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第十一章 残された謎─信西・清盛・後白河の動向
残された謎①─信西はなぜ自殺したのか?
平治元年の異常天体現象
信西は天文道の第一人者─輸入書の最新学説で死期を悟る
信西は易の第一人者─三善清行以来の学説を相承
執政の責任を取り梟首の恥を避ける自殺
自殺の邪魔と息子たちの落命を避けるための単独逃避行
残された謎②─二条一派はなぜ信頼を抹殺したか?
三条公教、信西政権に代位できる体制構築を二条親政に要求
朝廷政治再起動のため二条の悪行を信頼らに責任転嫁
残された謎③─清盛の動向と清盛黒幕説
義朝は天皇が動員すれば嬉々として戦うが、清盛は違う
二条一派は清盛を味方と確信できず
清盛が入京後も動かなかったのは九州の平家貞の上洛を待つため
清盛が警戒された理由─清盛は後白河院政派
残された謎④─後白河の動向と一本御書所
一本御書所に滞在することは何を意味するか
鳥羽院政期の一本御書所は天皇が皇位継承儀礼に出席する拠点
一本御書所は天皇の便利な定宿
傍観を強いられた後白河が巻き返して当事者に
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p203以下
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残された謎①─信西はなぜ自殺したのか?
平治の乱における大きな謎の一つは、信西の自殺だ。
信西は三条殿襲撃を察知して、逃亡に成功した。それまでの社会通念では、彼はたとえ謀反の罪で逮捕されても、死刑に処せられた可能性はまずない。保元の乱でも、武士しか処刑されなかった。ならばなぜ、信西は逃亡し、容疑を裏づける印象を与えたのか。そしてなぜ、逃亡に成功したのに、早々に生存を諦めたのか。
『愚管抄』によれば、腹心の西光が国外逃亡を進めたが、信西は拒否した。理由はこうだ。「自宅を出た時、天体の配置が本星命位にあった。命がここで尽きるという天命を意味する。逃れる術はない」と。この会話は、その場にいて生き残った西光たちでなければ知り得ない。『愚管抄』の記述態度から考えて、彼らのうち誰か、恐らく後白河院の近臣として後に羽振りがよかった西光が、自ら周囲に語った内容を収録したものと思われ、信憑性は高い。
「信西をこの世から抹殺した点では源光保が最大の功労者である」という見解があるが[須藤94‐四九〇頁]、それは史実と違う。西光の証言らしき『愚管抄』の記述による限り、信西の死は間違いなく自殺で、光保は信西の遺骸を墓穴から暴いて首を持ち帰ったにすぎない。
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p205以下
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信西は天文道の第一人者─輸入書の最新学説で死期を悟る
平治の乱の年に、天文道の専門家を戦慄させる珍しい天変が起きた。そして信西は、天文道の達人だった。彼は、天文道を専門に修めて天文博士を世襲する一族ではないが、世襲の天文博士たちさえ知らない、信じがたいほどの学識を持っていた、という証言がある〔玉葉』建久二年一一月一九日条〕。
【中略】
ではなぜ信西は、世襲の天文博士たちが知らない最新の説、それも「秘説」を知っていたのか。基業が活用した『百注経』は、詳細不明だが、中国からの輸入書に違いない。そこに最新の学説が書かれ、信西だけが知っていたとなれば、答えは一つだ。信西は鳥羽院から、宋の貿易船が有明海で出入りする肥前国神崎荘の管理責任者の地位を預かっていた。信西は日宋貿易を通じて最新の学術書を入手し、理解し、儒者たちに伝授していたのである。
