「秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる……
もはや、その季節じゃ。夏は終わった、わしの夏は……」
人生の秋を感じ、悲嘆に暮れる将軍・足利義輝(向井理)。
まあ、秋は秋で美しいんですけどね。
義輝には秋の美しさが目に入らない様子。
「誰か、ある?」と叫んでも誰もいないのが哀しい。
そんな中、光秀(長谷川博己)と心を通じ合えたのは唯一の救いだった。
一方、信長(染谷将太)や松永久秀(吉田鋼太郎)は、春や夏を謳歌している。
信長は美濃攻めで忙しい。
木下藤吉郎(佐々木蔵之介)という家臣もできた。
久秀は次の将軍選びで暗躍。
いはく、
「物はもともと価値があるわけではない。物の値打ちは人がつくるものじゃ。
将軍の値打ちもそうじゃ。
人が決める。人がつくっていくのだ。
人が相応しいと思えば値打ちが上がり、相応しくないと思えば値打ちが下がる」
余談だが、
信長ら戦国武将は勲功のあった家臣に与える領地が足りないから、茶器を価値あるものにして領地の代わりに渡したとか。
家臣は茶器など腹の足しにもならないのに有り難かった。
現代でもブランド品のバッグなどが有り難がられているが、ブランドに興味のない僕にはただのカバンにしか見えない。
………………
さて光秀。
そんな秋(=義輝)と夏(=信長・久秀)の間にあって迷い始めた。
朝倉義景(ユースケ・サンタマリア)の言葉を引用して、
「殿は言った。
国の外に振りまわされるな。
野心を持たず、この国にじっとしておれ。
妻や子供、自分の家が一番いいのだ、と。
先程、家の庭に立った時、そうやもしれんと思った」
光秀は将軍・義輝を見て、諸行無常──世の営みの虚しさを感じたのだろう。
義輝に殉じて、このまま世に出ず、静かに暮らそうと思ったのかもしれない。
しかし、妻・熙子(木村文乃)は、
「そう思っていただいて、うれしうございます。
ただ美濃では織田様と齋藤様が激しくいくさの最中でございます。
今こうしていても、いくさで誰かが命を落としている。
そう考えると、つろうございます。
どの国からもいくさがなくなれば……そう思うのです」
人生の秋は、光秀にはまだ先のようだ。
夏は「麒麟がくる国」の実現をめざして戦う日々。
ドロドロでハードな時期。
とは言え、光秀の雌伏期はまだ続く。
※追記
ひとり忘れていました!
駒ちゃん(門脇麦)は「春の時期」を生きてますね。
いろいろなものを見聞きして吸収している感じ。
世の中の見方が素直。
オトナ・東庵先生のオモテとウラにも無頓着。
今度は商売を始めるようだし、彼女には無限の可能性がある。
もはや、その季節じゃ。夏は終わった、わしの夏は……」
人生の秋を感じ、悲嘆に暮れる将軍・足利義輝(向井理)。
まあ、秋は秋で美しいんですけどね。
義輝には秋の美しさが目に入らない様子。
「誰か、ある?」と叫んでも誰もいないのが哀しい。
そんな中、光秀(長谷川博己)と心を通じ合えたのは唯一の救いだった。
一方、信長(染谷将太)や松永久秀(吉田鋼太郎)は、春や夏を謳歌している。
信長は美濃攻めで忙しい。
木下藤吉郎(佐々木蔵之介)という家臣もできた。
久秀は次の将軍選びで暗躍。
いはく、
「物はもともと価値があるわけではない。物の値打ちは人がつくるものじゃ。
将軍の値打ちもそうじゃ。
人が決める。人がつくっていくのだ。
人が相応しいと思えば値打ちが上がり、相応しくないと思えば値打ちが下がる」
余談だが、
信長ら戦国武将は勲功のあった家臣に与える領地が足りないから、茶器を価値あるものにして領地の代わりに渡したとか。
家臣は茶器など腹の足しにもならないのに有り難かった。
現代でもブランド品のバッグなどが有り難がられているが、ブランドに興味のない僕にはただのカバンにしか見えない。
………………
さて光秀。
そんな秋(=義輝)と夏(=信長・久秀)の間にあって迷い始めた。
朝倉義景(ユースケ・サンタマリア)の言葉を引用して、
「殿は言った。
国の外に振りまわされるな。
野心を持たず、この国にじっとしておれ。
妻や子供、自分の家が一番いいのだ、と。
先程、家の庭に立った時、そうやもしれんと思った」
光秀は将軍・義輝を見て、諸行無常──世の営みの虚しさを感じたのだろう。
義輝に殉じて、このまま世に出ず、静かに暮らそうと思ったのかもしれない。
しかし、妻・熙子(木村文乃)は、
「そう思っていただいて、うれしうございます。
ただ美濃では織田様と齋藤様が激しくいくさの最中でございます。
今こうしていても、いくさで誰かが命を落としている。
そう考えると、つろうございます。
どの国からもいくさがなくなれば……そう思うのです」
人生の秋は、光秀にはまだ先のようだ。
夏は「麒麟がくる国」の実現をめざして戦う日々。
ドロドロでハードな時期。
とは言え、光秀の雌伏期はまだ続く。
※追記
ひとり忘れていました!
