JR秋田新幹線には04年1月1日に正月パスを利用して乗車している。仙台で1泊して、朝一の仙台始発のこまちに乗って、東北新幹線~秋田新幹線を乗り通した。仙台始発で元旦の早朝の便ということで仙台発車時点では空いていたが、盛岡からは結構な乗車があった。東北新幹線内も各駅に停車する列車だったのであまり速くなかったが、秋田新幹線…実際には在来線のJR田沢湖線内はかなり遅かった。最高速度は130km/hのはずだが、田沢湖線内ではほとんど最高速度を出せる区間はなかったように思う。これでは新幹線の名が泣くという気がするが、在来線だけにさすがに景色はそれなりに美しく、雪化粧した山々が印象的だった。このような景色はトンネルばかりの新幹線ではほとんど見られないので、それはそれで秋田新幹線ならではの価値を見出せるところだろうが、東京対秋田でのエアとのシェア争いを考えれば田沢湖線内でのスピードアップは秋田新幹線の今後の課題となるだろう。
03年12月31日山形にマフラーを忘れつつ、仙台に到着してホテルにチェックインした。大みそかなのに格安のビジネスホテルは満室だった。部屋でまったりと紅白でも見てということもなく、何でか大晦日だよドラえもんに見入っていた。それが終わってから、紅白を見てもつまらないので、仙台市交の乗り潰しに出かけた。北斗星を撮るついでに乗り潰してやろうということで仙台駅に出かけて、カシオペア、北斗星を撮って、583系の臨時快速もついでにGETした。気分よくJR仙台駅を出て仙台市交南北線の仙台駅へと向かった。なんとなく歩けばぶち当たるといういつもの行き当たりばったり方式で向かったが、かなり迷って仙山線のあおば通駅に出てしまった。歩きすぎたかと思ったが、すぐ近くに地下鉄の文字が見え、漸く地下鉄仙台駅にたどり着いた。何となくあおば通駅に近いという予備知識が頭の片隅にあったので何とか見つけることができたが、予備知識が残っていなかったらたどり着けなかったかもしれない。JR仙台駅起点で考えると地下鉄仙台駅はかなり遠いというのがよくわかった。地下鉄だから昼も夜もないということで夜に乗ったが、末端部に地上区間もあり、昼乗ればよかったなというところもあった。大みそかだけに利用者は少なめだったが、逆に仙台へ向かう利用はそこそこあったように思う。
03年12月31日JR山形線、JR左沢線でのマフラー騒動が収拾がついたので、宿を取っていた仙台目指して仙山線に乗った。予定よりも遅い列車に乗ったので、夕方近い時間になっていた。若干気が萎えていたので、あまり景色を楽しむという感じではなかったが、昔本で見た山寺だけは見ておきたいということで、道中は眠らずに過ごしていた。仙山線と言えば455系と快速仙山のイメージが強いが、私が乗った列車は快速仙山ではあったものの719系を使用していた。701系の投入などにより玉突きで719系が仙山線に回ってきたようだが、裏を返せばクロス車を仙山線に回さなければならないほど東北本線仙台口の輸送量が多くなってきているということなのかもしれない。気が遠くなるほど高い所にある芭蕉ゆかりの山寺を車中から拝み、山形と宮城の県境を抜けて仙台の市街地に入って行った。ここも仙台市内かというような駅もあり、仙台市が合併を繰り返して広大な市域を得たことを実感した。利用の方は大みそかの夕方の仙台行きということで少なく、山形~仙台間の都市間利用も非常に少なかった。日や時間帯によって利用は異なると思うが、仙台~山形間の都市間利用は案外少ないのかもしれない。それが証拠に昔は新幹線連絡の意味合いもあり、仙山線内ノンストップの快速仙山もあったが、今は停車駅が非常に多くなり、仙台都市圏では普通の役割をするような列車も出てきていた。
03年12月31日JR山形線ローカルに乗って山形入りして、駅そばで昼食を取り、左沢線制覇へと向かった。左沢線はフルーツラインという愛称が付く路線で、キハ110系も原色の緑とは違って水色の塗装になっている専用車?を使用していた。先述したようにJR山形線で先頭車から後部車両へ移動した際に先頭車にマフラーを忘れてきた。このことを山形駅到着時点では気づかず、忘れ物に気づかぬままそばを食べて左沢線に乗った。左沢線に乗ってしばらく走ってから漸くマフラーがないことに気づいた。東北は寒いだろうからと重装備の冬支度で大阪を発ったが、新潟では結構寒かったものの、雪が積もって大変と思っていた山形には雪のかけらもなく、好天で暖かかったこともあり、マフラーを外してすっかりそれの存在を忘れてしまっていた。油断大敵とはこのことを言うのだろう。左沢線の道中は上の空で、早く山形駅に戻ってマフラーを取り戻さなくては…という思いばかりだった。終点の左沢で駅員がいたので、山形線電車で忘れ物をしたが、問い合わせできるかどうか聞いてみたが、山形駅でないと分からないとの回答。期待はしていなかったが、山形まで戻らなければ仕方ないということだ。買ったばかりのマフラーということでここでなくすのは惜しいという気持ちと、ここで乗っておかなければいつ来れるかわからないという気持ちもあり、左沢線を乗り潰しながらもマフラーの行方が気になるという中途半端な道中だった。
