投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 7月 7日(木)12時56分6秒
『京都の中世史3 公武政権の競合と協調』で長村祥知氏が執筆された部分(「四 承久の乱」と「五 九条家・西園寺家と鎌倉幕府」)については、以前、長村氏の『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015)をかなり細かく検討したこともあって、今回は特に目新しく感じられる箇所はありませんでした。
長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』についてのプチ整理(その1)~(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b49e3e3c085bb25a0f3305bdb723de36
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/20b70186a2269eaf108c2e6f58a0e302
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3914c11d525267ba7501ed247c806478
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d387077e9ee7722ff6014ed3c25d5753
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/45b6fef7f5e96b27cf804f5d30f893be
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/45b6fef7f5e96b27cf804f5d30f893be
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c4893cecdbe17efd08552b2c196e1a35
一箇所、ちょっと変だなと思ったのは「五 九条家・西園寺家と鎌倉幕府」「5 関東伺候の廷臣たち」の次の記述です。(p163)
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承久の乱後の増加
こうした関東伺候廷臣は、承久の乱後に増加した。
村上源氏の源具親は、建仁三年(一二〇三)末ごろ、北条義時の前妻姫前〔ひめのまえ〕と結婚した。彼は後鳥羽に見いだされて勅撰歌人となったが、怠惰で風変わりな人物だったらしく、廷臣としては父師光以来低迷していたところ、承久の乱後、姫前との関係を足がかりに、具親と輔通・輔時父子に「光華」がもたらされた。輔通・輔時は関東伺候廷臣としても活動することとなった(森幸夫 二〇一七)。
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あれれ、輔通・輔時は関東伺候廷臣だったっけ、と思って森幸夫氏の「歌人源具親とその周辺」(『鎌倉遺文研究』40号、2017)を確認してみたところ、やはりこの部分は不正確ですね。
森論文は、
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はじめに
一、源具親の父祖
二、歌人源具親の活動
三、源具親の結婚
四、源具親の子孫
1 子息源輔通と同輔時
2 子息禅念と孫唯善
おわりに
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/36f97f0c096f79dbb511b764f4e496f5
と構成されていて、私自身は「四、源具親の子孫」の「2 子息禅念と孫唯善」に興味を惹かれていろいろ調べてみたのですが、「1 子息源輔通と同輔時」は特に検討していませんでした。
そこで、概要を掴むため、先ずはこの節の冒頭の部分を少し引用してみます。(p85以下)
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1 子息源輔通と同輔時
源具親と姫前との間に、輔通と輔時の二人の子がいたことは先に見た。姫前は北条義時の前妻であり、義時の二男朝時と三男重時及び女子一人を産んでいたから、源輔通・輔時は、母親を介して北条朝時・重時と兄弟となった。いわゆる異父兄弟である。この北条氏一族の二人と血縁関係となったことにより、源具親と輔通・輔時の父子は有力な後援者を得ることとなった。特に北条義時率いる鎌倉幕府が、後鳥羽上皇軍に勝利した承久の乱以降、北条氏勢力の拡大とともに源具親一家にも「光華」がもたらされた。
北条氏との関係もなく、また承久の乱も起きていなかったならば、具親は恐らく、公家社会で低迷する一歌人としてその生涯を終えていたことだろう。承元二年(一二〇八)十一月、後鳥羽院御所で皇弟雅成親王の読書始の儀があり、右少将源具親はその饗にて一献の瓶子役を奉仕していた。承久の乱以前では、これが具親の目を引く活動足跡といえるものであり、この乱がなければ、そのステップアップも望めなかったことだろう。
嘉禄二年(一二二六)十一月、源輔通が幕府の推挙により侍従に任じられたことは先にみた。侍従は「四五位公達任之」ずる官職であり、輔通はこの任官により、祖父師光・父具親以来低下していた家格を上昇させたといえる。この任官を兄北条朝時・重時らがバックアップしたことは疑いない。天福元年(一二三三)十二月には弟輔時も侍従に任じている。この時、輔時は「朝時猶子」であった。同年八月二十四日、源具親は藤原定家の許を訪れたが、その日の『明月記』をみると、
廿四日、丙申、天晴、少将入道<具親朝臣>、来臨、扶病相謁、両息〔輔通・輔時〕
各光華之由、今日委聞之、近日物吉無極歟(後略)
とあり、具親は定家に、子息源輔通・輔時兄弟が「光華」つまり繁栄していることを話している。この「光華」はいうまでもなく、北条氏の血縁であったことによりもたらされたのである。【後略】
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ということで、「光華」は『明月記』の表現なんですね。
この後、森氏は『民経記』『平戸記』『葉黄記』等の諸記録を博捜され、輔通・輔時兄弟の履歴を追って行かれますが、全て二人が京都在住であることを示すものですね。
関東伺候廷臣となったのは二人の子孫ですが、その活動も森氏だから何とか手掛かりを掴むことができた程度のささやかなもので、特に華々しい活躍をしている訳ではありません。
長村氏が何故にこのような人たちを関東伺候廷臣の代表のように書いたのか、ちょっと不思議です。
