JR岩泉線、山田線乗り潰しを終えて、夜8時過ぎぐらいに盛岡に着いた。そこから新幹線で八戸までのミニトリップを行い、八戸駅前のホテルメッツ八戸に宿泊した。JR東日本系列のホテルで少し高かったが、駅なかというような立地条件が気に入って宿泊した。八戸に泊まったのは翌朝八戸線の一番列車に乗って三陸海岸を南下していくためだった。キハ40系他の気動車が3両ほど連結されている列車に乗り込み、八戸線の旅を始める。本八戸あたりまでは八戸市の市街地を走り、鮫までは港湾都市八戸らしい風景が展開されていた。鮫から先は海岸線を走り風光明媚な景色が展開されるが、その分沿線の人口は希薄になる。このためか、鮫から先の運転本数は大きな格差がある。終点の久慈では三陸鉄道北リアス線に連絡しており、ここから先は北リアス線の乗りつぶしとなる。
JR山田線には釜石線から引き続いて乗車し、宮古までキハ110系気動車に乗り、宮古で乗り換えて茂市から岩泉線に直通する列車に乗った。以前大糸線でも乗車した今は亡きキハ52系で、岩泉線からの折り返しもキハ52系に乗車した。盛岡地区は今ではキハ110系の天下になっているが、この頃はキハ58系やキハ52系などマニアに人気の気動車が走っていた。私が乗ったキハ52系は原色ではなかったが、行き違いする列車の中にはキハ58系の原色に戻された車両もあり、今となっては懐かしいという感じがする。釜石から宮古にかけては三陸海岸を走るため風光明媚な景色が展開され、宮古から先は山の中を走る。茂市までは明かり区間を走っていたが、岩泉線に乗ったため、茂市から盛岡までの道中は暗闇の中となった。このため景色も何もない状態だったが、明かりも何もない区間を走っていたのだけはわかる。運転本数も極端に少ない区間だけにいつ廃止になってもおかしくない区間なので、何とか早めに乗り直しを実行したいものだ。
再び04年夏の東北遠征記を…。04年8月12日に郡山から東北本線を延々と北上して、その日は盛岡に宿泊した。まだできて間もない小奇麗な東横インに泊まったが、後に05年に北海道遠征の帰りに東北地方の大地震に遭い、東北新幹線が1日運休した日に盛岡で足止めを食らい、以前泊まったということで東横インにその日空きがないかどうか聞きに行って満室ですとそっけなく断られた印象の方が強い。8月13日にホテルをチェックアウトして、岩手県内のローカル線巡りに出かける。三陸地域の路線乗り潰しの開始である。
当時すでに快速に格下げされていた陸中に乗って、まずは釜石を目指す。急行車仕様のキハ100に乗り込み、ほどほどの乗車率の中、前日に北上した東北本線を南下して、花巻から進路を逆向きにとり、釜石線に入る。ここまでは大した乗車率でもなかったが、次の新花巻から新幹線からの乗り換えの帰省客が大挙して乗り込んできて、車内はどえらい混雑に。とりあえず遠野で一旦降りて、レンタサイクルで観光じみたことをして、河童を探しに走り回った。河童を捕獲するには至らず、愛らしいカッパのちっちゃな人形を買って、再び釜石線に乗る。今度は普通列車で、普通車仕様のキハ110系だった。先に乗った快速ほどの混雑ではなかったが、それでも帰省客で車内は混み合っていた。各駅にはエスペラント語の愛称が付けられており、同語を作中でよく使っていた宮沢賢治ゆかりの路線という印象を受ける。鉄の町釜石のイメージがある終点釜石は小奇麗な駅で、鉄のイメージとはかけ離れた感じがする駅だった。ここからは宮古線に入り、秘境岩泉を目指すことになる…つづく
