学問空間

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『言論抑圧-矢内原事件の構図』への疑問(その1)

2014-11-06 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年11月 6日(木)22時34分29秒

>筆綾丸さん
『言論抑圧ー矢内原事件の構図』を読みましたが、いろいろ問題が多いですね。
将基面氏は「大学教授の進退に関する最終的権限」に関し、「矢内原自身ですら正確な理解は持っていなかった」(p157)として新発見らしい極めて独創的な見解を述べておられますが、これは単なる勘違いではないかと思います。
この点は後で述べるとして、先にいくつか気になった点を検討してみます。
まず、南原繁について、著者は次のように書かれています。(p41)

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 矢内原事件の端緒を作った一人である右翼思想家蓑田胸喜は、南原に対しても名指しで一九三八年に攻撃を仕掛けている。しかし、南原の学問それ自体に対する批判もさることながら、そもそも南原が寡作であったことを「帝大教授として学術的貢献に怠慢」であると非難しており、さらに日本史学者津田左右吉を早稲田大学から東京帝大法学部に新設された東洋政治学講座の講師に推薦したことを論難している。津田は『古事記』や『日本書紀』を近代的な史料の方法で研究したことで知られるが、特に『日本書紀』における聖徳太子に関連した記述を批判的に論じたことを、蓑田は激烈に攻撃した。蓑田による南原への攻撃は、津田に対する糾弾のいわば余波であった。
 それはともかく、南原はじめ無教会キリスト者でありながら大学の教員を務めた人々のなかにあって、矢内原がキリスト教的信仰の立場を前面に押し出しつつ、「講壇ジャーナリスト」として反政府的・平和主義的な論陣を張ったことは、当時、極めて異色なものであった。そして、南原と矢内原の対照的な時局への態度は、大学教授という知識人が政治的現実と対決する上で、あくまでも学問のなかに立て籠り、そこで批判を展開するか、あるいは、象牙の塔を出て公の場で自説を表明するか、というふたつの相異なる態度(とその帰結)を例示していて興味深い。
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「東洋政治学」講座とありますが、正しくは「東洋政治思想史」ですね。
将基面氏ご自身も思想史の研究者らしいので、このあたりはもう少し神経を使ってほしかったですね。
また、「蓑田による南原への攻撃は、津田に対する糾弾のいわば余波であった」は、当時、対外的にはあまり目立たなかった南原と津田を比較すると間違いではないのかもしれません。
しかし、もともと蓑田は「反国体」思想の牙城である東大法学部を攻撃するのに異常な情熱を燃やす一方で、津田左右吉の思想には特に興味を持っていなかったようですね。
津田が東大の新設講座へ出講さえしなければ平穏な生活を送れた可能性は高く、蓑田の津田への攻撃は東大法学部糾弾に対するいわば余波であったともいえますね。
このあたり、津田の一番弟子であった栗田直躬氏の認識が参考になります。

「津田先生と公判」

将基面氏は矢内原忠雄にスポットを当てるために、比較の対象として南原繁を意図的に(?)軽く扱っているような感じがするのですが、南原が例えば東大における終戦工作の中心であったこと等を知っている者にとっては、南原が「あくまでも学問のなかに立て籠」っていたかの如き書き方には疑問を感じます。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

蓑虫田蛭 2014/11/04(火) 12:53:34
小太郎さん
矢内原事件を含め、こういう方面は不案内ですが、簑田胸喜に言及した別の箇所を引用してみます。
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矢内原は、自分の辞職を「学生も世間も惜しんでくれた」と回想している。興味深いことに、簑田胸喜でさえ、矢内原の思想の是非はともかくも、その誠実さを認め、進退に関して「敬意を含んだ挽歌を奏した」と矢内原は記録している。(164頁)
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辞職に対しては送別が普通かと思いますが、挽歌というのは事々しくて面白いですね。

矢内原の『余の尊敬する人物』(岩波新書 1940年5月)は、リンカーン、エレミヤ、日蓮、新渡戸稲造に関して伝記的考察をしたもので、エレミヤ論の末尾において、エセ・クリスチャン矢内原という簑田のかつての非難などを踏まえ、「矢内原は密かに簑田胸喜に対するささやかな反撃を試みている」と将棋面氏は書いています(因みに、引用文四ヵ所にある傍点は省略)。
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卑怯なること蓑虫の如く、頑固なること田蛭のごとく、胸に悪意を抱き、人を陥れるを喜びとす汝らパシェル・ハナニヤ輩よ。汝らこそ真理を乱し、正義を破壊し、国に滅亡を招いたのである」(165頁)
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http://shinozaki-baptist.jp/modules/kyuyaku/index.php?content_id=462
矢内原の一文は簑田胸喜の縊死(1946年1月30日)を予言したものとも読めますね。つまり、お前(ハナンヤ)は今年のうちに死ぬ、というエレミヤの預言は、時差こそあれ、正しかったのだ、と。縊死と軛というのも、妙に符牒が合いますね。また、『余の尊敬する人物』の初版年月日からすると、矢内原は尊敬するエレミヤの如く、開戦前夜、国の滅亡(日本の敗戦)も予言していた、と考えることもできますね。
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