国際政治学者を名乗る三浦瑠麗氏。
相変わらず、言葉が長くて何を言ってるのか、わからない。
たとえば、これ。
テレビ番組に出て「大喪(たいそう)の礼」を「たいものれい」と読み間違えて総ツッコミをされた発言。
「日本で少し私が憂慮するのは、天皇陛下の国葬は当然だと、これはもう“たいもの礼”だと。
天皇陛下という方は国民のために祈っていただいている、本当にプライバシーを自己犠牲している。
だから権威は認めるけど、民主主義で選んだ総理大臣に対して、毀誉褒貶もあろうだけれども、政治はダメってのは民主的にはおかしいと思っているんです」
長々といろいろ語っているが、要するに三浦瑠麗氏が言いたいのは──
「天皇陛下が国葬になるのは当然だが、総理大臣がならないというのはおかしい」
ってことだろう。
もっと簡潔に語ろうよ。
まあ、これはテレビのナマ放送だし、会話だし、
言葉が過剰になったり、文法的に間違ってしまうのは、ある程度仕方がない。
ではツイッターではどうか?
『わたしは投票に加え、物事を言葉にして考え、対話することを通じた政治参加を広めたいと思っています。
暴力でないと国や社会を変えられないんだと教える教師もいるのでしょうが、それは正しくないばかりか、他の人々の権利や幸せまでをも奪う考え方です。
非常に危険な思想であると言わざるを得ません』
長々といろいろ語っているが、要するに言いたいのは──
「議論や投票によって政治に参加しよう。暴力で世の中を変えようとするのは間違い」
ってことだろう。
ツィートする前に推敲しないのかね?
言葉を簡潔にすると、内容がスッカラカンなのがわかってしまうから、わざと長くしているのかね?
そして、この発言には前提で大きな間違いがある。
『暴力でないと国や社会を変えられないんだと教える教師もいる』
はあ? そんな教師どこにいるんだ?
具体的な名前を出して教えてほしいものだ。
前提の間違いはこんなツィートにも。
『女王が亡くなったときの国葬と、国に功績があった方の国葬では、英国でも国内の受け止めや儀式の厳かさは当然違う。
そんなことは当たり前だが、戦後日本は国として人を悼むことを考えてこなかったので戦後日本は国として人を悼むことを考えてこなかったので参照地点を海外に求めがち
『戦後日本は国として人を悼むことを考えてこなかった』
いやいや、広島・長崎、終戦記念日には毎年、国として悼んでいるのだが……。
沖縄でもそうだ。
3・11でもそうだ。
だから三浦瑠麗氏の前提は間違い。
学者なのにどうしてこうした間違った前提でモノを語るのかな?
……………………………………………
作品、政治、道徳をゴッチャにして語る傾向もある。
山上徹也をモデルにした映画が製作され、上映されることに対して、
『山上をモデルにした映画についての朝日新聞の取材記事を読みました。
殺された人と遺族の思いには寄り添わず、殺した人の思いにばかり寄り添ってきたのが、この夏の日本でした。
正義感がもたらす破壊願望ゆえなのか、自分より恵まれていると考える人には共感を寄せられないからなのかはわかりません』
三浦瑠麗氏は山上徹也の映画が作られることが不謹慎だと言っているのだが、
そもそも作品って不道徳で不謹慎なものですから。
作家というのは、山上徹也の心の闇に迫りたい、描きたいと考える人種ですから。
三浦瑠麗氏は小説とかを読んで来なかったのかね?
作品とは何か? 芸術とは何か? がまったくわかっていない。
作品と政治・道徳をゴッチャにして語っている。
………………………………
ここからは推測だが、
三浦瑠麗氏はひろゆき氏の登場で焦っているのだろう。
ひろゆき氏は物事を簡潔にわかりやすく語る。
その発言はわりと鋭く的確だ。
一方、三浦瑠麗氏は長くて何を言ってるのかわからない。
結果、テレビなどのニーズはひろゆき氏に向かう。
結果、自分の居場所を確保するために、安倍シンパが喜ぶ発言をし、第2の櫻井よしこになろうとしている?
