現在ネットで話題の「世界史地図」論争。
投稿主いはく
「この素晴らしさがわからないのは馬鹿か売国奴」
つまり
「『日本』という国が他国に比べて長く続いているから素晴しい」
というわけである。
果たしてそうか?
まず
3世紀は「邪馬台国」など小国家群の時代で統一国家ではない。
4世紀は「空白の時代」と言われていて、よくわからない時代だ。
5世紀は「倭国(ヤマト王権)」で「日本」ではない。
後に示すが、「日本」という「国号」が使われたのは6世紀~7世紀だと言われている。
あるいは、
英国やフランスなどは「政体」で区分されているが、
日本も同じように「政体」で区分しないと不公平である。
で、「政体」で区分すると、
「鎌倉幕府」「室町幕府」~群雄割拠の時代(戦国時代)~「江戸幕府」「大日本帝国」「日本国」
と表記されなければならない。
まあ、投稿主は「皇統がずっと続いていることが素晴しい」と言っているのだろうが、
それはひとつの見方であるし、神話の時代まで「皇統」に入れてしまうのはどうなのだろう?
別の見方をすれば、ギリシャや中国が壮大な文明を築いていた時代に、
日本は狩猟や木の実を拾って生活していたのだから、はるかに遅れていると言える。
文字もなかった……。
でも、こうして否定してしまうと、
『日本』や『皇統』を拠り所にしている人はつらいんだろうな……。
これをなくしてしまったら残るのは『何者でもない、ちっぽけな自分』だから。
でも、本当は『日本』や『皇統』にすがるよりも、
自分に関することで「俺、すげえ!」「わたし、すごい!」って言えることの方が健全だと思う。
それはどんな些細なことでもいい。
「俺、すげえ!」「わたし、すごい!」と胸を張って言えるようにがんばることが、
「自分を生きる」ってことだと思う。
「大きなもの」や「虚構」に身を委ねる人生は虚しい。
※追記
この件に対する、Xのコミュニティノートに書かれていた指摘コメントも記しておきます。
『「日本」という国号が使われるようになった時期は、諸説あるものの6~8世紀頃であると考えられています。
日本の皇統が最古の王朝であるというギネス記録がある通り、
わが国が長い歴史を持つ国家であることは間違いありませんが、
その始まりについては信ぴょう性の無い史料によって語られる場合があることには注意が必要です。
また、長く続いていることが尊いことかどうかは個人の価値観によるものであり、
異論を封殺するような言動は避けることが無難であると指摘します。』
投稿主いはく
「この素晴らしさがわからないのは馬鹿か売国奴」
つまり
「『日本』という国が他国に比べて長く続いているから素晴しい」
というわけである。
果たしてそうか?
まず
3世紀は「邪馬台国」など小国家群の時代で統一国家ではない。
4世紀は「空白の時代」と言われていて、よくわからない時代だ。
5世紀は「倭国(ヤマト王権)」で「日本」ではない。
後に示すが、「日本」という「国号」が使われたのは6世紀~7世紀だと言われている。
あるいは、
英国やフランスなどは「政体」で区分されているが、
日本も同じように「政体」で区分しないと不公平である。
で、「政体」で区分すると、
「鎌倉幕府」「室町幕府」~群雄割拠の時代(戦国時代)~「江戸幕府」「大日本帝国」「日本国」
と表記されなければならない。
まあ、投稿主は「皇統がずっと続いていることが素晴しい」と言っているのだろうが、
それはひとつの見方であるし、神話の時代まで「皇統」に入れてしまうのはどうなのだろう?
別の見方をすれば、ギリシャや中国が壮大な文明を築いていた時代に、
日本は狩猟や木の実を拾って生活していたのだから、はるかに遅れていると言える。
文字もなかった……。
でも、こうして否定してしまうと、
『日本』や『皇統』を拠り所にしている人はつらいんだろうな……。
これをなくしてしまったら残るのは『何者でもない、ちっぽけな自分』だから。
でも、本当は『日本』や『皇統』にすがるよりも、
自分に関することで「俺、すげえ!」「わたし、すごい!」って言えることの方が健全だと思う。
それはどんな些細なことでもいい。
「俺、すげえ!」「わたし、すごい!」と胸を張って言えるようにがんばることが、
「自分を生きる」ってことだと思う。
「大きなもの」や「虚構」に身を委ねる人生は虚しい。
※追記
この件に対する、Xのコミュニティノートに書かれていた指摘コメントも記しておきます。
『「日本」という国号が使われるようになった時期は、諸説あるものの6~8世紀頃であると考えられています。
日本の皇統が最古の王朝であるというギネス記録がある通り、
わが国が長い歴史を持つ国家であることは間違いありませんが、
その始まりについては信ぴょう性の無い史料によって語られる場合があることには注意が必要です。
また、長く続いていることが尊いことかどうかは個人の価値観によるものであり、
異論を封殺するような言動は避けることが無難であると指摘します。』