昨日に引き続き、今日も北陸遠征。遠征というか昨日高岡に泊まったので、必然的に今日も北陸というだけで、今日はほとんど18で帰阪する日程だった。早朝から高岡駅前のホテルを抜け出し、徒歩にて高岡~西高岡間の撮影ポイントへ。前日にPCに付属しているナビでルートを確認していたが、しっかり記憶しているわけでもなく、適当に歩き、適当に迷い、間に合わぬかと思ったところで目の前の視界が広がり、田園地帯に半ば漂着のように到着。目的の陸橋にはかなり距離があったが、そこは以前にも撮影したところなので、今回は田圃の畦道から撮影を試みる。時間がないので、そそくさとポイントを探っていると怪しい人々が集まっているところがあり、とりあえずその近くで撮影することに。広角で狙いを定め、あのバース、掛布、岡田のバックスクリーン3連発[E:baseball]を彷彿させる?日本海、北陸、能登の3連発を何とか撮影。出来はともかく無事撮影できてよかったよかった…と引き上げる時に 雨がポツリと降ってきた。朝から遠くで雷鳴が轟いていたが、雷鳴もどんどん大きくなってきており、雨脚も急速に強まっていた。[E:rain][E:thunder]傘を持参すべきか少々迷ったが、短時間だからいらんと判断してホテルに置いてきたのが間違いだった。雷雨の中、来た道をおぼろげながら、ここで間違えたのか!!と気づきながらずぶ濡れになって這う這うの体でホテルに帰着。早速服を交換して、シャワーを浴びて一息つく。それからの予定はJR氷見線を往復して後は帰るだけ。本当は美川近辺で雷鳥の撮影でもと思っていたが、天気がおもわしくないし、昨日野町から金沢駅まで歩いて暑さに参ってしまっていたこともあり、早く帰りたい一心もあった。高岡から延々と普通を乗り継ぎ、途中金沢でホリデーライナーなどを撮影して、金沢から福井まで419系に乗り、なんとなく乗り心地の悪いロングシートでうたた寝。福井からは北陸路とは思えない521系に乗車。車内だけ見ると223系とほぼ同じなので、もう関西に帰ったと勘違いしそうだ。実際には福井から敦賀まで小1時間程度かかり、敦賀からは新快速といえど、1時間以上かかるので、まだまだ家に帰ったというレベルではない。福井で熱心に列車を撮影している鉄子さんを発見。CANONの高級デジ一に高価そうなレンズを付けて写真を撮りまくっている。プロなのかもしれないが、たとえプロでも駅名版(上の521系の隣に見える方がそれ)や521系のナンバープレートを撮影しているあたりは仕事だけではない趣味も兼ねている様子だ。名ばかりと思っていた鉄子もここまで来る時代になったかと感慨深いものがある…。
敦賀では新快速の遅延により、1時間遅れでの出発となった。福井県内は雷雨で物凄かったが、定時で走ってきていたのに新快が遅れるとは…お得意の踏切障害かと思ったが、アナウンスによると湖西線内での悪天候による徐行のため遅れたとのこと。敦賀での待ち時間に敦賀港線貨物を見たり、撮ったり、駅前にあるぽっぽという施設の名前が妙に気に入りカメラに収めてしまった。ちょうど521系の車内で鼠先生の歌を聴いていたので、ぽっぽという言葉に反応してしまったのである[E:karaoke]敦賀から1時間遅れの新快速に乗って、高槻で降りて、高槻から快速で我が家のある茨木まで乗り、あとは徒歩で無事に帰宅。先週は首都圏で乗りまくって疲れもあったが、充実感が非常にあったが、今回は乗り潰した路線が1路線、乗り直しが2路線、さらにメインで撮影した夜行列車3連発の出来がいま一つということもあって、なんとなく消化不良な感じがした北陸遠征であった。来週は懲りもせずにSLが引っ張るサロンカーなにわの撮影に遠征する予定です。
今日は先週の首都圏遠征に続いて北陸へ遠征しています。目的は北陸鉄道の乗り残し路線であった石川線の乗り潰し。他には目ぼしい予定がないので、18を使うついでに城端線、氷見線の乗り直しとブルトレ撮影をすることに。朝から茨木から延々と西金沢まで普通で移動。朝一の敦賀行き新快速は敦賀まで立ち客満載。18シーズンはやはり混み合っているようです。新快速直通効果は長浜ほどなかったようですが、敦賀直通により北陸方面への乗り継ぎは格段によくなってるので18ユーザーにはありがたいです。