さて、長くて何を言ってるのかわからない三浦文学はどこへ行く?
相変わらず、言葉が長くて何を言ってるのか、わからない。
たとえば、これ。
テレビ番組に出て「大喪(たいそう)の礼」を「たいものれい」と読み間違えて総ツッコミをされた発言。
「日本で少し私が憂慮するのは、天皇陛下の国葬は当然だと、これはもう“たいもの礼”だと。
天皇陛下という方は国民のために祈っていただいている、本当にプライバシーを自己犠牲している。
だから権威は認めるけど、民主主義で選んだ総理大臣に対して、毀誉褒貶もあろうだけれども、政治はダメってのは民主的にはおかしいと思っているんです」
長々といろいろ語っているが、要するに三浦瑠麗氏が言いたいのは──
「天皇陛下が国葬になるのは当然だが、総理大臣がならないというのはおかしい」
ってことだろう。
もっと簡潔に語ろうよ。
まあ、これはテレビのナマ放送だし、会話だし、
言葉が過剰になったり、文法的に間違ってしまうのは、ある程度仕方がない。
ではツイッターではどうか?
『わたしは投票に加え、物事を言葉にして考え、対話することを通じた政治参加を広めたいと思っています。
暴力でないと国や社会を変えられないんだと教える教師もいるのでしょうが、それは正しくないばかりか、他の人々の権利や幸せまでをも奪う考え方です。
非常に危険な思想であると言わざるを得ません』
長々といろいろ語っているが、要するに言いたいのは──
「議論や投票によって政治に参加しよう。暴力で世の中を変えようとするのは間違い」
ってことだろう。
ツィートする前に推敲しないのかね?
言葉を簡潔にすると、内容がスッカラカンなのがわかってしまうから、わざと長くしているのかね?
そして、この発言には前提で大きな間違いがある。
『暴力でないと国や社会を変えられないんだと教える教師もいる』
はあ? そんな教師どこにいるんだ?
具体的な名前を出して教えてほしいものだ。
前提の間違いはこんなツィートにも。
『女王が亡くなったときの国葬と、国に功績があった方の国葬では、英国でも国内の受け止めや儀式の厳かさは当然違う。
そんなことは当たり前だが、戦後日本は国として人を悼むことを考えてこなかったので戦後日本は国として人を悼むことを考えてこなかったので参照地点を海外に求めがち
『戦後日本は国として人を悼むことを考えてこなかった』
いやいや、広島・長崎、終戦記念日には毎年、国として悼んでいるのだが……。
沖縄でもそうだ。
3・11でもそうだ。
だから三浦瑠麗氏の前提は間違い。
学者なのにどうしてこうした間違った前提でモノを語るのかな?
……………………………………………
作品、政治、道徳をゴッチャにして語る傾向もある。
山上徹也をモデルにした映画が製作され、上映されることに対して、
『山上をモデルにした映画についての朝日新聞の取材記事を読みました。
殺された人と遺族の思いには寄り添わず、殺した人の思いにばかり寄り添ってきたのが、この夏の日本でした。
正義感がもたらす破壊願望ゆえなのか、自分より恵まれていると考える人には共感を寄せられないからなのかはわかりません』
三浦瑠麗氏は山上徹也の映画が作られることが不謹慎だと言っているのだが、
そもそも作品って不道徳で不謹慎なものですから。
作家というのは、山上徹也の心の闇に迫りたい、描きたいと考える人種ですから。
三浦瑠麗氏は小説とかを読んで来なかったのかね?
作品とは何か? 芸術とは何か? がまったくわかっていない。
作品と政治・道徳をゴッチャにして語っている。
………………………………
ここからは推測だが、
三浦瑠麗氏はひろゆき氏の登場で焦っているのだろう。
ひろゆき氏は物事を簡潔にわかりやすく語る。
その発言はわりと鋭く的確だ。
一方、三浦瑠麗氏は長くて何を言ってるのかわからない。
結果、テレビなどのニーズはひろゆき氏に向かう。
結果、自分の居場所を確保するために、安倍シンパが喜ぶ発言をし、第2の櫻井よしこになろうとしている?
