スランプに陥った江戸川乱歩。
彼は「張ホテル」という中国人が経営する西洋ホテルに泊まり作品を書く。
作品は「梔子姫(くちなしひめ)」。
ホテルには美しい中国人のホテルマンや魅惑的な西洋の夫人がいて。
奇怪な事件が起きて。
それらに乱歩がインスパイアされて筆が進んでいく。
江戸川乱歩が主人公だというのがいい。
江戸川乱歩だけでなく、横溝正史、浜尾四郎、岩田準一、水谷準らの名前も出て来る。
そして主人公として描かれた乱歩。
推理小説の巨星、恐怖・猟奇的な作品を書いた作家といったイメージではなく、ひとりの人間らしい俗物として描かれている。
乱歩の風呂好きは有名だが、乱歩は下半身の毛に白髪が混じっているを発見して愕然とする。
はげ頭であることにもコンプレックスを持っていて、残り少ない髪の毛が失われることを嘆いている。誰かが部屋に出入りいたことを確かめるため乱歩は髪の毛をドアの間に挟むことを思いつきが、髪の毛を抜くことをためらう。「乱歩の倍も禿げている浜尾四郎の方が数倍もてる」ということに悔しがっている。
こんな人間的な乱歩が描かれる。
『うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと』というのは乱歩が色紙に書く揮毫(きごう)だが、そんな言葉にふさわしくない自分であることを乱歩は認識していて、こんな描写がある。
「『うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと』などと低い声でつぶやきながら、つい牛込演芸館下は<田原屋>のマカロニをひさしく食べてないななどと考えている。やっぱり寝不足の河内山みたいなこの顔には虚無主義だの、近代の苦悩だのは似合わないのだ、と乱歩の想いはいつも丸顔と禿の憂鬱に戻ってしまうのだった」
実にユーモラスだ。
こんな描写もある。ホテルで起こる事件に関して乱歩が調べようとする時にこう思う。
「たいした度胸もないくせに、原稿用紙の上だけの妄想に飽きが来て、現世での凶事(まがごと)にちょっとだけ触ってみたいのである」
実によく人間・乱歩を現している。
乱歩の人間っぽさがその作品についても同じで、「押絵と旅する男」などの名作の後、駄作を書き続けたことに悩んでいる。
乱歩は自分が死んだとして、その死亡記事を自分で書く。
まずは「押絵と旅する男」で死んだ場合
「『屋根裏の散歩者』『人間椅子』においては屈折した人間の内なる暗部を、卓抜な着想で幻想の世界に昇華せしね、つづく『火星の運河』では恐怖と神秘の暗澹を描き、絶筆となった『押絵と旅する男』は日本趣味の幻想性を追求してほとんど完成の域に達したと江湖の絶賛を博した矢先の死であった。斯様に短編小説で余人の追随を許さぬ一方、『陰獣』『虫』などの中篇、『パノラマ島奇譚』『孤島の鬼』に代表される長編小説で非凡な才能の一端を見せ……」
次に現在まで生きた場合
「欧米のそれに比肩しうる本格作家登場かと一時期待されたが、『蜘蛛男』『魔術師』『黄金仮面』などこの数年の通俗小説を見るに、題名と道具立てばかりが大仰で、謎や推理がマンネリに陥り、過去の絢爛たる才気を知る者の眉をひそめさせる沈滞ぶりであったが……」
実に面白い。それはそのまま作品論になっていて、作家としての名声にこだわる人間っぽさが現れている。
そして既存の作家との比較。
自分のペンネームの由来になったポオと比べて自分の才能のなさを嘆く(「ポオが40行あまりの詩で歌ってみせた少女の微笑を乱歩はいったいこの先何枚費やせばかけるのだろう)と共に、ポオが死んだ35歳を過ぎても自分が生きている事に関して、こう思う。
「ポオにあって乱歩にないもの、それは背中合わせにはりついている<死>の予感だ」
乱歩の体は頑健、死など意識したことがない。
また乱歩は谷崎潤一郎の才能や自分の後を追ってくる若い才能に嫉妬を燃やしたりする。
この様にこの作品は全編、人間・乱歩を描くことに費やされていく。
乱歩ファンにはたまらない、ニヤリとさせられる内容だ。
そしてラスト。
名作「梔子姫」を書き終えた乱歩はこんなことで葛藤し悩む。
「『梔子姫』が乱歩の遺書だとしたら、これを水谷準に送って世間に発表したからには、乱歩は四十歳でみんなの前から消えて行かなくてはならない。反対に、好きな真桑瓜を食べたいだけ食べ、海外の探偵小説を端から端まで読み漁り、衆道の本をこっそり集めて涎を垂らしたければ、目をつむって「吸血鬼」だの「恐怖王」だの、こけ脅しの見世物小屋の絵看板、泥絵の具で描きなぐって暮らすしかない」
乱歩は偉大な芸術作品を書いた作家として死んでいくか、俗物の欲望いっぱいの人間として生きるかで悩んでいる。
僕は後者の俗物の欲望いっぱいの乱歩を支持するが、果たして乱歩の出した結論は?