その信西が、平治の乱の年に、〈熒惑が太微に入る〉という「希代」の天変を見た。信西は、それが「希代」の大混乱の前兆だとすぐい結論したに違いない。そして同時に、自分の宿命を示す「本星」が、命の終わりを示す「命位」にあったのを見た。希代の天文家だからこそ、天文学が示す自分の宿命を逃れられるとは露ほども思わなかった、ということなのだろう。
信西は易の第一人者─三善清行以来の学説を相承
信西はもう一つ、予知能力を持っていた。「易」である。「易」は卜筮〔ぼくぜい〕の一種で、最も重要な儒教経典「五経」の一つ『易経』を学ぶことによって、世界の運行を把握し、未来を予測する技術だ。それは儒学の一部だが、易に通じる者は、日本にはほとんどいない。
【中略】
これらの事実を踏まえれば、信西が襲撃を逃れられたのも説明がつく。信西は、天変を見て、恐らく易も併用して、近日中に自分を巻き込む大混乱が起こると予測した(先に述べた通り、平治の乱勃発の二四日前の一一月一五日までに、信西は動乱の前兆を察知していた)。そして、混乱の前兆をできるだけ素早く察知できるようアンテナを張り、世間を観察し、いつでも逃亡できる準備をしていた。だからいち早く事変に気づき、素早く逃亡できた。そういうことだろう。
執政の責任を取り梟首の恥を避ける自殺
では、事前に事変を知り得た信西は、なぜ自分だけ逃亡したのか。逃亡先で速やかに自殺したのだから、自分だけ助かる利己的な行動ではない。すると、次のように考えられるだろう。
信西は、逃亡を始めた時から自殺する予定だった。『愚管抄』によれば、理由は二つあった。一つは、天体観察によって死を逃れられないと観念していたこと。もう一つは、捕縛や拷問、あるいは梟首のような恥辱を公衆の前で晒したくないというプライドである。
儒者は、学識によって政治を任されるのを栄誉とするが、政治に失敗すれば責任を取るべきで、それが君主を危険に晒すほどの大失敗なら、責任の取り方は自殺であるべきだ。それが、儒教経典や史書に数多く伝えられた、儒者の正しい責任の取り方だった。すでに信西は、平治の乱の前月の段階で、後白河の信頼に対する無軌道な鍾愛が、破滅的な混乱を招くと予想して『長恨歌絵』を著していた。信西が担う後白河院政は、あたかも安禄山の乱で唐の玄宗が蒙ったような、帝王が恥辱に塗れる形で破綻すると予見していたのだ。信西はそれを避けるべく全力で努力すべきだったが、果たせなかった。それで責任を感じ、自殺を選んだ、というのが、希代の儒学者として信西が取りそうな選択だ。
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第十一章 残された謎─信西・清盛・後白河の動向
残された謎①─信西はなぜ自殺したのか?
平治元年の異常天体現象
信西は天文道の第一人者─輸入書の最新学説で死期を悟る
信西は易の第一人者─三善清行以来の学説を相承
執政の責任を取り梟首の恥を避ける自殺
自殺の邪魔と息子たちの落命を避けるための単独逃避行
残された謎②─二条一派はなぜ信頼を抹殺したか?
三条公教、信西政権に代位できる体制構築を二条親政に要求
朝廷政治再起動のため二条の悪行を信頼らに責任転嫁
残された謎③─清盛の動向と清盛黒幕説
義朝は天皇が動員すれば嬉々として戦うが、清盛は違う
二条一派は清盛を味方と確信できず
清盛が入京後も動かなかったのは九州の平家貞の上洛を待つため
清盛が警戒された理由─清盛は後白河院政派
残された謎④─後白河の動向と一本御書所
一本御書所に滞在することは何を意味するか
鳥羽院政期の一本御書所は天皇が皇位継承儀礼に出席する拠点
一本御書所は天皇の便利な定宿
傍観を強いられた後白河が巻き返して当事者に
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p203以下
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残された謎①─信西はなぜ自殺したのか?
