平成筑豊鉄道田川線他の平成筑豊鉄道各線には05年1月2日に乗車している。正月早々の九州遠征で、元旦の夜にムーンライト九州で大阪を発ち、早朝から原田線などに乗車して、鹿児島線、日豊線経由で行橋まで出て田川線の乗り潰しに取り掛かった。原田線に乗車した時に沿線が雪化粧していることに気づき、北九州が案外雪がよく積もることを実感していたが、行橋付近でも雪が見られたことには驚いた。温暖な印象が強い九州のはずが…04年末に遠征した際も雪こそ降らなかったものの、物凄い風で寒かったこともあり、福岡の冬は寒いという印象を強く持っている。田川線は立派な高架駅の行橋駅の隅っこから発着していた。フリー切符の類がなかったので、改札口で切符を購入して列車に乗り込む。私は後かぶりつきで田川後藤寺まで立ちっぱなしだったが、車内は正月早々にしては結構な乗りだった。正月早々高校生が部活帰りか何かで乗車していることには驚かされる。ローカル線に乗れば冬休みであろうが、夏休みであろうが、高校生が乗っているので、この子たちには休みがないのだろうかといつも思ってしまう。雪景色の中の道中はのんびりとしており、行橋付近では炭鉱路線のイメージもあまり強くなかった。利用者はさほど多くないものの、まずまずの利用率にも思え、地域の足としてはとりあえず成り立っている印象は受ける。しかし、周辺状況は決して楽なものでもなく、油断をすれば廃線の憂き目に遭いそうな路線ではあった。
指宿枕崎線は長らく日本最南端を走る鉄道として有名だったが、沖縄モノレールが開業して、最南端はそちらに譲ってしまった。それでも通常軌道の鉄道としては最南端を走る路線であることには違いない。同線には02年夏の九州遠征で初めて乗車している。九州には学生時代だけでも2回ほど遠征していたが、全ての路線に乗ることはできず、指宿枕崎線も懸案事項として残したまま社会人になってしまった。社会人になってからしばらくは乗り潰し趣味などはしなくなっていたが、いつの間にやら火が付いて、今のうちに乗り潰しておかなければという急いた気持ちになって乗り潰し活動を再開した。その第1弾とも言うべき九州遠征で指宿枕崎線を漸く乗り潰すことができた。暑い九州なのに、非冷房の気動車が走っており、終始窓を開けて暑さを文字通り凌ぐという感じの道中で、頭がぼーっとして眠ることもできず、ただただぼんやりと車窓を眺めるだけの道中だった。当時はまだ日本最南端の駅を誇っていた西大山の駅や記念碑?を車内から撮影して、開聞岳の優雅な姿を見ながら長い道中を終えて漸くという感じで終点の枕崎に着いた。かつては鹿児島交通が連絡していたが、広く荒れ果てた構内がその面影を残すだけで、鹿児島交通の遺構のようなものは見当たらなかった。折り返し時間はそれなりにあったが、それを逃すと気が遠くなるほど何時間も列車がないので、乗り遅れないように構内で待ち時間を過ごしてすぐに折り返した。帰りは山川から“黄色い快速”に乗って、行きとは違う快適な道中を過ごして鹿児島まで戻った。
次に指宿枕崎線を訪れたのは05年8月28日の南九州遠征の時で、前日に日豊本線を普通列車で南下して鹿児島中央に着いて、1泊して翌朝一番列車で枕崎を目指した。8月末頃ということもあって夜明けの遅い南九州は朝の5時台ではまだ真っ暗で、途中まで道中は暗闇の中だった。西大山で降りて開聞岳をバックにした列車の撮影も考えたが、待ち時間があまりにも長いため断念して再び枕崎までの往復乗車となった。07年の九州遠征でも指宿枕崎線遠征を考えていたが、時刻表の読み違いと天候不良のため断念した。次回同線を訪れる機会があるなら是非とも開聞岳をバックに走る列車の撮影をしたいと思う。
04年7月24日に九州新幹線で鹿児島中央に着いた後は、日豊本線と肥薩線を乗り継いで人吉へ向かった。吉松で後続の特急はやとの風を撮影して、いさぶろう・しんぺいに乗って人吉まで行った。当時のいさぶろう・しんぺいは指定席にはキハ47改造車が使用されていたが、自由席車はキハ31系が連結されていた。指定券をケチったわけではないが、かぶりつきがしたかったので先頭のキハ31系に乗車した。人吉までののんびりした旅を楽しみ、人吉からは少し肥薩線を外れて第3セクターのくまがわ鉄道に乗る。人吉までは天気が良かったが、くま川鉄道に乗る頃には雲行きが怪しくなり、途中から大雨が降ってきた。駅舎が特徴的な終点湯前に着いて、次の列車で人吉へと折り返した。雨は止むことがなく、せっかくの道中が台無しだった。その日は人吉から肥薩線を辿って、宿を取っていた熊本まで行ったが、途中肥薩線の対向列車の遅れなどで、熊本到着が大幅に遅れたのを思い出す。八代までの肥薩線列車は乗客が少なく、交換駅で運転士さんにどこから来たのかと声をかけられ、しばし歓談して、九州の特急は大雨などで列車が遅れることが多いことなどを聞いたものだ。
