自分がひとかどの武将であることを証明するために懸川城で奮戦する氏真(溝端淳平)。
その背景には、
・父、今川義元(野村萬斎)に「そなたに将としての才はない」と言われたこと。
・家康(松本潤)への劣等感がある。
氏真はこんな荷を背負ってたんですね。
だから山にこもって武術の修行をしていたし、
妻の実家の北条家に逃げることもしなかった。
そんな氏真に妻の糸(志田未来)は言う。
「降りて楽になりましょう。糸は蹴鞠をしているあなた様が好きでございます」
氏真はこれで囚われから解放される。
「余はなにひとつ事をなせなかった。
しかし、妻ひとりを幸せにすることはできるかもしれん。笑わば笑え」
仏教で言う「諦め」ですね。
「笑わば笑え」という言葉がすごくいい。
そして氏真は、自分も氏真のようになりたい、と語る家康に言う。
「そなたはまだ降りるな。そこでまだまだ苦しめ」
人生を降りること。
荷を降ろすこと。
人はどこかでこのことを考えなければならないのかもしれない。
歳を取るし気力は衰えるし、いつまでもギラギラではいられない。
自分の背負っているものが重く感じて来た時は少しずつ降ろしていくのが、正しい生き方だろう。
『人の一生は重き荷を背負いて遠き道を行くがごとし』
家康の遺訓だが、家康はまだまだ荷を背負って生きていかなければならないようだ。
氏真、家康、糸、瀬名(有村架純)、そして前回の田鶴(関水渚)。
彼らには共通の思い出があるようだ。
それは雪が降った時の今川館での思い出……。
それは美しいが、同時に儚い……。
楽しいが、哀しい……。
情趣のあるいい作劇だ。
※追記
一方、この作劇はどうなんだろう?
まず回想による説明が多すぎる。
まあ、家康の人生は長丁場だから、
いちいち氏真のシーンを入れ込んでいたら物語が進行しないんだけど。
あとは、義元の言葉。
「おのれを鍛え上げることを惜しまぬ者はいずれ必ず天賦の才ある者を凌ぐ」
お説教っぽくて暑苦しい。
史実が変わってしまうので出来ないが、
この言葉を聞いた氏真が家康と共に現実と闘うという選択肢も出来てしまう。
その背景には、
・父、今川義元(野村萬斎)に「そなたに将としての才はない」と言われたこと。
・家康(松本潤)への劣等感がある。
氏真はこんな荷を背負ってたんですね。
だから山にこもって武術の修行をしていたし、
妻の実家の北条家に逃げることもしなかった。
そんな氏真に妻の糸(志田未来)は言う。
「降りて楽になりましょう。糸は蹴鞠をしているあなた様が好きでございます」
氏真はこれで囚われから解放される。
「余はなにひとつ事をなせなかった。
しかし、妻ひとりを幸せにすることはできるかもしれん。笑わば笑え」
仏教で言う「諦め」ですね。
「笑わば笑え」という言葉がすごくいい。
そして氏真は、自分も氏真のようになりたい、と語る家康に言う。
「そなたはまだ降りるな。そこでまだまだ苦しめ」
人生を降りること。
荷を降ろすこと。
人はどこかでこのことを考えなければならないのかもしれない。
歳を取るし気力は衰えるし、いつまでもギラギラではいられない。
自分の背負っているものが重く感じて来た時は少しずつ降ろしていくのが、正しい生き方だろう。
『人の一生は重き荷を背負いて遠き道を行くがごとし』
家康の遺訓だが、家康はまだまだ荷を背負って生きていかなければならないようだ。
氏真、家康、糸、瀬名(有村架純)、そして前回の田鶴(関水渚)。
彼らには共通の思い出があるようだ。
それは雪が降った時の今川館での思い出……。
それは美しいが、同時に儚い……。
楽しいが、哀しい……。
情趣のあるいい作劇だ。
※追記
一方、この作劇はどうなんだろう?