さて、長くて何を言ってるのかわからない三浦文学はどこへ行く?
これまでの三浦氏の論法(常套手段)は……
「事実や正しいと思われる理屈を並べ、声高に早口に主張する」というモノ。
事実や正しそうな理屈を最初に言うことで、後に続く主張が正しいように思えますが、(それぞれの事実や理屈が間違っていなくても)それらをつなぎ合わせる道筋を歪めて、自分の主張に強引に持っていくことが多いです。
それから、いくつかの事実を並べることで、聞き手の思考が分散されます。つまり、何を言っているのか分からない状態となり、反論しにくい。
それに、勝ち誇った顔で主張するので、こちらが間違えているような気にさえなります。
《自分の主張はすべて正しい》という口調ですが、説得力を持たせる手段(もしかしたら間違えているかもしれないが、敢えて自信たっぷりに言う)なのか、本当に自分が正しいと信じて疑わないのか……どちらなのでしょう?
……最近の三浦氏は、前提にする事実も歪めているのですね。
記事の作成お疲れ様です
英さんのおっしゃる通り三浦氏とは何時も自分の主張が一番正しいと言う
口調で語りますね。ただ屁理屈にしか聞こえませんが‥
自信過剰で実に嫌な方だ
単に此の方 ネトウヨ思考なだけに感じます。
単純明快に語れば 「総理の国葬は当然よ」 なのが正解ですね。三浦瑠璃氏の
真実、右派系政治評論家
いつもありがとうございます。
>いくつかの事実を並べることで、聞き手の思考が分散されます。
これが「三浦論法」なんですよね。
でも、よく聞いてみると、別にたいしたことは言っていない。
言葉のデコレーションで立派に見えているだけ。
要は薄っぺらなんですよね。
>説得力を持たせる手段なのか、本当に自分が正しいと信じて疑わないのか
過剰な言葉のデコレーションは自信のなさの現われなんでしょうね。
たとえば、三浦氏が言いたかった
「天皇陛下が国葬になるのは当然だが、総理大臣がならないというのはおかしい」
これだけだと立派に見えませんし、法律専門家からはいろいろツッコミをされそう。
ひろゆき氏や鈴木エイトさんのコメントは簡潔ですが、彼らの登場で「三浦論法」のインチキに皆が気づいたような気がします。
いつもありがとうございます。
>此の方 ネトウヨ思考なだけに感じます。
最近、この傾向が強くなって来ましたね。
以前は中立っぽく装っていましたが、今は完全に安倍さん擁護を隠さない。
さてさて三浦氏はどこに行くのやら。
安倍氏が亡くなったことで、いろいろな所でメッキが剥げてきましたね。
という三浦の日本語、正しくは祈られているでは?
あるいは国民は天皇陛下に祈っていただいている、では?
祈っていただいてる、祈ってもらってるのは国民なんだから主語が天皇陛下の場合は祈られている、だと思うんですよ。
三浦瑠璃の懸賞論文とか読むと、てにをは、が間違えまくっていたり、ここに指摘したような主語と述語の関係の文法的破綻が大量にあって意味不明で全く読めないんですよね。
このかた、何言ってるか分からないと有名ですが、そもそも日本語の文法が間違えているから意味が分からないのでは?
コメントありがとうございます。
僕も、てにをはが怪しいので人の事は言えないのですが、言われてみると確かにおかしいですよね。
おっしゃるとおり、主語は国民の方がすっきりします。
三浦瑠麗さんの言葉の欠陥は、文法の問題と共に長さですよね。
長文の方が効果的な場合もありますが、
基本、文章は短い方が伝わりやすい。
要は、三浦さんは相手に伝えようという意思が足りないのかもしれません。
あるいは、もっと踏み込んで言うと、「傲慢」なのか?