九州新幹線には開業年の04年7月に乗車している。前年には787系つばめの惜別乗車のため、年末にドリームつばめ、つばめで博多~西鹿児島間を往復したが、それ以来の九州遠征で部分開業の九州新幹線を乗り潰した。ムーンライト九州で九州入りして、指定券が売り切れていたので、奮発してリレーつばめのグリーンに乗っていざ新八代へ。新八代にて新在の接続をじっくり見たいがために、接続列車を1本見送って、しばし新幹線と在来線の接続を見物。越後湯沢や米原あたりもこんな感じで接続できればいいのにと思いながら、真新しい真っ白な白いかもめに少し似た車体の800系の車内へと進んだ。座席は木のぬくもりを感じさせると言えば聞こえがいいが、少し重厚感に欠ける座席というイメージがした。簾風の日よけが物珍しくJR九州らしい凝った造りの車内だった。大半がトンネルばかりの道中はあっという間に過ぎて、すぐに終点の鹿児島中央へ到着。2面4線の設備は未来永劫必要なさそうな気がするが、立派なターミナル駅となっている同駅ではホームに柵があり新幹線車両の撮影もままならない。安全対策とはいえ、新幹線は鉄道ファンのみならず一般人でもカメラを向ける人が多い列車だ。もう少し撮影などを考慮した造りの安全対策を行って欲しいものだ。
JR香椎線には03年12月21日に乗車している。風がきつい寒い一日で、九州に来たとは思えない気候だった。九州は温暖な地域だけに車内暖房がゆるいのか?外に出ても列車に乗っても寒い状態で、寒さに震えながらの鉄活動になったのを思い出す。そんな中乗った香椎線は子供の頃に砂浜の中を走る写真を見ていたので、砂漠を走る路線というイメージがあった。写真で見ると確かに海の中道の砂浜を走っているように見えたが、実際乗ってみるとあまりその実感はなく、ちょっと砂っぽいかなという印象だけだった。想像が膨らみ過ぎて乗ってガッカリすることも多いが、香椎線の印象はまさにその通りだった。期待が大きいからそうなっただけで香椎線自体は観光路線というよりも都市近郊路線の印象が強く、電化されないのがおかしいぐらいという印象もあった。次回は乗るだけでなく、外から撮る方にもチャレンジしたいものだ。
JR博多南線には03年12月21日に乗車した。九州遠征のラストを飾る乗り潰しとして、博多南線に乗り、この後博多近辺で土産物を買って、地下鉄に乗って福岡空港へ行き、福岡空港からJALのバースデー割引を利用して飛行機で帰阪した。新幹線でも帰れたが、たまには飛行機に乗って新幹線と比較するのもいいものだ。
博多南線は在来線なので18きっぷでも乗れるのかと思っていたが、列車は特急列車扱いのため、18の使用は不可と思われる。このため、在来線改札をいったん出て、新幹線の切符売場で博多南までの切符を購入して新幹線ホームへ入場した。昼間でも毎時1本の運転があるので、乗るのにそんなに苦心はしない。早速0系こだまの回送を活用した博多南行きに乗車した。車内には私以外誰もおらず他の車両も1人か2人いるかどうかといったところで、余裕たっぷりに座席を倒して博多南線の道中を楽しんだ。普段見られない西鉄との交差などを楽しみほんの10分程度で終点博多南へ。将来九州新幹線の本線になる高架橋などが途切れていたり、博多総合車両所が広がり、ファンにはなかなか興味深い光景があちこちに広がっており、興味がある方は一度訪れてみるといい。駅はこじんまりとしており、自動改札もなく(今はあるのかな?)、次の折り返し列車に乗る直前まで改札は行われなかった。今は九州新幹線の建設で周囲は一変しているものと思われるが、私が訪れた当時はほんとに新幹線が走るのかなという状況だった。九州新幹線開業後も博多南線は残るようだが、260km/hで疾走する九州新幹線に混じってどのような走りをするのか興味深い。また、今後500系のこだま転用が予定されており、博多南線電車に500系の姿が見られる日も近いものと思われる。8両編成なので、博多南駅では500系の撮影ができるかどうかわからないが、500系博多南線が登場した際には一度乗りに行きたいものだ。