まず回想による説明が多すぎる。
まあ、家康の人生は長丁場だから、
いちいち氏真のシーンを入れ込んでいたら物語が進行しないんだけど。
あとは、義元の言葉。
「おのれを鍛え上げることを惜しまぬ者はいずれ必ず天賦の才ある者を凌ぐ」
お説教っぽくて暑苦しい。
史実が変わってしまうので出来ないが、
この言葉を聞いた氏真が家康と共に現実と闘うという選択肢も出来てしまう。
家康と氏真とは「対立関係から心の通い合いへ」という「篤姫」以来ご存知の「私好み」の展開。
そして、おそらく今回のことがあって初めて氏真は糸とも心を通わせた。
Wiki的史実情報でも、その後二人は生涯仲睦まじく暮らしたようです。
>一方、この作劇はどうなんだろう?まず回想による説明が多すぎる。
上で私が「単発のドラマとして見るならば」と留保した意図と同じですね。
>父、今川義元に「そなたに将としての才はない」と言われたこと。
>家康への劣等感がある。
これらのことは今回初めて明示されたように思います。
たしかに、瀬名を賭けた槍試合の後、それまで元康(家康)が氏真にわざと負けていた、と義元に指摘されてはいました。
あの頃(第1話、第2話)の基調は、元康を「弱虫、泣き虫、鼻水垂れ」として描くところにありました。
だから、あの試合でも元康は「窮鼠猫を噛む」形で氏真に勝ったようにも見えました。
しかし今回、元康は本当に氏真にわざと負けていたらしいことが明らかになりました。
だとすれば、試合の直後に、氏真が悔し紛れに木刀を振り回す今回のシーンを入れておいても良かったように思いました。
糸さんも今回初登場だったと思います。
完全な政略結婚だった上に、幼少時の怪我のせいで足が不自由で「もらい手がなかった」姫だったため、氏真が糸を歓迎していなかった事情も初めて明かされました。
氏真が瀬名を側室に望んだのも本気だったでしょうし、氏真としては彼女まで元康に取られてしまった、ということだったのでしょう。
他方、こうした背景が糸の人物像に厚みを加え、それゆえに今回の夫婦物語を感動的なものにしています。
問題は、これだけの材料を今回の「回想」だけで提示してしまっていることですね。
もっとも今回についてだけ言えば、「ああ、実はそうだったのか」と思わせる作劇ということで「アリ」かな、という気もします。
前回の「田鶴物語」も今回と同様で、「単発のドラマとして見るならば」一応成立していたとは思います。
ただし田鶴の場合、過去回、特にフェイズ①(先週参照)との間で人物像の齟齬をきたしかねない危うさがありました。
先週コウジさんご提案のように、「フェイズ①削除」くらいでしょうか。
いつもありがとうございます。
確かに個々の話はいい話なのですが、粗が目立つんですよね。
それは、おっしゃるとおり、氏真にしろ、糸にしろ、前回の田鶴にせよ、初めて描かれる人物造形が多いことなのでしょうね。
こんなに今川のエピソードにこだわるのなら、今川館だけのエピソードを1話作ってもよかったのに、とも思ってしまいます。
でも初回は「桶狭間」で、盛大に花火を打ち上げたかったんでしょうね。
何を描き、何を省略するか?