平治の乱における大きな謎の一つは、信西の自殺だ。
信西は三条殿襲撃を察知して、逃亡に成功した。それまでの社会通念では、彼はたとえ謀反の罪で逮捕されても、死刑に処せられた可能性はまずない。保元の乱でも、武士しか処刑されなかった。ならばなぜ、信西は逃亡し、容疑を裏づける印象を与えたのか。そしてなぜ、逃亡に成功したのに、早々に生存を諦めたのか。
『愚管抄』によれば、腹心の西光が国外逃亡を進めたが、信西は拒否した。理由はこうだ。「自宅を出た時、天体の配置が本星命位にあった。命がここで尽きるという天命を意味する。逃れる術はない」と。この会話は、その場にいて生き残った西光たちでなければ知り得ない。『愚管抄』の記述態度から考えて、彼らのうち誰か、恐らく後白河院の近臣として後に羽振りがよかった西光が、自ら周囲に語った内容を収録したものと思われ、信憑性は高い。
「信西をこの世から抹殺した点では源光保が最大の功労者である」という見解があるが[須藤94‐四九〇頁]、それは史実と違う。西光の証言らしき『愚管抄』の記述による限り、信西の死は間違いなく自殺で、光保は信西の遺骸を墓穴から暴いて首を持ち帰ったにすぎない。
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信西は天文道の第一人者─輸入書の最新学説で死期を悟る
平治の乱の年に、天文道の専門家を戦慄させる珍しい天変が起きた。そして信西は、天文道の達人だった。彼は、天文道を専門に修めて天文博士を世襲する一族ではないが、世襲の天文博士たちさえ知らない、信じがたいほどの学識を持っていた、という証言がある〔玉葉』建久二年一一月一九日条〕。
【中略】
ではなぜ信西は、世襲の天文博士たちが知らない最新の説、それも「秘説」を知っていたのか。基業が活用した『百注経』は、詳細不明だが、中国からの輸入書に違いない。そこに最新の学説が書かれ、信西だけが知っていたとなれば、答えは一つだ。信西は鳥羽院から、宋の貿易船が有明海で出入りする肥前国神崎荘の管理責任者の地位を預かっていた。信西は日宋貿易を通じて最新の学術書を入手し、理解し、儒者たちに伝授していたのである。
その信西が、平治の乱の年に、〈熒惑が太微に入る〉という「希代」の天変を見た。信西は、それが「希代」の大混乱の前兆だとすぐい結論したに違いない。そして同時に、自分の宿命を示す「本星」が、命の終わりを示す「命位」にあったのを見た。希代の天文家だからこそ、天文学が示す自分の宿命を逃れられるとは露ほども思わなかった、ということなのだろう。
信西は易の第一人者─三善清行以来の学説を相承
信西はもう一つ、予知能力を持っていた。「易」である。「易」は卜筮〔ぼくぜい〕の一種で、最も重要な儒教経典「五経」の一つ『易経』を学ぶことによって、世界の運行を把握し、未来を予測する技術だ。それは儒学の一部だが、易に通じる者は、日本にはほとんどいない。
【中略】
これらの事実を踏まえれば、信西が襲撃を逃れられたのも説明がつく。信西は、天変を見て、恐らく易も併用して、近日中に自分を巻き込む大混乱が起こると予測した(先に述べた通り、平治の乱勃発の二四日前の一一月一五日までに、信西は動乱の前兆を察知していた)。そして、混乱の前兆をできるだけ素早く察知できるようアンテナを張り、世間を観察し、いつでも逃亡できる準備をしていた。だからいち早く事変に気づき、素早く逃亡できた。そういうことだろう。
執政の責任を取り梟首の恥を避ける自殺
では、事前に事変を知り得た信西は、なぜ自分だけ逃亡したのか。逃亡先で速やかに自殺したのだから、自分だけ助かる利己的な行動ではない。すると、次のように考えられるだろう。
信西は、逃亡を始めた時から自殺する予定だった。『愚管抄』によれば、理由は二つあった。一つは、天体観察によって死を逃れられないと観念していたこと。もう一つは、捕縛や拷問、あるいは梟首のような恥辱を公衆の前で晒したくないというプライドである。
儒者は、学識によって政治を任されるのを栄誉とするが、政治に失敗すれば責任を取るべきで、それが君主を危険に晒すほどの大失敗なら、責任の取り方は自殺であるべきだ。それが、儒教経典や史書に数多く伝えられた、儒者の正しい責任の取り方だった。すでに信西は、平治の乱の前月の段階で、後白河の信頼に対する無軌道な鍾愛が、破滅的な混乱を招くと予想して『長恨歌絵』を著していた。信西が担う後白河院政は、あたかも安禄山の乱で唐の玄宗が蒙ったような、帝王が恥辱に塗れる形で破綻すると予見していたのだ。信西はそれを避けるべく全力で努力すべきだったが、果たせなかった。それで責任を感じ、自殺を選んだ、というのが、希代の儒学者として信西が取りそうな選択だ。
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