駒ちゃん(門脇麦)は「春の時期」を生きてますね。
いろいろなものを見聞きして吸収している感じ。
世の中の見方が素直。
オトナ・東庵先生のオモテとウラにも無頓着。
今度は商売を始めるようだし、彼女には無限の可能性がある。
その年の主役の戦国武将や幕末の英雄は、必ず「善玉」で「正義の味方」なので、どうも白々しく感じられます。
莫大な金額の「皆様の受信料」を投入して作られた「正義の味方の物語」が、実のところ、何十年も前につくられた、ウルトラセブンの「ノンマルトの使者」未満なんです。
「架空の人物と架空の物語と大河ドラマ」といった感じに読み替えてください。
私は「無力感」が全体的なトーンとなっていた回だったと思います。
無論、将軍義輝は「秋」真っ只中。しかし、
最近の松永久秀像では将軍弑逆には消極的だったとの見方が強く、本作もその線でゆくのでしょうが、だとすると自身の息子を含む三好家中の若い世代を抑えるには無力だったということ。
美濃攻めで忙しい信長は、将軍をかつぐための上洛を考える(「天下」への野心をもつ)にはまだ無力だったということ。
覚慶こと後の足利義昭も、自分の目の前の人たちにしか施しが出来ない無力さを自覚していた。
先週は偉そうに「医の倫理」を説いていた東庵先生も、盗賊に家財を奪われてしまえば金銭の前に無力で節操も棄てる。
光秀自身、朝倉義景に仕官せず浪人を貫いたのは、やがて世に出るための自由を確保するためだったのでしょうが、結局家族は義景の援助に頼らざるを得なかったわけで、やはり「無力感」真っ只中。
そろそろ光秀の「ラッキーマン」時代は終わりでドラマとしては転換期なのかもしれません。
覚慶は駒に興味を持ち始めたようですが、駒の方も「ラッキーガール」は少しお休み?
いつもありがとうございます。
僕は「フィクションの功罪」ということを考えてしまいます。
「効」は「正義」や「善」を信じようと思えるようになること。
そうでないと、現実はきつ過ぎます。
「罪」は、おっしゃるとおり、人物の美化・時代の美化・権力者のヒーロー化→政治イデオロギー化に繋がること。
これは戦国時代ならまだ害はないのですが、明治とかになると現代に影響してくる。
大河ドラマ「花燃ゆ」は安倍晋三氏の意向で急遽、製作が決定した作品と言われていますが、明治美化、吉田松陰美化の作品でした。
一方、大河ドラマには、信長をヒーローとして描く作品もあれば、魔王として描く作品もあり、家康を平和をもたらした者と描く作品もあれば、極悪人と描く作品もあり、多様性に富んでいます。
とは言え、前述のとおり、大河ドラマは戦国時代までを描いておく方が無難ですよね。
いつもありがとうございます。
「無力感」での括りいいですね。
義輝は無力。
光秀も無力。
無力さゆえ、繋がるふたり。
東庵先生は暴力の前に無力でしたが、方針転換をして商売を考えるあたり、したたかor柔軟ですよね(笑)
義輝には、東庵先生とは立場が違いますが、こうした柔軟さがない。
光秀も頭が堅い。
久秀は確かに「秋」に差し掛かっていますよね。
「夏」を生きる息子や家臣に押されつつある。
義輝の気持ちもわかるから、つらい立場。
ここで現代に目を転じると、自民党の重鎮たちは元気がいいですよね。
いまだに「夏」を生きていて、権力闘争に明け暮れている。
僕などは「秋」に生きているので、彼らの凄まじさに圧倒されてしまいます。
今回の作者池端俊策氏が「太平記」の作者でもあったことは、ここでもしばしば話題に上っていました。
私は最初「太平記」と聞いて、後醍醐天皇、護良親王、楠木正成、新田義貞が「善玉」で、足利尊氏は「悪玉」の「右派物語」かと思っていました。
しかし、蓋を開けてみるとその足利尊氏が主役で、結構よく描けていたと記憶しています。
特に印象的だったのは、「憎たらしい勝者」のイメージとは正反対に、弟や息子との確執に悩み、最後まで落ち着くことなく戦い続けていたというリアリズムでした。