福岡市交箱崎線には2回乗車している。1度目は03年12月21日の九州遠征の時で、この時は九州新幹線開業前にお別れ乗車として鹿児島本線を2枚きっぷを使用してドリームつばめ、つばめで往復して、博多へ戻ってから、福岡県内の路線の乗り潰しをした。JR香椎線の乗り潰しをして、時間が余ったこともあり、箱崎線に乗って、西鉄宮地岳線にも少し乗った。2回目の乗車は前回中途半端に乗った宮地岳線の全線乗り潰しをするために、中洲川端から貝塚まで再度箱崎線に乗った。貝塚駅の構造を見る度に早く西鉄と相互直通ができればいいのにと思う。西鉄宮地岳線も西鉄新宮~津屋崎間が廃止され、スリムになり、地下鉄との直通が逆にしやすくなったように思う。西鉄貝塚線の今後を考えれば、地下鉄との直通により、福岡中心部へ乗り入れ活性化していくのがベストと思われる。福岡市交にとってもプラスになるはずだし、地下鉄側では大規模な改良はしなくてもよいように思う。是非とも実現して欲しいものだ。
JR唐津線は筑肥線などを乗り潰した03年12月20日に乗り潰している。筑肥線で唐津まで出て、唐津から佐賀まで唐津線に乗った。キハ47の2両編成だったと思うが、佐賀に近づくにつれて混雑していたのを思い出す。もっとも混雑してきたなというのは鍋島から佐賀までの長崎本線の中での話で唐津線内はそれほど乗っているという印象はなかった。途中長崎自動車道と交差するところがあり、立派な道路と貧弱な線路の対比が如何にもモータリゼーションの進行を表すようで興味深かった。唐津線乗り潰しの後は、佐賀で昼食を取って…というひまもなくおにぎりを買って長崎本線に乗り込み、帰宅の高校生で混み合う車内では何も食べられず、佐世保線に乗りついでから漸くおにぎりを頬張ることができた。
JR筑肥線には03年12月20日乗車している。朝からJR原田線の乗り潰しをして、桂川から電化後は初めての乗車となったJR篠栗線に乗って博多へ出て、博多でラーメンを食して体を暖めてからJR筑肥線の乗り潰しに挑んだ。博多から姪浜までは地下鉄なので18きっぷは使えないので、姪浜までの切符を買って姪浜からは18きっぷで筑肥線を乗り潰した。姪浜までは地下鉄車両の電車で、姪浜行きに乗り、姪浜で降りて、次に来た303系ではなく、その次の103系唐津行きに乗って唐津へ。確か快速からつライナーだったと思うが、快速とは思えぬ鈍足だった。筑肥線は虹ノ松原などが沿線に点在する案外風光明媚な路線で、都市近郊路線にしては景色のいい路線だった。
唐津でとりあえず下車して、唐津からは一旦筑肥線を離れ、唐津線~長崎本線~佐世保線~松浦鉄道と乗り継いで伊万里へ。伊万里から再び筑肥線に乗車して非電化区間の乗り潰しを行った。伊万里駅は松浦鉄道とは完全に分かれており、駅舎が対峙する形で配置され、松浦鉄道の方が規模が大きく、どちらがJRでどちらが3セクの鉄道かわからないほどだ。筑肥線気動車は朝乗った原田線と同じキハ125系で、レトロ気動車を使用した列車も走る松浦鉄道に対して、こちらもなんだか見劣りする感じだった。とはいえキハ125系も外装は派手な黄色で、内装もJR九州スタンダードとも言うべき内装が施され、一介のローカル気動車とは思えない車両ではあった。筑肥線非電化区間も鈍足で一体いつになったら着くんだろうかと思うほど唐津まで時間がかかった。唐津で西唐津行きに乗り換えて、西唐津までの乗り潰しを完了し、西唐津からは再び電車に乗って博多まで戻った。乗った電車は相変わらず103系で、この日は303系は見たものの乗ることはできなかった。
JR原田線ことJR筑豊本線の桂川~原田間に乗車したのは03年12月20日だ。HP作成を始めて、近畿圏からさらに手を広げて全国の鉄道を見て歩くのが習性となり、乗り潰しを本格的に行い始めた最初の頃に乗車している。あかつきのレガートシートで博多入りして、博多から普通列車で原田へ行き、原田から数少ない原田線の気動車で桂川まで行った。北九州でも雪が降るぐらいの寒い朝だったのを覚えている。キハ125系の単行でも相応しくない利用者の数で、終点の桂川近くでも高校生が数人程度乗っていただけだった。かつてはブルートレインあかつきも同線を経由して走っていたぐらいの幹線だが、炭鉱が衰退して、筑豊本線自体の衰退もあり、その末端の原田線はその中でも大きく衰退した区間と言える。
