投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 2月 1日(金)12時14分40秒
『伊藤律回想録─北京幽閉二七年』に戻って、続きです。(p21以下)
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問題の本質は、党内を一貫してきた二種の思想、二条路線の矛盾と闘争にある。しかも徳田書記長の「参謀役」と見られてきた西沢が、完全に徳田から見放されて対立し、野坂の側に移ったことが、北京指導部の情況をさらに複雑にした。あとで判明したのだが、西沢の中国行きは、党中央の決定ではなく、志田と西沢が勝手にやったことであった。私は徳田が親しい西沢を呼び寄せたのだろうと、完全に誤解していた。
その上問題を一層複雑にしたのは、それが中国共産党の内部問題と絡み合っていたことである。
日共内部紛争について、スターリンは徳田に「日本人民があなたを支持する限り、私もあなたを支持する」と語った。また毛沢東も徳田に「私はあなたに会ったことがなかったが、スターリン同志からの話もあり、わが党もあなたを支持します」と言った。毛沢東、劉少奇、周恩来ら中国共産党首脳は、徳田を支持したのである。
だが、平常日共機関と連絡に当り、仕事や生活の世話や管理に当る中連部の主な幹部は、内心で徳田を敬遠し、野坂と親しかった。形式上も野坂を徳田と同等に待遇した。毛沢東は野坂に腹を立て、野坂が中国に来ても一年以上も会わず、徳田に「野坂同志は延安で何年も粟飯を食べながら、いったい何を学んで帰ったのか」と言った。だが中連部の李初梨副部長などは、野坂・西沢とだけ親密にし、徳田を避けた。これは野坂と中連部幹部の延安時代の旧知の関係が大きな原因であった。中国における日共機関の大邸宅は、中連部の第一招待所であり、その所長・楊正は、延安時代、野坂の"弟子"だった。日共機関と事務連絡に当る趙安博は、宴席で酒に酔うと「延安では野坂同志の指導の下で……」と語るのが常であった。
李初梨副部長は野坂を神の如く持ち上げ、野坂は李初梨を「中共中央の日本部長」とほめる。かれらは皆、野坂の弟子を自認し、それを"誇り"にしていた。その上、中連部部長・王稼祥は宮本顕治を高く評価、来るたびに宮本の動静を気づかって尋ねた。
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「二条路線」という表現はあまり一般的ではないと思いますが、注記には次のように書かれています。(p66)
なお、書くのが遅くなってしまいましたが、注記は渡部富哉によるものです。(「はじめに」p4)
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◆戦後の日共は徳田球一らによって主導されたが、野坂参三たちの戦後革命路線とは天皇制の評価一つとっても、重要な矛盾と対立があり、これが党分裂に導いた。日共の党内の諸重要問題はこの路線問題ぬきには説明がつかない。
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長々と伊藤律の文章を引用していますが、私も別に伊藤律が素晴らしい人物であって、伊藤に批判されている対象が駄目な人々と思っている訳ではありません。
そもそも私は共産党の人々を全体的にそれほど高く評価している訳ではなく、特に党中央で派閥抗争を展開しているような連中は魑魅魍魎の類と思っています。
ただ、その魑魅魍魎も自ずとレベルの違いがあり、一般党員より少し上の網野善彦らが初級の魑魅魍魎だとしたら、上田篤のように「地下指導部」の「軍事方針」に従って火炎瓶を作ったり投げたりしているような連中は中級の魑魅魍魎、志田重男のような「地下指導部」や徳田球一・野坂参三以下の「北京機関」のメンバーなどは上級の魑魅魍魎と考えています。
そして、更にその上に、日共が持っていたようなチャチな「軍事」組織とは全く別格の、本格的な軍事力を有する中国やソ連の魑魅魍魎たちがいて、その最上部、雲の上にスターリンが君臨している、というのが当時の魑魅魍魎たちの階級構成ですね。
『伊藤律回想録─北京幽閉二七年』に戻って、続きです。(p21以下)
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問題の本質は、党内を一貫してきた二種の思想、二条路線の矛盾と闘争にある。しかも徳田書記長の「参謀役」と見られてきた西沢が、完全に徳田から見放されて対立し、野坂の側に移ったことが、北京指導部の情況をさらに複雑にした。あとで判明したのだが、西沢の中国行きは、党中央の決定ではなく、志田と西沢が勝手にやったことであった。私は徳田が親しい西沢を呼び寄せたのだろうと、完全に誤解していた。
その上問題を一層複雑にしたのは、それが中国共産党の内部問題と絡み合っていたことである。
日共内部紛争について、スターリンは徳田に「日本人民があなたを支持する限り、私もあなたを支持する」と語った。また毛沢東も徳田に「私はあなたに会ったことがなかったが、スターリン同志からの話もあり、わが党もあなたを支持します」と言った。毛沢東、劉少奇、周恩来ら中国共産党首脳は、徳田を支持したのである。
だが、平常日共機関と連絡に当り、仕事や生活の世話や管理に当る中連部の主な幹部は、内心で徳田を敬遠し、野坂と親しかった。形式上も野坂を徳田と同等に待遇した。毛沢東は野坂に腹を立て、野坂が中国に来ても一年以上も会わず、徳田に「野坂同志は延安で何年も粟飯を食べながら、いったい何を学んで帰ったのか」と言った。だが中連部の李初梨副部長などは、野坂・西沢とだけ親密にし、徳田を避けた。これは野坂と中連部幹部の延安時代の旧知の関係が大きな原因であった。中国における日共機関の大邸宅は、中連部の第一招待所であり、その所長・楊正は、延安時代、野坂の"弟子"だった。日共機関と事務連絡に当る趙安博は、宴席で酒に酔うと「延安では野坂同志の指導の下で……」と語るのが常であった。
李初梨副部長は野坂を神の如く持ち上げ、野坂は李初梨を「中共中央の日本部長」とほめる。かれらは皆、野坂の弟子を自認し、それを"誇り"にしていた。その上、中連部部長・王稼祥は宮本顕治を高く評価、来るたびに宮本の動静を気づかって尋ねた。
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「二条路線」という表現はあまり一般的ではないと思いますが、注記には次のように書かれています。(p66)
なお、書くのが遅くなってしまいましたが、注記は渡部富哉によるものです。(「はじめに」p4)
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◆戦後の日共は徳田球一らによって主導されたが、野坂参三たちの戦後革命路線とは天皇制の評価一つとっても、重要な矛盾と対立があり、これが党分裂に導いた。日共の党内の諸重要問題はこの路線問題ぬきには説明がつかない。
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長々と伊藤律の文章を引用していますが、私も別に伊藤律が素晴らしい人物であって、伊藤に批判されている対象が駄目な人々と思っている訳ではありません。
そもそも私は共産党の人々を全体的にそれほど高く評価している訳ではなく、特に党中央で派閥抗争を展開しているような連中は魑魅魍魎の類と思っています。
ただ、その魑魅魍魎も自ずとレベルの違いがあり、一般党員より少し上の網野善彦らが初級の魑魅魍魎だとしたら、上田篤のように「地下指導部」の「軍事方針」に従って火炎瓶を作ったり投げたりしているような連中は中級の魑魅魍魎、志田重男のような「地下指導部」や徳田球一・野坂参三以下の「北京機関」のメンバーなどは上級の魑魅魍魎と考えています。
そして、更にその上に、日共が持っていたようなチャチな「軍事」組織とは全く別格の、本格的な軍事力を有する中国やソ連の魑魅魍魎たちがいて、その最上部、雲の上にスターリンが君臨している、というのが当時の魑魅魍魎たちの階級構成ですね。
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