・この本は、私が1971年の9月から、翌年の9月までの一年間を過ごしましたアメリカから、日本にむけて送ったいろいろな文章を、文芸春秋でまとめてくださることになったものです。
・「チャック」というのは、まァ、私の仇名のようなものです。
(芥川龍之介の『河童』の中に出てくる「チャック」という頭のいい河童から)
・(田口ケイというおばあさん役に扮したら誰も気づかなかった)
田口ケイ、という人は、みなさんにとって知らないおばさんだし、知らなくてもきれいな人だったら、そこで何かが発生するのだけれど、生憎と、知り合いになりたい気を起させる女でもないから、みんな「ああ」と頭を下げるだけで、もう私に目をもどすこともなく、通り過ぎてしまうのです。
・・・と、こういうふうにわかるまで、私は、こんなに人びととは、容貌、いでたちで差別するものかと、冗談でなく哀しいおもいをしたのです。そのうちに、私のほうも馴れてきて、この格好のときは廊下でもはじを歩き、食堂でも目立たない場所にすわり、トイレでも、なるべくみなさまのお邪魔にならないようにつとめ、けっして人から優しくだの、親切にしてもらおうと思わないようになってきました。
でも、私は女優だから、もとにもどれるけど、実際のこういうおばさんは、こんなふうに人生を送って行くのだな、と考えたら、ある日、ふと涙が出るくらい悲しい気分になりましたが、反面、だからこそ、こういうおばさんは、自分の家族や知ってる人たちを、心から愛するのだし、人からしてもらう親切は、それが小さくても有難く思い、感謝も忘れず、人にも同じようにしてあげたいと考え、小さな幸福を心から喜ぶことができるのだ、と、知らない間に、人生に対して感受性のにぶってる私にとって、田口ケイさんの生活は、なにかをあたえてくれました。
役を通して、なにか別の人生を見る、ということは、よくありますが、これほど強い経験は初めてでした。
・私自身になって恐縮ですが、女優になりたいなど一度も願わず、ただ、いい母親になりたいため、子供に本を読んで聞かせる方法を教えてくれるかと、NHKの試験を受けた、といういい加減な私にとって、いままでは、大変ラッキーだった、と思います。ただ、いまだに本を読んで聞かせる子供がいないのは残念ですが、それを別にすれば、この職業を続けてこれたことは、よかったと思います。
そのかわり、あまりにも忙しい毎日であったため、ゆっくり他の人たちのやってることを見つめる暇も、自分自身について考える暇もなくここまで来てしまったし、また創造的であるべきこの仕事が、まるで、オフィスにおつとめしているような繰り返しになってきた恐ろしさもあり、どうしても休暇をとることが必要と、この数年間考えてきました。
そして昨年(1971年)の9月から一年間、休むことに決め、いまニューヨークのアパートで、これを書いている、というわけです。
・私はいま、ニューヨークから、ローマに行く飛行機の中にすわっています。どうしてローマに行くのかというと、テレビマンユニオンの仕事で『わたしの感情旅行』という番組を作るためです。三か月前に、ニューヨークに電話があって、「わたしのかんじょう旅行という番組ですが・・・」とお兄さんがいったから、『わたしの勘定旅行』だと思って、お金を勘定しながら旅をする番組なんだなあ-、でも私は、足し算は上手だけど(もちろんヒトケタ)、引き算はうまくないから、困ったもんだと考えていたら、そうじゃなかったので、「それなら、やりましょう」といったのです。
・このバッグ(レストランで忘れた)が、ここまでとどいたいきさつが、私はすごく感心したんで、これから書こうとしてるんですけど、嘘じゃなく、本当の話ですから、そういう気持ちで、読んでほしいんです。
バッグをあずかった食堂のウェイトレスは、とても親切な人だったので、「女の人がバッグを失くしたからには、すぐにほしいでしょう。それには郵便では数日かかるから・・・」と考えて、私のバッグをもって、ニューヨーク行きのバスの停留所まで行きました。そしてバスが来ると、中に乗っている人に「ニューヨークまで行く人、います?」と聞きました。そしたら、「はい」という人がいたんで「このバッグ、ニューヨーク・タイムズの〇×△□さんのデスクまで、届けて下さいませんか? 五ドルのお礼が待っていますよ」といいました。その「はい」といった男の人は、バッグを受けとると「とどけましょう」といって、バスは出ました。名詞の交換も、受取も、証人も、なにもなく。