敦賀から西金沢までくたびれた475系に乗車。6両編成で福井県内はまったり余裕がある車内だったが、石川県内に入ってからはパラパラ立ち客もでる盛況ぶり。北陸ローカルも結構使われているのか、あるいは原油高騰で列車利用へのシフトがあるのか?いずれにしても3セクに転換しても北陸本線はそれなりにやっていけそうです。
西金沢から新西金沢まで0分の徒歩移動で乗り換え。加賀一の宮行きに乗車。2両目で大道芸を行うイベントが行われて車内に活気はあるが、利用者はそれほど多くない。終点加賀一の宮で立派な駅舎を拝んで、折り返し野町へ。野町方面は少しは乗っているかと思っていたが、行きと変わらぬ乗車率。新西金沢で下車があり、野町へ向かう人は少なかった。野町は町中の駅でバスとリンクして金沢市街地へ向えるが、利便性はあまりよくないターミナルといえる。石川線の今後を考えるなら野町から先の延伸を真剣に考えなければならないだろう。
東北本線一ノ関~盛岡間は04年8月12日の東北遠征が初乗車となった。昨日書いたように郡山から東北本線を普通列車に乗り継いで延々と北上していき、陽が暮れてから目的地の盛岡に着いた。一ノ関~盛岡間は東北新幹線では何度か通っていたが、在来線は初めての乗車だったので、もう少し早い時間帯に乗れればよかったのだが、何分郡山からの北上だったので日暮れ後の到着もやむなしというところだった。盛岡~花巻間は翌日釜石線の乗り潰しの際に再乗車しているので、十分明かりがある時間帯に乗れたが、北上~花巻間あたりは陽が暮れてから乗っているので、また機会があれば乗ってみたい。東北本線は貨物か701系しか走らないというイメージがあるが、確かにその通りで、釜石線直通の一部を除けば普通はほとんど701系。貨物は昼間でも大きな顔をして走っている。時が時なら新幹線開業時に3セクに分離されているのではないかと思えるほど本線としては少々魅力に欠ける路線になったと言える。
04年8月12日水戸からJR水郡線で北上して、前日通った郡山に再び上陸。ここからひたすら東北本線を北上して盛岡を目指す。郡山からいきなりご登場の701系に乗車して、東北本線かぶりつきの旅を始める。途中、踏切の防護無線が発砲されたとかで、抑止を食らい、定時より遅れて仙台に到着。接続列車の時間が短かったので、這う這うの体で乗り継ぎ列車に滑り込み再び701系の旅をスタート。仙台と言えば719系のイメージが強いが、最近は701系も勢力を伸ばしているらしく、東北本線乗り継ぎの旅は701系ばかりに乗った。小牛田で再び乗り継ぎがあり、その合間に石巻線から臨時列車こがね号が到着したので、それを撮影して、さらに貨物列車の撮影などをして時間を潰し、再び701系の旅へ。石越で廃止跡かと思えるような駅のくりはら田園鉄道(今は廃止となった)を見ながら北上していき、日暮れ前に一ノ関に着いた。ここからの道中はほぼ暗闇の中という道中だったが、次の日に乗る花巻~盛岡間を除いては、もう一度乗る区間ではなかったので、暗い中かぶりつきをしながら北上した。さすがに朝からかぶりつきでずっと立ちっ放しだったので、盛岡に着く頃には疲労困憊になっており、駅前のホテルに入って速効眠りについたのを思い出す。
04年8月11日に日立電鉄を乗り終えた後、常北太田の対面にある常陸太田から水郡線の枝線の乗り潰しをして、新潟から始まった乗り潰し道中1日目を終えた。水郡線は全列車がキハ110系化されている先進的な非電化路線で、利用者もそれなりという感じで、水戸近郊の輸送を担っているという印象だ。翌8月12日は朝から水郡線の本線を郡山まで乗り通した。こちらももちろんキハ110系が使用されており、水戸発車時点では朝から結構な乗り具合で、常陸太田辺りまでは結構な乗りだった。そこから先は茨城県の奥地、福島県との県境を走るため、利用者は落ち着いていくが、お盆休み期間とあって帰省での利用も見られ、全く車内がガラガラになることはなかった。水郡線は当時でもキハ110系が投入されていて新しいイメージのある路線だったが、後にキハE130系が投入され、今ではキハ110系も全て姿を消してさらにガラリとイメージが変わってきている。
