『とはずがたり』を離れて、現実の世界での四条隆親・隆顕父子と後深草院二条の関係を見て行きます。
まず、四条隆親についての概要は、正確性に若干の問題があるものの、ウィキペディアあたりを参照してください。
四条隆親
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%9D%A1%E9%9A%86%E8%A6%AA
ウィキペディアは「弘安2年(1279年)9月6日、78歳で薨去」としていますが、『公卿補任』弘安二年には、散位の七番目に
前大納言正二位 <四条>同隆親<七十七> 兵部卿。九月六日薨。号四条。
とあり、七十七歳没となっています。
実は『公卿補任』自体に混乱があって、隆親が貞応三年(1224)に初めて登場したときには二十三歳であり、以後は文永五年(1268)の六十七歳まで一歳ずつ加算されているので、逆算すれば建仁二年(1202)生まれとなります。
ところが、翌文永六年(1269)も六十七歳で、以後、没年まで一歳ずつ加算されているので、こちらで逆算すると建仁三年(1203)生まれとなります。
ま、事情は分かりませんが、生年の混乱も僅か一歳だけですね。
さて、先に野口華世氏の講演を紹介した際に少し述べたように、隆親は藤原北家魚名流、鳥羽院近臣の藤原家成(1107-54)の子孫(善勝寺流)で、家成から数えると
家成─隆季─隆房─隆衡─隆親
という具合いに五代目です。
「第42回群馬学連続シンポジウム 鎌倉武士のアーバニズム」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3361bc13210203407b82fce9dc8f9dc6
隆親の母親は坊門信清(1159-1216)の娘なので、源実朝室(西八条禅尼、1193-1274)の姉妹ですね。
承久の乱(1221)に際し、二十歳(または十九歳)の隆親も甲冑で武装し、後鳥羽院に従って叡山に登っています。
「我又武士也」(by 土御門定通)の背景事情
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0c004b184d9f914b0a64d5510efef6f9
土御門定通が処罰を免れた理由(再論)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/18728f3064e7515456553a7fc5fadf51
官軍敗北後の幕府による戦後処理で、後鳥羽院に加担した多数の貴族が死罪を含む処罰を受けます。
隆親の従兄・坊門忠信(1187-?)は、いったんは死罪と決まったものの、妹の西八条禅尼の懇願で流罪に変更され、辛うじて首の皮一枚で命がつながったことは有名ですが、隆親は特に処罰はされなかったようです。
貞応三年(1224)に参議となって『公卿補任』に初登場した時の記事を、見やすいように西暦を加えるなどして若干整理すると、
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元久二年(1205)正・5 五位
建暦二年(1212)正・5 従五位上
建保三年(1215)正・13 右兵衛佐
同 五年(1217)正・6 正五位(院御給)
6・19 左馬頭
承久元年(1219)2・2 四位
同 二年(1220)正・20 但馬権介
4・16 左少将
同 三年(1221)正・5 従四位上(院御給)
4・16 左中将
同 四年(1222)2・28 正四位下
貞応元年(1222)8・16 補蔵人頭
貞応三年(1224)12・17 参議
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といった具合で、隆親は承久の乱前に「院御給」を二回受けるなど、後鳥羽院との関係は良好ですが、乱後も翌年正月に早くも昇叙、同年八月に蔵人頭ですから、乱の影響は皆無ですね。
この後も『公卿補任』で隆親の経歴を追って行くと、
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元仁二年(1225)正・5 従三位(北白河院御給)
正・23 讃岐権守
12・22 兼右衛門督
嘉禄二年(1226)8・5 正三位
同 三年(1227)2・8 別当宣旨
安貞二年(1228)3・20 従二位(朝覲行幸院司)
寛喜二年(1230)正・24 丹波権守
同 三年(1231)3・15 権中納言
4・23 辞督別当
9・20 勅授
貞永元年(1232)12・15 正二位(臨時超伊平卿)
文暦二年(1235)〔不明〕中納言
嘉禎二年(1236)2・30 兼太宰権帥
同四年(1238)閏2・15 権大納言
延応二年(1240)12・18 「辞帥并薩摩国等。以男房名申任三川守」
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という具合いに、後堀河・四条天皇期にも隆親は順調に出世していますね。
少し長くなったので、後嵯峨親政以降の時期については次の投稿で書きます。
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