これはドラマの要諦だと思いますが、今作はあれもこれもと描きすぎている感じがするので、引き算が必要かもしれません。
あるいは何かの記事で『この作品はテンポの良さを売りにしている』という制作意図を読みましたが、テンポがギクシャクしているんですよね。
ただ、今回のTEPOさんやコウジさんのお話から考えたのは、歴史物のエンタメを見るのに必要な「共通認識」なんですね。
時代劇では「ご存じナントカ」という表現があります。視聴する側に「予備知識」が求められるわけです。
この「ナントカ」の部分には、大権現でも孫の権中納言でも、何でも代入していいわけですが、単純に人物名を入れただけで、見た人の間に即座に共通認識が成立するのかという問題があります。
ヤンキーなお姉ちゃんから猛勉強して慶応に受かったというビリギャルさんですが、聖徳太子を「しょーとくタコ」と読んだという伝説があります。
ただ、これを笑えないと思うんですね。
今回の大河は「マニアは知っていても、一般視聴者は知らない」的な人たちが次々に登場していて、そのあたりで何かギクシャクしているんでしょうから。
かといって、毎週毎週20:44に印籠が出て、悪人たちがひれ伏すだけでもつまらないわけで…
いや、一応テレビドラマなので「予備知識」がなくてもわかるようには作られています。
TEPOさんと話しているのは、回想で説明をしているので初めて知る情報が多かったということです。
2020-08-15 21:07:49さん
この作品を見ないのは構いませんが、出来れば作品を見た上で、あれが面白かった、これがつまらなかったと語り合えると嬉しいです。
あるいは作品を見ていなくても、今回、僕がテーマにした『人生の重荷を降ろすこと』について、あなたがどう考えるか、について書いていただけると嬉しいです。
その方が有意義な対話ができると思うので……。
副題のとおり始皇帝の母李皓鑭(コウラン)が主人公ですが、彼女がくぐり抜けてきた宮廷権力闘争での策謀と罠との悪辣さと残忍さとは桁外れで、韓国時代劇の悪役たちが善良に見えるほどでした。
この作品で印象的だったのは、主人公皓鑭との闘争に敗北して全てを失い、死を待つばかりの宿敵「雅王女」と皓鑭とが酒を酌み交わす場面でした。
二人はあたかも無二の親友であるかのように語り合い、皓鑭のかつての敵ですでに世を去った趙の「厲王妃」、韓の「瓊華王女」―二人とも凄まじい「悪女」でした―を称える杯を挙げていました。
雅王女が「全てを失った」―人生の重荷を降ろさせられた―ことによって一種透明な境地に立ったからこそ宿敵同士が最大の理解者となり、亡き敵も死者なるがゆえに理解と尊敬の対象となるという逆説が見られました。
まあ、雅王女は自分が流した「血」―犯した悪行―には苦しんでいましたが。
他方、氏真は「全てを失った(人生を降りた)」わけではありません。
「余はなにひとつ事をなせなかった。しかし、妻ひとりを幸せにすることはできるかもしれん。」
改めて、これは素晴らしい言葉だと思います。
この瞬間、氏真は「戦国大名」としての「荷」は降ろしたものの、「妻(糸=「早川殿」)ひとり」という身の丈に合った新たな「荷」に背負い変えたんですね。
しかも、本作の演出ではそれまではあまり愛していなかった妻だったにもかかわらず!
史実の氏真は、その後父の仇である信長の前で蹴鞠を披露したり、主従逆転の形で何度も家康の庇護を求めたりするわけですが、このことについても「妻を愛するがゆえに耐えたのだろう」とする解説をネット上で見ました。
氏真は77歳の年、2年前に世を去った早川殿の「後を追うように」生涯を閉じたとのこと。
「新たに背負った荷」を見事に担いきったわけです。
氏真夫妻嫡流の子孫は江戸幕府の「高家」となり、また夫妻の娘も吉良家に嫁ぎ、その子孫から、かの吉良上野介義央が出たそうです。
>雅王女の「透明な境地」
僕はこれに憧れます。
今後の人生は、もはや求めるのではなく、「透明な境地」に向かって逆算していきたいと考えています。
それを考える意味で『コウラン伝』を見てみます。
同じく僕は今回、荷を降ろした氏真に共感します。
田鶴さんも同じ道を歩んでいたらよかったのに、とも考えてしまいます。
おっしゃるとおり、氏真は糸という荷を背負っているんですよね。
でも、それは氏真の「身の丈に合った荷」。
同時に糸も氏真という「荷」を背負っているので、ふたりの「荷」は案外、軽いものだったかもしれません。
>信長の前での蹴鞠披露→妻を愛するがゆえに耐えたのだろう
この深掘り、すごいですね。
氏真の気持ちが伝わって来ます。