東京遠征話を挟み再び04年夏の遠征話に戻ります。新潟から磐越・東・西線を乗り通して一気に福島の浜通りに出て、いわきから常磐線を南下して大甕へ。常磐線の我孫子以北もこの時が初乗りで、415系には九州で乗っているので特別な感慨はなかった。ゆったりしたというかトロいダイヤを走り、漸く辿り着いたという感じで大甕に着いた。日の入り前の時間帯で夏祭りがあったのか日立電鉄はそれなりの利用があった。この時点で既に廃止の噂があったので、さぞかし車内は寂しいだろうと想像していたので、やや面喰ったところもあった。区間によってはまだまだ見限るのはまだ早い感じがしたが、次の年の春に廃止になってしまったのは残念なところだ。利用者はまだいるが、車両や駅施設はやる気がなさげで、営団からのお下がりの電車も汚く草臥れた印象で、この先のやる気のなさを表しているようだった。
今日から3連休ということで、暑い中首都圏へ遠征しています。私鉄の乗り潰しとブルトレ撮影が目的の遠征です。ながらで東京入りする予定でしたが、アクシデントで予定変更。朝2番ののぞみで東京入りしました。今回は18を使わないので、新幹線特急料金分の差なのでそれほど経済的には痛くないですが、スーパーレールカーゴを撮りたかったので時間的損失が大きかったです。新幹線を品川で降りて早速品川ではやぶさ・富士を撮影。撮りにくい駅ですが、緊急撮影地としては重宝します。撮影後は私鉄乗り回しへ。今日は東急の乗り残し路線と多摩モノレールの乗り残し区間、横浜地下鉄グリーンラインなどに乗りました。今日の締め蒲田ではやぶさ・富士を撮って熱い1日を終えました。
JR磐越西線の乗り潰しを終えて、磐越シリーズの締めに磐越東線に乗る。郡山駅で少し時間があったので、弁当を購入して駅のベンチでそれを食してキハ110系に乗り込む。JR西日本ではまだまだキハ40系列が幅を効かしているが、JR東日本ではキハ110系が投入されている線区が多く経済力の差を見せつけられる。磐越東線も想像以上に山の中を走る路線で、険しい山ではないものの、渓谷などを見ながらの道中だった。浜通りの中心と言えるいわきに昼過ぎに着いた。常磐線との接続時間が短かったので、急いで乗り換えたが、先行するスーパーひたちが遅れた影響で、当該列車も遅れたので急いだ意味がなかった。ここから先は415系1500番台に乗車して、常磐線を南下して行き、大甕を目指す。
04年は乗り潰しに躍起になり始めた年元年だった。この夏は初の東北遠征を実行した年でもある。それまでは北海道、九州、四国などの遠方を中心に回っていたが、四国や九州より遠方の東北に関してはワイド周遊券が廃止されたこともあり、遠いだけのイメージが残り全く遠征する気すらなかったぐらいだった。それがある程度北海道や九州の乗り潰しに目処が立ち、東北平定へ向かう時が来たというような大げさなものではないが、私なりに機が熟したということで東北へ向かうことにした。
まずは福島県から攻めるということで、盆休みに急行きたぐにで新津入りして、新津から磐越西線、磐越東線を乗り継いで、浜通りへと出るルートを選んだ。新津で幸先よくばんえつ物語のSLを見て、キハ110系快速あがのに乗って、いざ会津若松へ。しばらく日本有数のコメどころである新潟平野を突っ走り、あとは阿賀野川に沿いながら山越えをする道中だった。お盆休みということもあり、利用者は結構多かったように記憶している。新津から会津若松までかぶりつきの道中は少々疲れたものの、なかなか景色のよい道中だった。