『京都の中世史3 公武政権の競合と協調』で長村祥知氏が執筆された部分(「四 承久の乱」と「五 九条家・西園寺家と鎌倉幕府」)については、以前、長村氏の『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015)をかなり細かく検討したこともあって、今回は特に目新しく感じられる箇所はありませんでした。
長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』についてのプチ整理(その1)~(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b49e3e3c085bb25a0f3305bdb723de36
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/20b70186a2269eaf108c2e6f58a0e302
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3914c11d525267ba7501ed247c806478
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d387077e9ee7722ff6014ed3c25d5753
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/45b6fef7f5e96b27cf804f5d30f893be
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/45b6fef7f5e96b27cf804f5d30f893be
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c4893cecdbe17efd08552b2c196e1a35
一箇所、ちょっと変だなと思ったのは「五 九条家・西園寺家と鎌倉幕府」「5 関東伺候の廷臣たち」の次の記述です。(p163)
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承久の乱後の増加
こうした関東伺候廷臣は、承久の乱後に増加した。
村上源氏の源具親は、建仁三年(一二〇三)末ごろ、北条義時の前妻姫前〔ひめのまえ〕と結婚した。彼は後鳥羽に見いだされて勅撰歌人となったが、怠惰で風変わりな人物だったらしく、廷臣としては父師光以来低迷していたところ、承久の乱後、姫前との関係を足がかりに、具親と輔通・輔時父子に「光華」がもたらされた。輔通・輔時は関東伺候廷臣としても活動することとなった(森幸夫 二〇一七)。
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あれれ、輔通・輔時は関東伺候廷臣だったっけ、と思って森幸夫氏の「歌人源具親とその周辺」(『鎌倉遺文研究』40号、2017)を確認してみたところ、やはりこの部分は不正確ですね。
森論文は、
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はじめに
一、源具親の父祖
二、歌人源具親の活動
三、源具親の結婚
四、源具親の子孫
1 子息源輔通と同輔時
2 子息禅念と孫唯善
おわりに
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/36f97f0c096f79dbb511b764f4e496f5
と構成されていて、私自身は「四、源具親の子孫」の「2 子息禅念と孫唯善」に興味を惹かれていろいろ調べてみたのですが、「1 子息源輔通と同輔時」は特に検討していませんでした。
そこで、概要を掴むため、先ずはこの節の冒頭の部分を少し引用してみます。(p85以下)
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1 子息源輔通と同輔時
源具親と姫前との間に、輔通と輔時の二人の子がいたことは先に見た。姫前は北条義時の前妻であり、義時の二男朝時と三男重時及び女子一人を産んでいたから、源輔通・輔時は、母親を介して北条朝時・重時と兄弟となった。いわゆる異父兄弟である。この北条氏一族の二人と血縁関係となったことにより、源具親と輔通・輔時の父子は有力な後援者を得ることとなった。特に北条義時率いる鎌倉幕府が、後鳥羽上皇軍に勝利した承久の乱以降、北条氏勢力の拡大とともに源具親一家にも「光華」がもたらされた。
北条氏との関係もなく、また承久の乱も起きていなかったならば、具親は恐らく、公家社会で低迷する一歌人としてその生涯を終えていたことだろう。承元二年(一二〇八)十一月、後鳥羽院御所で皇弟雅成親王の読書始の儀があり、右少将源具親はその饗にて一献の瓶子役を奉仕していた。承久の乱以前では、これが具親の目を引く活動足跡といえるものであり、この乱がなければ、そのステップアップも望めなかったことだろう。
嘉禄二年(一二二六)十一月、源輔通が幕府の推挙により侍従に任じられたことは先にみた。侍従は「四五位公達任之」ずる官職であり、輔通はこの任官により、祖父師光・父具親以来低下していた家格を上昇させたといえる。この任官を兄北条朝時・重時らがバックアップしたことは疑いない。天福元年(一二三三)十二月には弟輔時も侍従に任じている。この時、輔時は「朝時猶子」であった。同年八月二十四日、源具親は藤原定家の許を訪れたが、その日の『明月記』をみると、
廿四日、丙申、天晴、少将入道<具親朝臣>、来臨、扶病相謁、両息〔輔通・輔時〕
各光華之由、今日委聞之、近日物吉無極歟(後略)
とあり、具親は定家に、子息源輔通・輔時兄弟が「光華」つまり繁栄していることを話している。この「光華」はいうまでもなく、北条氏の血縁であったことによりもたらされたのである。【後略】
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ということで、「光華」は『明月記』の表現なんですね。
この後、森氏は『民経記』『平戸記』『葉黄記』等の諸記録を博捜され、輔通・輔時兄弟の履歴を追って行かれますが、全て二人が京都在住であることを示すものですね。
関東伺候廷臣となったのは二人の子孫ですが、その活動も森氏だから何とか手掛かりを掴むことができた程度のささやかなもので、特に華々しい活躍をしている訳ではありません。
長村氏が何故にこのような人たちを関東伺候廷臣の代表のように書いたのか、ちょっと不思議です。
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