>2年前に世を去った早川殿の「後を追うように」生涯を閉じた
これもドラマですね。
吉良のくだりもドラマになりそう。
こういう補完、有り難いです。
玉石混淆のネット世界ですが、こういう深読みをする人がいるんですね。
おかげで氏真という人物がますます好きになりました。
う~ん…
大河嫌いを強調しすぎたかなと、ちょっと反省しています、すみません。
ただ、なぜわたしがNHK大河を見なくなったのか、ここ2~3日考えたのも事実です。自分の中でも整理しきれずに、モヤモヤしていたのも確かです。
恥ずかしながら、その原因らしきものがやっと分かりかけてきました…
もう10年くらい前になるでしょうか。清盛が主人公だった回がありました。
エンタメではない歴史学の視点で言うと「清盛は中国との貿易で利益を出そうとした実利主義者で、実はグローバル経済主義の先駆者だった」とベタ褒めする学者もいます。題材としてはかなり興味深いものでした。
ところが、兵庫県のエラい政治家が「画面が汚らしい、カッコよくない、絢爛豪華ではない。あんなに汚いのでは兵庫の魅力を宣伝できない、観光客も来ない!」といった理由で、NHKに抗議していました…
観光客が来る来ないは副次的なもので、地元自治体が「観光客を呼ぶために放送内容にあれこれ注文をつける」なんて、おかしなことです。
まあ、それまでも水面下では多分あったんでしょうが、表だって抗議なんて、やってはいけないはずです。正直がっかりでした。
わたしも、篤姫とか功名が辻あたりまでは、毎週楽しみに見ていました。見逃したら残念と思いました。
でも、この清盛あたりから、見逃しても「残念」という感じがしなくなりました。そして、いつの間にか大河そのものを見なくなりました。
>兵庫県のエラい政治家が「観光客も来ない!」といった理由で、NHKに抗議していました…
これは政治家の問題で、大河の問題ではない気がします。
実際、その政治家の意見で「清盛」の内容が変更されませんでしたし。
大河で観光客を呼び込もうとするのはしょうがないと思います。
みんな、経済活動をして生きていかなくてはいけないので。
それに、僕は「家康」を見て、田鶴を祀った『椿姫観音』と瀬名の墓所「月窟廟」のある浜松に行ってみたいと思いました。
『鎌倉殿の13人』の時は鎌倉に行きました。
大河ドラマを通して、地元と視聴者が繋がることもあるんです。
2020-08-15 21:07:49さん
見るのが「苦痛」なら仕方がないのですが、可能ならば「家康」を見た上で、コメントのやりとりが出来たら嬉しいです。
というのは、見ていないと「共通認識を構築する」所から始めなくてはいけないので。
たとえば「今川館の雪のシーン」と僕が書いても、見ている人と見ていないとでは浮かぶイメージが違いますでしょう?
「共通認識」のない所で、やりとりをしても薄っぺらで的外れな話になってしまうと思うんです。
>これは政治家の問題で、大河の問題ではない気がします。
>実際、その政治家の意見で「清盛」の内容が変更されませんでしたし。
本当に大河の内容が変更されていなかったんでしょうか?
予算が国会に握られているNHKが、本当に政治家の皆さんに忖度(すんど)しなかったんでしょうか?
あのときのNHKは、けっこう動揺してオロオロしていたと思いますけど…
(まあ、忖度の有無こそ悪魔の証明なので、これについてはこれ以上言わないことにします…)
ただ、あのころって、民主党の野田総理が迷走していたころで、その後の自民党政権(安倍さんの2回目の政権)につながるわけで、政治も経済も官界も、あらゆるところでグラグラ揺れていたと思います。
ところで、ミラクルヤンも言っていました。
「政治家が賄賂を取ることが腐敗なのではない。それを批判できなくなることが腐敗なのだ」と…
わたしは、その結果が何年かあとに出たと思っています。
「幕末男子の育て方…」
って、唖然としました…
確かに吉田松陰と長州を扱った「花燃ゆ」の時は安倍氏の意向があったのではないか、という話はありました。
でも、それ以外の大河はどうなんでしょう?
「悪魔の証明」をあげるまでもなく、2020さんはその後も大河ドラマを見ていないので、これ以上は語れませんよね。
ずっと見ている僕は、政治家の影響はない、と思っています。
そもそも三谷幸喜、中園ミホ、宮藤官九郎、藤本有紀といった脚本家に失礼です。
…………………………
サブスクの話題の時も思いましたが、
2020さんは自分で自分の世界を狭くしている気がします。
一歩踏み込めば、新しい世界が見えてくるのに。
僕とあなたの大きな違いはここですね。