乱歩は結論を保留する。
「梔子姫」を書き上げて精も根も尽きたため襲ってきた『睡魔』に勝てず、乱歩は眠ってしまうのだ。
人生の大命題も睡魔には勝てないということか?
最後の最後までこの様なユーモアに溢れたこの作品。
『哲学や芸術などクソ食らえ。人生の悩みなどクソ食らえ。
人間は腹が減れば飯を食い、眠くなればいびきをかいて寝る』
乱歩を通してそんなことを描いている様に思える。
実に痛快だ。
★追記
作品中、乱歩はミセス・リーという美しい夫人といい雰囲気になる。
その時、乱歩は有頂天になって、浜尾四郎や横溝正史が「涎を垂らして悔しがるだろう」と思う。
また、やはり夫人に踏み込めない自分自身にこんな言い訳をする。
「たった半日の短い夢と思おう。夢物語でいいのだ。夢物語でいいのだ」
★追記
また作者は乱歩を通してどんな生き物かを描いている。
「書いている時の乱歩は天下人である。誰の言うことも聞かない。誰にも煩わされない。黄金色にたゆたう瑞雲の上から下界を見下ろす王者の気分である。あるいはゴシックの尖塔の取りついて闇に哄笑する悪魔の快感である。みんなが自分の文章に酔い、絢爛の世界に目を瞠り、心を宙に遊ばせて驚嘆の声をあげる。乱歩は花咲爺になって、腕の籠から良い夢、悪い夢、花びらのように下界に撒き散らす」
彼は「張ホテル」という中国人が経営する西洋ホテルに泊まり作品を書く。
作品は「梔子姫(くちなしひめ)」。
ホテルには美しい中国人のホテルマンや魅惑的な西洋の夫人がいて。
奇怪な事件が起きて。
それらに乱歩がインスパイアされて筆が進んでいく。
江戸川乱歩が主人公だというのがいい。
江戸川乱歩だけでなく、横溝正史、浜尾四郎、岩田準一、水谷準らの名前も出て来る。
そして主人公として描かれた乱歩。
推理小説の巨星、恐怖・猟奇的な作品を書いた作家といったイメージではなく、ひとりの人間らしい俗物として描かれている。
乱歩の風呂好きは有名だが、乱歩は下半身の毛に白髪が混じっているを発見して愕然とする。
はげ頭であることにもコンプレックスを持っていて、残り少ない髪の毛が失われることを嘆いている。誰かが部屋に出入りいたことを確かめるため乱歩は髪の毛をドアの間に挟むことを思いつきが、髪の毛を抜くことをためらう。「乱歩の倍も禿げている浜尾四郎の方が数倍もてる」ということに悔しがっている。
こんな人間的な乱歩が描かれる。
『うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと』というのは乱歩が色紙に書く揮毫(きごう)だが、そんな言葉にふさわしくない自分であることを乱歩は認識していて、こんな描写がある。
「『うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと』などと低い声でつぶやきながら、つい牛込演芸館下は<田原屋>のマカロニをひさしく食べてないななどと考えている。やっぱり寝不足の河内山みたいなこの顔には虚無主義だの、近代の苦悩だのは似合わないのだ、と乱歩の想いはいつも丸顔と禿の憂鬱に戻ってしまうのだった」
実にユーモラスだ。
こんな描写もある。ホテルで起こる事件に関して乱歩が調べようとする時にこう思う。
「たいした度胸もないくせに、原稿用紙の上だけの妄想に飽きが来て、現世での凶事(まがごと)にちょっとだけ触ってみたいのである」
実によく人間・乱歩を現している。
乱歩の人間っぽさがその作品についても同じで、「押絵と旅する男」などの名作の後、駄作を書き続けたことに悩んでいる。
乱歩は自分が死んだとして、その死亡記事を自分で書く。
まずは「押絵と旅する男」で死んだ場合