今回、史実の制約の中で信長・秀吉視点から定着した光秀のイメージをどこまで払拭できるのかが池端氏の挑戦だと思います。
あと、制作者の意図とは裏腹かもしれませんが、政権におもねった作品が必ず失敗しているのも妙味ですね。
>「花燃ゆ」は安倍晋三氏の意向で急遽、製作が決定した作品と言われていますが、明治美化、吉田松陰美化の作品でした。
私はこの作品で吉田松陰が美化されたとは思っていません。
放送当時も書いたと思いますが、松陰は神社にまで祀られて「何となく偉人」とされていますが、「具体的に描いてはいけない人」でした。
描けば「狂信的極右テロリストの指導者」以外の何者でもないことが明らかになり、制作者の意図の如何を問わず「偶像破壊」につながるからです。
ちなみに、この作品で松陰を演じた伊勢谷友介氏が大麻で逮捕されましたが、氏はSNSで政権批判の書き込みをしていたとも聞いています。
「いだてん」は、作者宮藤官九郎氏の意図がどこにあってにせよ、また、コウジさんの評価は異なるかもしれませんが、私は明確に失敗作だったと思います。
水戸黄門のような昭和の大衆娯楽時代劇でも、ナントカ藩のワル家老の不正に憤る正義の藩士はいつも「イケメン俳優」が演じます。大河もそれを踏襲しているような気がしますね。
つまり「大河でその年の主役を演じる俳優は、ブサメンや悪役面ではいけない」といった様式が生じているように思っています。
そうなると、大河ドラマも水戸黄門も「外見上は」相似形だと思います。意外に多様性なんてないと思ってます。
「太平記」はうろ覚えなのですが、足利尊氏は深く描き込まれていたんですね。
こういう作家独自の視点で人物が描かれると、作品は楽しくなりますよね。
「花燃ゆ」の吉田松陰は確かに「狂信的なテロリストの指導者」でしたね。
安倍氏が吉田松陰を尊敬しているようなので、誤読しました。
「花神」の松陰の方が、司馬遼太郎が思い入れを込めて書いた分、良い感じで描かれていた印象があります。
「いだてん」は明治~昭和のスポーツに携わっていた人々を描くと、ああなるんでしょうね。
あの時代の人々をどう捉えるかは、見る者に委ねられている。
作劇的には人物を散りばめ過ぎましたね。
女性のヒロインの視点で繋いでいった方がよかった気がしますし、今から思うと、志ん生パートは要らなかった。
主人公がイケメン。
これはテレビの限界でしょうね。
おっしゃるとおり、大衆娯楽自体がそういう要求をされる。
大河ドラマの悪役の主人公で思い浮かぶのは、「清盛」です。
清盛は「遊びをせんとや生まれけむ。戯れせんとや生まれけむ」をテーマにしています。
あまり視聴率は獲れませんでしたが、マニアの間では高い評価を受けています。
あと「いだてん」は阿部サダヲさんが二番目の主役なのですが、あまりイケメンではありません(笑)
一番目の主役は中村勘九郎さんなのですが、真っ裸になって冷水をかぶり、ひぇぇっ! と叫びます(笑)
「いだてん」の主人公ふたりは、オリンピックでメダルを獲れませんでしたし、いわゆる正義のヒーローではありませんでした。
視聴率は低空飛行でしたが。
「清盛」「いだてん」の視聴率がイマイチだったことを考えると、テレビにとって「外形上」のことは重要なんでしょうね。
例示くださった清盛やいだてんについて、拝見しました。
平成初めの「トレンディドラマ」ブームの時は、それこそ美男美女ばかりが出てきたわけですが「現実社会にそんな美男美女ばっかりいねえよ」といったツッコミもありました。
ただ、令和の今「外見を重んじるテレビの限界」について、昔ほど指摘されないような気がします。世の中不景気ですし「夢を見たいからテレビを見るのに、そんなことツッコまないでくれ」という気持ちも分かります。
ただ、今、ネットで人気がある政治家って、イケメンが多いような気がします。
イケメンが悪いとは言いませんが、イケメンだと優秀に見えてしまう可能性もあるのかなと、ちょっと考えました。