先日、共謀罪に関する法律が施行された。
この法律の怖さは権力者が恣意的に運用できることである。
たとえば、あいつらはテロを企んでいる。よし、調べてやろう、と権力者が決めつければ、いくらでも監視・捜査ができる。
権力者にとって都合の悪い人たちを葬り去るのに使われるかもしれない。
そんなことはないと言う人がいるかもしれないが、権力とはそういうものだ。
権力は腐り、暴走する。
現に安倍首相は、お友達のために学校設立の優遇をし、それがバレそうになると、権力を使い、あるべき書類がなかったことにして、揉み消そうとしている。
………………
ナチス政権下に生きたニーメラー牧師という方が、こんな詩を書いている。
『ニーメラー牧師の詩』
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった
このニーメラー牧師の詩は歴史の教訓だ。
手遅れになってからでは、簡単に回復できない。
さて、この詩にたいして僕たちは何を感じ、何を考えるか?
この法律の怖さは権力者が恣意的に運用できることである。
たとえば、あいつらはテロを企んでいる。よし、調べてやろう、と権力者が決めつければ、いくらでも監視・捜査ができる。
権力者にとって都合の悪い人たちを葬り去るのに使われるかもしれない。
そんなことはないと言う人がいるかもしれないが、権力とはそういうものだ。
権力は腐り、暴走する。
現に安倍首相は、お友達のために学校設立の優遇をし、それがバレそうになると、権力を使い、あるべき書類がなかったことにして、揉み消そうとしている。
………………
ナチス政権下に生きたニーメラー牧師という方が、こんな詩を書いている。
『ニーメラー牧師の詩』
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった
このニーメラー牧師の詩は歴史の教訓だ。
手遅れになってからでは、簡単に回復できない。
さて、この詩にたいして僕たちは何を感じ、何を考えるか?
>当時のドイツは第1次世界大戦の敗北による喪失感と多額の賠償金に世界恐慌の波が押し寄せてましたから、ドイツ国民の精神も現代では考えられないくらい荒んでたとは思いますが
ドイツ国民がヒトラーを支持した理由はこれなんでしょうね。
あとはユダヤ人という敵をつくり、アーリア人の優越という幻想をつくった。
これを現代の日本に当てはめれば、中韓を敵にすることと、「日本はすごい」「日本は正しかった」という言葉でしょうか。
昔のテレビ番組は、韓流ブームであり、『ここが変だよ、ニッポン人』だったんですけどね。
時代の空気は一気に変わりましたね。
このまま安倍政権が続くと、これがもっと深刻になりそうですね。
「ドイツのワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法 に変わっていた。誰も気が付かなかった。あの手口に学んだらどうか」
言っていましたね。
彼らにとっては、議論をし、議会の2/3の議席をとり、国民投票で1/2を集めなくては憲法改正が出来ない民主主義の手続きが面倒くさくてしょうがないんでしょうね。
だから、書類も破棄するし、強行採決もしてしまう。
国民も鈍感になっていましたよね。
以前なら政権が吹っ飛んでいてもおかしくない発言。
稲田大臣の「自衛隊としてお願いする」発言で、さすがにまずいと気づいたようですが、民主主義って国民が権力をチェックし、批判するなどして、不断の努力で維持していくものなんですよね。
確かにヒトラーに、底知れぬカリスマや演説力があったこともナチスの原動力の一つになったとは思いますが、一人で吠えているだけでは政権を握ることは不可能ですし、結局は彼の美辞麗句に酔いしれ、後先考えずに彼に票を入れた人々がいたことが、結局の原因なんでしょうね・・・
(まあ当時のドイツは第1次世界大戦の敗北による喪失感と多額の賠償金に世界恐慌の波が押し寄せてましたから、ドイツ国民の精神も現代では考えられないくらい荒んでたとは思いますが)
このことがはたして現代の日本では、対岸の火事といえるのか、歴史は繰り返してしまうのか・・・・・
やつらの本心って本当に恐ろしいものがあり、悪魔的でさえあります。
でもやつらはそれを殊更隠すわけでもなく、このような麻生の過激な発言にしてもちゃんと記事になって国民の目には触れているわけです。
ですからニーメラー牧師の詩のメッセージから思うのは、国民にも半分くらいは責任があるということなんでしょうね。