「もし、とどかなかったら、どうしよう」とウェイトレスは思わなかったのかな、と思った私の質問に、友だちが答えました。「ウェイトレスにしてみると、そういうことはあり得ないことで、いつも、みんな、ああいうふうにして、とどけたり、とどけられたりして、何も間違いが起こらないから、それを同じように、やっただけなんだろうね」って。バッグのふたをあけたら、お礼の五ドルどころじゃなく百ドルも入っていたのに。
そんあわけで、親切と信頼に守られて、私のバッグは、無事、私のところに帰って来た、というのが、私の書きたかったこと。
これはたった、ニューヨークから車で三時間くらいしか離れていないとことの話なんです。こんなステキなところが、まだいっぱいあるアメリカなのに、なぜニューヨークは世界で一番、恐ろしい街になったのかな。私にはわからない。
・女優をやっているときは、家とスタジオの往復で、そして、逢う方がだいたいきまっていて、その中で人生を演じていくわけなんだけれど、やっぱり、仕事しないで、じーっといろんな人を見たのは(それが、本当の人生っていいますかね)、いままで、私たちが演じ、創ってきた人生とはまったくちがう人生を、見てきたのは、実になったと思うのです。
でも、それとは逆に、ある種、絶望感みたいなものが、この一年でさらに、深まったような気もします。
人間って、生きていくのが、とてもツラくってね。アメリカ人であろうと、日本人であろうと、何人であろうと、とくに女が生きていくのはとても大変でね。生きていくのはできるかもしれないけれど、傷つかないように、気も狂わずに、自殺しようとも考えずに、生きていくのは、とても大変だと思って。
それは、アメリカで逢った、たくさんのお婆さんのせいかもしれない。
・人間て、どうしたって、歳をとっていくものでしょう。どう、うまく歳をとって、うまく死ねるか。難しい。
アメリカで、私が習った歌の中に、
hard to live
but hard to leave
というのがありました。この世は、生きるのも難しいし、死ぬのも難しい。人生って、そんなもんじゃないかと思うのです。
前から思っていたのけれど、じーっとだまってよその人の人生を見ていたら、余計、その絶望感は強くなりました。
・愛情があふれるようにあるって人(俳優)を何人か見たのが、私のこの一年のいちばんの収穫でした。俳優というのはね、人が悪くて、イヤな人、といわれても、芸さえありゃいいってもんじゃないってこと、よくわかりました。
人がよいばっかりで、いい俳優になれなかった人も、たくさんいるってことはわかるんだけど、最終的に残るのは、大事なのは、その人の人間性なのね。芸は人なりってこと。昔からあったけれど、今度、それがはっきりわかったのでした。
これから、女優を続けていく上で、いや、そうでなくても、とにかく、人間的でありたい。偉大な俳優に逢って、私の考えの間違っていないことが、はっきりして、とてもうれしかったのです。そしてまた、創造的な仕事は命をかけてやらなきゃつまらない、ということもおそわりました。
感想;
黒柳徹子さんを見ていると、とてもステキで、人生満帆で来られたように思っていました。
でも当たり前ですが、生きるということは誰も大変なんだなと思いました。
一年間仕事を辞めてニューヨーク生活。
帰って来てからの仕事は約束されていません。
でも自分を見つめる時間を取らないと、これから先を生きていくことが不安だったのでしょう。
それまでの実績があったので、本になったり、ニューヨーク生活中にも仕事が入ってきていました。
やはり実績は大きいこと、それと多くの友だち/知り合いを持っておられたのも大きかったようです。
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