投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 6月23日(土)12時27分4秒
『ディエゴ・リベラの生涯と壁画』第六部「第6章 インスルヘンテス劇場の屋外壁画─一九五三年」の構成は、
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1 劇場壁画とディエゴ式ポップ・アート
2 カンティスフラスの身体性
3 演劇の象徴
4 カンティスフラスの役割
5 屋外壁画用の新しい素材
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となっていますが、まずは概要ということで、「1」を引用してみます。(p671以下)
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1 劇場壁画とディエゴ式ポップ・アート
一九五三年二月末に建築家フリオとアレハンドロのプリエト兄弟がディエゴのもとにやってきて、新しく建設する予定のインスルヘンテス大通りに面した映画劇場の壁画を注文した。この場所は音楽の編曲家で政治家としても有能だったホセ・マリア・ダビラと、美貌と話術に長けた社交家として有名だったその妻ケタの所有物だった。夫の死後、ケタ夫人が夫の功績を残すために劇場建設を計画し、彼女の願いでディエゴに壁画を注文することになったものだ。
インスルヘンテス劇場は映画上映をメインに、演劇やミュージカル公演など多様な娯楽を提供する施設である。【中略】
ディエゴはここに<メキシコの大衆文化の歴史>をガラスモザイク技法で描いた。完成は一九五三年である。カトリンは、大壁画というとこれまでシリアスな政治性の強い主題を扱ってきたディエゴが、当時の西欧現代美術の新しい潮流として後に広く認識されるに至った「ポップ・アート」の手法に手を染め、大飛躍を遂げた記念すべき作品だと評価している。ディエゴはこれまでにも大衆文化との接点として、コリドの歌詞を画面に取り込んだり、グロテスクなほどに戯画化した政治家や歴史上の人物を表現し、記号化してきたし、また大衆の抑圧された精神が解放される野性的な祝祭場面などを描いてきた。具象的な表象はしばしば大衆の愛するマンガに似たものですらあった。現代の眼から見ると、ディエゴがメキシコ大衆の想像力や道化役、変身キャラクターなどへの愛を理解し、その心性を反映した作品はそのまま、大量生産・大量消費の画一化された商品記号に侵されてゆく現代社会のグローバリゼーションに対抗するエスニックな文化要素を強調しているように見える。その意味での限定的なものではあるがポップ・アート的表現という評価も受け入れられる。
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そして大山喬平氏が着目したであろう部分に関連して、「3 演劇の象徴」に若干の説明があるので、これを引用します。(p677以下)
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伝統の二元論の表象─まだ終わらない革命
観客からみて画面右端では上から、トラティルコ遺跡から出土した女性土偶を模した音楽に合わせて踊る芸人たちの姿がある。その足元ではアステカ時代のものと記述される二元論的宇宙観に基づいた二つの相反する要素の悠久の闘い(画面の演者の衣装は「生」と「死」の表象となっている)のドラマを演じている(図6-68)。その左側ではメキシコ革命時期の様々な事件をギターの弾き語りで、家庭にしかいられなかった女性に伝えている場面が描かれている。どちらの場面にも歌詞や科白はテカティワカン式の音声記号で書き込まれている(図6-69)。その下段では先-スペイン時代の衣装や仮面をつけたダンサーが太鼓などのリズム楽器に合わせて踊り、ジャガーがおそれおののいている場面となっている。このセクションで一番大きく描かれているのがメキシコ革命の指導者でディエゴも支持したエミリアーノ・サパタの姿で、土地の恵みの大切さを示している(図6-70)。右手で高く掲げるたいまつの火は、まだ革命が終わっていないことをしめし、その炎に鼓舞されて未だ闘う農民たちの姿も描かれている。
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さて、ここで改めて当該部分を見ると、大山喬平氏は「土の中に横たわる人物から血管が出て、足だったか、これがずっと地中に伸びてトウモロコシの根に繋がっている」と言われていますが、銃を手放して横たわっている農民兵は別に「地中」に埋葬されたのではなく、単に地表に仰向けで倒れているだけのように見えます。
また、その左手は出血している訳でもなく、指の先はエミリアーノ・サパタが左手に持っているトウモロコシから伸びた何かと接してはいますが、これは倒れた農民兵の「血管」ではなくトウモロコシの「ひげ」ではないですかね。
背後に六本のトウモロコシが見え、その中ほどに実がなっていますが、その実の「ひげ」と同じオレンジ色ですね。
http://1.bp.blogspot.com/-6sC_vauEgfc/U0gyd1o1THI/AAAAAAAAGu4/ejW4gb2H8f0/s1600/El+teatro+en+Me%CC%81xico+(4).jpg
http://notasomargonzalez.blogspot.com/2016/03/
うーむ。
どうも大山氏はこの壁画を見た時点で既にトウモロコシの「ひげ」を死んだ農民兵の「血管」と誤解していて、その誤解を四十数年以上大切に胸に秘めてこられたのではないかと思われます。
