康」は発端ではありません。
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Re:「黙れ兵隊!」(その2) 2016/10/10(月) 14:38:18(ザゲィムプレィアさん)
四方涼二を詳しくは知らないのですが、「黙れ兵隊!」の件は違和感を感じました。
Wikipediaによると、四方は3年間陸軍派遣学生として東京帝国大学法学部で学んだ経歴があります。
また、このエピソードについて吉松安弘著『東條英機暗殺の夏』と細川護貞著『細川日記(下)』を基に次のように記述しています。
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岸は当時、高熱を発して寝込んでおり、寝巻きのまま玄関で四方に対座したものの、四方の非難に対し「日本において右向け右、左向け左という力をもっているのは天皇陛下だけではないのか」と反論した以外は、ほぼ沈黙を貫き通したとされる。四方の来訪は単なる脅迫目的ではなく、東條の意を受けて岸に大臣を辞任させるためであり、岸も迂闊なことを言うわけにはいかなかった。また治安の責任者であるにもかかわらず、大谷句仏の毒殺を公言するような四方と事を構えるのは非常に危険であったからである。両者は満州在任時からの知己であり、岸は四方の性格を十分に知悉していた。
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やはり、四方が乱暴な脅迫をして岸が「黙れ兵隊!」と応える記述に疑問を感じます。
なお、東條の側近について「三奸四愚」の表現が使われたようですが、四方は三奸の側で四愚ではないようです。
ところで、小太郎さんが引用した『岸信介回顧録─保守合同と安保改定』、1983の記述と同様な記述が
岸信介、矢次一夫、伊藤隆著『岸信介の回想』、1981にあるようですが、四方は1977年に死亡しています。
小太郎さん
次の個所を読むと(215頁~)、岸信介や日本会議の面々への批判は、宮沢先生の教えに反してはいないか、と思われますね。
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樋口 その素性についての反論として、安倍首相が崇拝してやまないおじいさまの岸政権のとき、憲法学者の宮沢俊義先生が「憲法の正当性ということ」という論文を発表しています。
この論文で興味深いのは、宮沢先生が使った「うまれ」と「はたらき」という言葉です。宮沢先生は、こういうレトリックを使った。「今の時代、生まれや素性を云々して、その人の価値を論ずるのはよくないはずだ」と。では、なにを基準にものを考えるかといえば、その人が成す物事、つまり「はたらき」であるはずだというわけです。
小林 憲法を擬人化しているんですよね。とても分かりやすい。
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https://twitter.com/kazumaru_cf?lang=ja
『真田丸』は見ていませんが、Twitterを見ると、門前の小僧たちに講釈を垂れるという丸島先生のスタイルは貫徹されていますね。以下は昨日のもので、勝手な引用は怒られそうですが、まあ、こんな感じです。
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この「「国家安康」は喜んで貰えると思って書いた」という話は、戦前から論文発表されていたはずですが、なかなか研究者の間でも共有されません。思い込みというのを糺すのは、本当に難しい。したがいまして、ドラマ中で文英清韓がとうとうと述べていたのは、史料を踏まえたものなのです。
そして幕府から詰問された文英清韓は、「国家安康と申しますのは、御名乗りの字を隠れ題にいれ、縁語(表現の面白みやあやをつける事)をとったものです」「君臣豊楽も、豊臣を隠れ題にいれました。こういう事例は過去にもございます」と「喜んで貰えると思って撰した」と素直に述べています。
その後提出された鐘銘の写をみて、「御諱」が刻まれている点を特に不快に感じたとあります。しかし、私が戦国史研究会8月例会で報告したように、西国の戦国大名書札礼を継承した豊臣政権下では、「実名」を書くことが尊敬の念を示すものでした。拙著『真田信繁の書状を読む』158頁も参照。
家康は大仏殿の鐘銘について、「後世に残るものである」「時の天下人が作ったものであると理解されていくだろう」「現在の天下人は家康なので、恥ずかしいものは作りたくない」「しかるに田舎者が書いたような悪文らしい」と、写の提出を命じます。したがって、「国家安康」は発端ではありません。
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Re:「黙れ兵隊!」(その2) 2016/10/10(月) 14:38:18(ザゲィムプレィアさん)
四方涼二を詳しくは知らないのですが、「黙れ兵隊!」の件は違和感を感じました。
Wikipediaによると、四方は3年間陸軍派遣学生として東京帝国大学法学部で学んだ経歴があります。
また、このエピソードについて吉松安弘著『東條英機暗殺の夏』と細川護貞著『細川日記(下)』を基に次のように記述しています。
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岸は当時、高熱を発して寝込んでおり、寝巻きのまま玄関で四方に対座したものの、四方の非難に対し「日本において右向け右、左向け左という力をもっているのは天皇陛下だけではないのか」と反論した以外は、ほぼ沈黙を貫き通したとされる。四方の来訪は単なる脅迫目的ではなく、東條の意を受けて岸に大臣を辞任させるためであり、岸も迂闊なことを言うわけにはいかなかった。また治安の責任者であるにもかかわらず、大谷句仏の毒殺を公言するような四方と事を構えるのは非常に危険であったからである。両者は満州在任時からの知己であり、岸は四方の性格を十分に知悉していた。
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やはり、四方が乱暴な脅迫をして岸が「黙れ兵隊!」と応える記述に疑問を感じます。
なお、東條の側近について「三奸四愚」の表現が使われたようですが、四方は三奸の側で四愚ではないようです。
ところで、小太郎さんが引用した『岸信介回顧録─保守合同と安保改定』、1983の記述と同様な記述が
岸信介、矢次一夫、伊藤隆著『岸信介の回想』、1981にあるようですが、四方は1977年に死亡しています。
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