結局マフラーは山形到着後新庄行きとなった電車が新庄で入庫する際に清掃員が網棚で見つけてくれて新庄駅にて保管されていて、山形駅に配送されてくるとのこと。山形到着は夜になるということで、31日は仙台で宿を取っていたため、明日取りに来ると言ったが、“無理に取りに来なくても着払いで家まで送ってあげるよ”の駅員さんの言葉に甘えてしまい、結局着払いの宅急便でマフラーを自宅へ送ってもらったのだった…なんとも情けない話だ[E:coldsweats01]
03年12月31日早朝からJR白新線~JR羽越本線~JR米沢線と乗り継いで新潟から山形県に入った。米沢で米沢牛の駅弁を買い込んで、列車待ちの時間に駅のホームでそれを堪能した。2種類買って、1つは夕食用に取っておいたが、どちらもそれなりの値段がするだけのことはあった。米沢からは山形線で一路山形へ。初めて乗る719系がいきなり標準軌バージョンということで多少違和感を覚えるが、車内は狭軌の列車となんら変わりない。深く観察していなかったので、狭軌車との違いはよくわからないが、標準軌というだけでごく普通のJR(国鉄)の車両という感じだった。先頭車に乗り込み、かぶりつきを試みようとしたが、あとからゾロゾロと添乗の運転士が運転席に入ってきて、全く前が見えない状況になった。これでは何も見えないので、発車前に席を移動して最後部へ。ここで大失態を犯していたが、何も気づかずに後部かぶりつきをして山形へ。途中400系つばさに追い抜かれ新幹線であることは実感したが、板谷峠ほどではないしにしろ軽い峠越えもあり、新幹線というにはかなり線路条件が厳しい路線であることがわかった。山形盆地の平坦なところでは快調に飛ばせそうな気もするが、踏切が多く、130㎞/h以上での運転は難しそうだ。東京~山形間の利用は完全にJRが掌握しきった感があるが、今後のスピードアップは望めないだけに高速道路の延伸などで新たな敵が生まれる可能性はある。新幹線内でのスピードアップは青森や秋田方面へ行く長距離列車が優先となるので、今以上のスピードアップは望めない。再度在来線の改良を行うにはかなりの費用が必要だが、部分新線などを造ってスピードアップしていくしかないのかもしれない。あるいは車両側で車体傾斜式を採用して曲線通過速度をさらに高めるかだが、これは130km/h超で運転しなければあまり効果はないかもしれない。
山形近郊は大みそかというのに昼時に着く列車だったからか、高校生を中心に利用が多く混雑していた。山形到着後、JR左沢線に乗り継いで同線の乗り潰しに向かったが、同線の車内で山形線電車の中にマフラーを忘れてきたことに気づいたのだった[E:crying]…以降JR左沢線へと続く。
新潟県内のJR(越後線・弥彦線・飯山線)の乗り潰しを終えて、新潟で一泊して翌朝03年12月31日早朝から白新線で新発田へ抜けて、新発田から羽越本線で坂町へ向かった。坂町から米坂線に乗って米沢を目指す。坂町は何の変哲もないと言えば語弊があるかもしれないが、ローカルな乗り換え駅だった。新発田から乗った羽越本線列車も交直デッドセクションに対応した?キハ110系だったが、米坂線はキハ110系のような新しい気動車ではなくキハ58系やキハ48系を混結した昔ながらの国鉄気動車編成だった。国鉄時代と違うのは色だけという感じの列車で、途中主要駅でそこそこまとまった停車時間を持つダイヤも何かタイムスリップしたような感じだった。今泉で山形鉄道気動車と連絡待ちをしたりしながら長い道中を乗り通し漸くといった感じで終点の米沢に着いた。米沢にはキハ52系などが止まっており、これまたタイムスリップしたような感じだった。そのような米坂線からもいまや国鉄型気動車が姿を消そうとしており、隔世の感を覚えざるを得ない。
JR東北新幹線には03年8月13日に初乗車を果たしている。北海道遠征の途上に乗車したのだが、それまで一度も乗っていなかったので、東北新幹線の初代顔である200系を飛び越してE2系はやてに乗って八戸まで乗り通している。当初日本海を使うルートを考えていたが、日本海は発売即売り切れとなり、次にながらを使うルートも検討したが、こちらもながらが満席ということで、空いていた銀河で東上することにした。サンライズののびのびの線もあったのだが、乗り継ぎが厳しいということでパスした。はやてに乗ったはいいが、お盆期間のため指定が取れても通路側ということで、駅弁を食した以外は後は眠りに就くだけの道中だった。