『ディエゴ・リベラの生涯と壁画』第六部「第6章 インスルヘンテス劇場の屋外壁画─一九五三年」の構成は、
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1 劇場壁画とディエゴ式ポップ・アート
2 カンティスフラスの身体性
3 演劇の象徴
4 カンティスフラスの役割
5 屋外壁画用の新しい素材
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となっていますが、まずは概要ということで、「1」を引用してみます。(p671以下)
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1 劇場壁画とディエゴ式ポップ・アート
一九五三年二月末に建築家フリオとアレハンドロのプリエト兄弟がディエゴのもとにやってきて、新しく建設する予定のインスルヘンテス大通りに面した映画劇場の壁画を注文した。この場所は音楽の編曲家で政治家としても有能だったホセ・マリア・ダビラと、美貌と話術に長けた社交家として有名だったその妻ケタの所有物だった。夫の死後、ケタ夫人が夫の功績を残すために劇場建設を計画し、彼女の願いでディエゴに壁画を注文することになったものだ。
インスルヘンテス劇場は映画上映をメインに、演劇やミュージカル公演など多様な娯楽を提供する施設である。【中略】
ディエゴはここに<メキシコの大衆文化の歴史>をガラスモザイク技法で描いた。完成は一九五三年である。カトリンは、大壁画というとこれまでシリアスな政治性の強い主題を扱ってきたディエゴが、当時の西欧現代美術の新しい潮流として後に広く認識されるに至った「ポップ・アート」の手法に手を染め、大飛躍を遂げた記念すべき作品だと評価している。ディエゴはこれまでにも大衆文化との接点として、コリドの歌詞を画面に取り込んだり、グロテスクなほどに戯画化した政治家や歴史上の人物を表現し、記号化してきたし、また大衆の抑圧された精神が解放される野性的な祝祭場面などを描いてきた。具象的な表象はしばしば大衆の愛するマンガに似たものですらあった。現代の眼から見ると、ディエゴがメキシコ大衆の想像力や道化役、変身キャラクターなどへの愛を理解し、その心性を反映した作品はそのまま、大量生産・大量消費の画一化された商品記号に侵されてゆく現代社会のグローバリゼーションに対抗するエスニックな文化要素を強調しているように見える。その意味での限定的なものではあるがポップ・アート的表現という評価も受け入れられる。
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そして大山喬平氏が着目したであろう部分に関連して、「3 演劇の象徴」に若干の説明があるので、これを引用します。(p677以下)
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伝統の二元論の表象─まだ終わらない革命
観客からみて画面右端では上から、トラティルコ遺跡から出土した女性土偶を模した音楽に合わせて踊る芸人たちの姿がある。その足元ではアステカ時代のものと記述される二元論的宇宙観に基づいた二つの相反する要素の悠久の闘い(画面の演者の衣装は「生」と「死」の表象となっている)のドラマを演じている(図6-68)。その左側ではメキシコ革命時期の様々な事件をギターの弾き語りで、家庭にしかいられなかった女性に伝えている場面が描かれている。どちらの場面にも歌詞や科白はテカティワカン式の音声記号で書き込まれている(図6-69)。その下段では先-スペイン時代の衣装や仮面をつけたダンサーが太鼓などのリズム楽器に合わせて踊り、ジャガーがおそれおののいている場面となっている。このセクションで一番大きく描かれているのがメキシコ革命の指導者でディエゴも支持したエミリアーノ・サパタの姿で、土地の恵みの大切さを示している(図6-70)。右手で高く掲げるたいまつの火は、まだ革命が終わっていないことをしめし、その炎に鼓舞されて未だ闘う農民たちの姿も描かれている。
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さて、ここで改めて当該部分を見ると、大山喬平氏は「土の中に横たわる人物から血管が出て、足だったか、これがずっと地中に伸びてトウモロコシの根に繋がっている」と言われていますが、銃を手放して横たわっている農民兵は別に「地中」に埋葬されたのではなく、単に地表に仰向けで倒れているだけのように見えます。
また、その左手は出血している訳でもなく、指の先はエミリアーノ・サパタが左手に持っているトウモロコシから伸びた何かと接してはいますが、これは倒れた農民兵の「血管」ではなくトウモロコシの「ひげ」ではないですかね。
背後に六本のトウモロコシが見え、その中ほどに実がなっていますが、その実の「ひげ」と同じオレンジ色ですね。
http://1.bp.blogspot.com/-6sC_vauEgfc/U0gyd1o1THI/AAAAAAAAGu4/ejW4gb2H8f0/s1600/El+teatro+en+Me%CC%81xico+(4).jpg
http://notasomargonzalez.blogspot.com/2016/03/
うーむ。
どうも大山氏はこの壁画を見た時点で既にトウモロコシの「ひげ」を死んだ農民兵の「血管」と誤解していて、その誤解を四十数年以上大切に胸に秘めてこられたのではないかと思われます。
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