会津若松では乗り継ぎ時間が少なく、観光する間もなかった。在りし日の455系快速ばんだいで郡山に出る。ここもかぶりつきでかつての“急行電車”の走りを堪能する。会津若松までの道中よりもさらに山越えの様相が強い感じがした。磐越西線の東部は想像以上に山越えがきつい路線という印象になった。郡山までの利用は多く、郡山手前では立ち客も出る盛況だった。
04年8月7日の夜に松本に着いて、松本駅前のホテルに1泊して、朝から大糸線乗り潰しに挑んだ。この頃はまだ私鉄に手を出すことは少なかったので、松本電鉄は時間の都合などでスルーしている。松本から乗った大糸線電車は東北で見飽きるほど走っている701系スタイルのE127系だった。座らず前面かぶりつきで終点まで乗ったので、快適もへったくれもないが、701系と違い、一部にクロスシートを配置している点は観光路線である大糸線ならではの仕様と言ったところだろうか。大糸線の道中は非常にのんびりしており、景色もいいが、ここの路線は北アルプスの山々に雪が残る春の季節が一番見どころのある季節なのかもしれない。暑い夏に高原の空気を吸いながら、たまにE351系やE257系の特急とすれ違い、189系仕様のムーンライト信州の回送などを見ながら終点の南小谷まで乗り通した。南小谷では対面側にキハ52系が鎮座していた。JR西日本ご自慢?の旧型気動車はちょうど国鉄色に塗り替えられた時期で、国鉄ファンにはたまらない車両の一つとなっていた。完全に通勤型の様相のE127系との並びを撮って、そそくさとキハ52系に乗り換える。車内はそこそこ混雑しており、鉄っちゃんだけではなく、登山家というようないでたちの人も多かった。前日に大雨が降ったのか、沿線を流れる姫川はかなり水が濁っており、水量もかなり多かった。大糸線は同川の氾濫により一時期廃止も危ぶまれたことがあったが、沿線の景色を見る限り、今後も川の氾濫との闘いはまだまだ続くものと思われる。
JR飯田線は学生時代から乗り潰ししようしようと思いながらなかなか乗れなかったいや乗らなかった路線である。どう考えても時刻表を見ると1日がかりの乗り潰しとなるため、車内での退屈や効率の悪さなどがネックになって学生時代から敬遠してきた。乗り潰しに本腰を入れるようになって、いよいよ飯田線狩りに出なければならないようになって、04年夏に乗り潰し計画を立てた。早朝茨木を出て、限界いっぱいで豊橋に着くスジでも10時前後になるので、それ以降の豊橋発の飯田線電車でうまく終点の岡谷(辰野)まで辿り着けるスジを探って、日暮れ前に一旦岡谷に着いて、中央線旧線を通って塩尻、さらには宿を取っていた松本へと至るルートで乗り潰すことにした。翌日は大糸線を北上して北陸に抜けるルートを辿っているので差し詰め中日本縦断ルートを辿る旅と言ったところだ。
18シーズンで激込みの新快速で豊橋入りして、豊橋で待ち時間があったので、きし麺を食べて、飯田線ホームに入って名鉄電車をついで撮りしながら列車を待ち、天竜峡行きの119系に乗り込む。途中まで先頭でかぶりつきを楽しんでいたが、どこの駅からかは失念したが、運転席後部が荷物室となるため、立ち入り禁止となった。かつての荷物電車、新しいところでは223系0番台が行っていたような部分荷物室を目の当たりにした感じだった。珍しいものが見られたもののかぶりつきは途中で終わり、あとは座席について普通に景色を楽しむ(普通の旅行はそんなもんですけど)ことになった。この後天竜峡で1回乗り換えがあり、373系特急伊那路がやってきたりして、飯田線の旅を楽しみながら北上していったが、飯田を過ぎて、長野県に入ってから雲行きが怪しくなり、途中で雷雨と落雷による停電のため、どこだったか忘れたが途中の小さな駅で抑止を食らった。1時間以上抑止を食らった記憶があるが、これにより日暮れまでに岡谷に着くという行程は脆くも崩れ去り、岡谷に着いた時にちょうど日暮れになったところだった。岡谷から一旦戻る中央線旧線の旅は暗闇の道中となり、その日の目的地の松本に着いたのはどっぷり日が暮れて、駅構内の店も閉まるような時間だったのを思い出す。