「『屋根裏の散歩者』『人間椅子』においては屈折した人間の内なる暗部を、卓抜な着想で幻想の世界に昇華せしね、つづく『火星の運河』では恐怖と神秘の暗澹を描き、絶筆となった『押絵と旅する男』は日本趣味の幻想性を追求してほとんど完成の域に達したと江湖の絶賛を博した矢先の死であった。斯様に短編小説で余人の追随を許さぬ一方、『陰獣』『虫』などの中篇、『パノラマ島奇譚』『孤島の鬼』に代表される長編小説で非凡な才能の一端を見せ……」
次に現在まで生きた場合
「欧米のそれに比肩しうる本格作家登場かと一時期待されたが、『蜘蛛男』『魔術師』『黄金仮面』などこの数年の通俗小説を見るに、題名と道具立てばかりが大仰で、謎や推理がマンネリに陥り、過去の絢爛たる才気を知る者の眉をひそめさせる沈滞ぶりであったが……」
実に面白い。それはそのまま作品論になっていて、作家としての名声にこだわる人間っぽさが現れている。
そして既存の作家との比較。
自分のペンネームの由来になったポオと比べて自分の才能のなさを嘆く(「ポオが40行あまりの詩で歌ってみせた少女の微笑を乱歩はいったいこの先何枚費やせばかけるのだろう)と共に、ポオが死んだ35歳を過ぎても自分が生きている事に関して、こう思う。
「ポオにあって乱歩にないもの、それは背中合わせにはりついている<死>の予感だ」
乱歩の体は頑健、死など意識したことがない。
また乱歩は谷崎潤一郎の才能や自分の後を追ってくる若い才能に嫉妬を燃やしたりする。
この様にこの作品は全編、人間・乱歩を描くことに費やされていく。
乱歩ファンにはたまらない、ニヤリとさせられる内容だ。
そしてラスト。
名作「梔子姫」を書き終えた乱歩はこんなことで葛藤し悩む。
「『梔子姫』が乱歩の遺書だとしたら、これを水谷準に送って世間に発表したからには、乱歩は四十歳でみんなの前から消えて行かなくてはならない。反対に、好きな真桑瓜を食べたいだけ食べ、海外の探偵小説を端から端まで読み漁り、衆道の本をこっそり集めて涎を垂らしたければ、目をつむって「吸血鬼」だの「恐怖王」だの、こけ脅しの見世物小屋の絵看板、泥絵の具で描きなぐって暮らすしかない」
乱歩は偉大な芸術作品を書いた作家として死んでいくか、俗物の欲望いっぱいの人間として生きるかで悩んでいる。
僕は後者の俗物の欲望いっぱいの乱歩を支持するが、果たして乱歩の出した結論は?
乱歩は結論を保留する。
「梔子姫」を書き上げて精も根も尽きたため襲ってきた『睡魔』に勝てず、乱歩は眠ってしまうのだ。
人生の大命題も睡魔には勝てないということか?
最後の最後までこの様なユーモアに溢れたこの作品。
『哲学や芸術などクソ食らえ。人生の悩みなどクソ食らえ。
人間は腹が減れば飯を食い、眠くなればいびきをかいて寝る』
乱歩を通してそんなことを描いている様に思える。
実に痛快だ。
★追記
作品中、乱歩はミセス・リーという美しい夫人といい雰囲気になる。
その時、乱歩は有頂天になって、浜尾四郎や横溝正史が「涎を垂らして悔しがるだろう」と思う。
また、やはり夫人に踏み込めない自分自身にこんな言い訳をする。
「たった半日の短い夢と思おう。夢物語でいいのだ。夢物語でいいのだ」
★追記
また作者は乱歩を通してどんな生き物かを描いている。
「書いている時の乱歩は天下人である。誰の言うことも聞かない。誰にも煩わされない。黄金色にたゆたう瑞雲の上から下界を見下ろす王者の気分である。あるいはゴシックの尖塔の取りついて闇に哄笑する悪魔の快感である。みんなが自分の文章に酔い、絢爛の世界に目を瞠り、心を宙に遊ばせて驚嘆の声をあげる。乱歩は花咲爺になって、腕の籠から良い夢、悪い夢、花びらのように下界に撒き散らす」