鹿児島市交の路面電車には02年8月の九州遠征で乗車している。ドリームつばめで鹿児島入りして、朝から指宿枕崎線を乗り潰して、枕崎から鹿児島に戻り、鹿児島市内をぶらぶらと路面電車に乗った。夕暮れ前に乗ったため、西鹿児島駅前(現鹿児島中央駅前)から谷川までは暗闇の中を走ることになり、景色は楽しめなかった。谷川まで行って、谷川から歩いてJRの谷川まで歩いたが、非常に遠かった。事前リサーチも何もせず夜に歩いたため遠く感じたのかもしれないが、少なくとも駅前とかにあるレベルではなかった。またこの当時は全国の鉄道を乗り潰すという野望をそれほど高く立てていたわけではなく、とりあえずJRだけでも乗れたらいいかな程度だったので、夜であろうが昼であろうが、とりあえず乗れればいいという感覚で乗っていたので、鹿児島市交については機会があればもう一度乗りたい。
上の写真は05年8月に鹿児島を訪問した時に夕方の鹿児島中央駅前で撮影したものだが、この時はムーンライト九州を降りて、ずっと日豊本線を南下して鹿児島入りしたため、疲労困憊で鹿児島市交の路面電車に乗る元気がなく、撮影でお茶を濁した次第である。
長崎電気軌道には97年春の九州遠征で長崎観光をするために1日乗車券を購入して乗車している。記憶が曖昧なため、全ての路線に乗ったかどうか覚えていないが、赤迫方面は乗っていないはずだ。このため、全線乗り潰し達成には至っていないということで、乗り潰し制覇のために、同線もしばらく懸案事項路線として、何度か計画を立てては企画倒れとなり、時間が経つうちにいつしか乗らなければならない路線リスト入りしていた。漸く乗れたのか、つい先日実行した九州遠征で、07年8月15日に全線乗り潰しを敢行している。残暑厳しい終戦の日の長崎は昨年亡くなった伊藤長崎市長の初盆の行列?が市内を練り歩く光景が見られ、お盆期間とあって観光客も非常に多かった。このため、懸案事項だった赤迫方面は比較的地元利用で賑わっていたものの、観光客は少なく、有名観光地がたくさんある石橋方面は電車の本数が少ないあるいは遅延で団子運転となる影響からか、かなり観光客で混雑していた。大浦天主堂やグラバー園の人気が高いのか、長崎駅前から出るそちら方面への電車は物凄い混雑で、積み残しさえ出る状態だった。私は暑いので、観光は控え、一通り乗り潰しを終えて暑い中長崎駅前で少し撮影をして、予定よりも早いかもめで長崎を風のように通り過ぎて博多へ戻った。もう少しゆっくりしてもよかったが、何せ暑過ぎるので、観光する気にもならなかったのと、観光は以前しているので、どっちでもよかったこと、さらに九州遠征の最終日とあって、早めに博多へ戻ってゆっくりしたいという気持ちなどがあって長崎電気軌道は乗るだけ乗って、さっさと帰るということになった。次訪れる時はゆっくり観光でもして、長崎ちゃんぽんを食して、ゆったりした長崎旅行を楽しみたいと思う。
JR豊肥本線の立野と高森を結ぶ南阿蘇鉄道は過去何度も九州に足を運び、立野にも立ち寄っていながら乗る機会(乗る気)がなかった。とりあえず延岡から延びる高千穂鉄道とセットで乗り潰す計画を持っていたが、それが実現せぬうちに高千穂鉄道は台風の被害を受けて、それが原因で廃止となってしまった。国鉄時代には熊本と宮崎を短絡するルートとして高千穂線と高森線をつなげる計画で、一部建設が進められていたらしいが、途中で頓挫している。私の計画も同じように途中で頓挫してしまったのは情けないところだ。ということでしばらく乗れずじまいだった南阿蘇鉄道だが、漸く07年8月の九州遠征で乗ることができた。九州の天候の都合で立野周辺には2日間訪れ、そのうちの一日は南阿蘇鉄道の乗り潰しに費やした。トロッコ列車に乗るという選択肢もあったが、トロッコは黒部峡谷鉄道で散々乗ってきたし、後行程が厳しくなるので、一般の気動車列車で立野~高森間を往復した。トロッコ列車には途中駅で交換したので、撮影はすることができたので、まずよしとしておこう。小型のディーゼル機関車がプッシュプルでトロッコを牽引する様はなかなか面白い。 阿蘇の外輪山や白川の渓谷など景色も見所が多く、観光路線としては今後も期待したい路線であった。しかし、南阿蘇鉄道までのアクセスとなる豊肥線の運転本数が非電化区間となる肥後大津以遠ではかなり少なくなっており、九州新幹線開業後の観光輸送に備えて少しは増発を望みたいところだ。また、南阿蘇鉄道にしても、トロッコ列車だけでなく、眺望のいい気動車を造って、熊本まで乗り入れ、新幹線からの観光客を受け入れる体制を整えて、新幹線フィーバーに備えるのもよいのではないかと思う。