2度目の東北新幹線は04年1月1日の東北遠征で、正月パスを利用して、仙台から朝一のこまちに乗って秋田新幹線乗り潰しをして、秋田から快速~山形新幹線を乗り継いで、福島から東北新幹線に入って東京へ戻るルートを組んで乗車している。朝一のこまちはさすがに空いており、盛岡まで各停で走るものの空席が目立つ状況だった。東京対東北各都市の東北新幹線から東京を抜くとまったくのローカル新幹線に落ちぶれてしまうということを実感した形だった。山形新幹線は新庄からほぼ満席状態で、山形からは自由席では立ち客が出るような乗り具合だった。元旦の上りでこの混雑というのは異常とも言えるのではないか?と思ったものだ。それだけ新幹線が東京~山形間の輸送を牛耳っているということなのだろう。
04年の盆休みには東北乗り潰し旅行に出ており、04年8月13日の夜に山田線を乗り潰した後、時間の関係で盛岡~八戸間ではやてに乗っている。盆休みとはいえ、末端部の夜の利用だけに利用者はほとんど降り立っており、車内は閑散とした面持ちだった。この遠征では東北を訪れた割にこの1回しか新幹線には乗っていない。
05年7月16日には再び東北・北海道遠征をしており、この時も日本海縦貫経由で行くつもりが、仕事が片付かず日本海に乗り遅れ、急遽ムーンライトながらに変更して東上して、大船でスーパーレールカーゴを下手くそな流し撮りで撮って、睡眠を取るために空いているやまびこに盛岡まで乗っている。やまびこといっても200系ではなくE2系なので、はやてに乗るのと何ら差のない乗り心地だった。盛岡からはIGRいわて銀河鉄道、青い森鉄道の初乗りをしている。この年には8月に再度東北・北海道遠征をしており、北海道完全制覇と東北もほぼ手中に収めるという状態にまで持って行けた。7月と同じように銀河で登場して03年の北海道行き同様東京から八戸まではやてに乗っている。03年と違うのははやての窓側を取れていたことぐらいで、時間帯等は同じ列車だった。八戸で少しブレイクタイムして、ホタテなどを賞味して、485系つがるに乗り込み、浅虫温泉まで行き、同駅隣接の道の駅にある温泉で一風呂浴びて、スーパー白鳥に乗って青函トンネルを抜けて渡道している。北海道の鉄を乗り尽くして、急行はまなすで青森まで戻り、青森から奥羽線で大館へ出て同駅から花輪線の乗り潰しをして盛岡まで出た。ここまでは順調に行程を消化してきたのだが、盛岡駅前の松屋で遅い朝飯と昼飯を兼用した食事をしている時に宮城県で大地震が発生した。盛岡でもかなり揺れたが、この程度なら新幹線もすぐ動くだろうと最初はタカをくくっていたが、駅の待合室のニュースで宮城県ではかなりひどいことになっており、東北新幹線は復旧の見通しが立たないというニュースを見てがく然とした。とりあえず乗車する列車の発車時間に近かったのでホームに入ってみたが、すぐに復旧する見通しではなかった。居場所もないし、いつ復旧するかもわからないので、とりあえずホームで本などを読んでしばらく待ってみたが、いつまで経っても復旧しそうにないので、その日の帰阪は諦めて、盛岡でホテルを取ることにした。何とか駅近くのホテルに泊まることができたが、新幹線の指定券を取っていたため、夜になってから東北及び東京から先の東海道新幹線の指定をキャンセルしに盛岡駅まで出向いた。私と同じように切符の変更や払い戻しをする人でみどりの窓口は大混雑していた。改札付近にはその日のうちに復旧することを期待して列車を待つ人で溢れ返っており普段は静かと思われる盛岡駅もその日に限ってはてんやわんやの状態だった。ホテルに戻ってニュースを見るととりあえず深夜に全線で運転を再開したということだったが、途中徐行運転などを行うため明日以降もダイヤは大幅に乱れる見通しということだった。これは朝から動かないことにはまずいことになると思い、早起きして盛岡駅へ向かい、時刻表でとりあえずの目星をつけて自由席があるやまびこに乗ろうと思いホームに上がった。しかし、やまびこの運転はなく、はやてを全車自由席扱いということで運転する旨の放送があった。八戸方面はあまり地震の影響がなかったはずだが、車両の遣り繰りがつかないのかダイヤは大幅に乱れており、はやては30分ぐらい遅れて盛岡に到着した。盛岡からは当然ながら立ちん坊で、乗れただけでも幸せという状態だったが、仙台に近づくにつれて列車の速度は落ち、途中何度も停止を繰り返して仙台には1時間以上の遅れで到着した。仙台からはMAXやまびこの運転もあったようだが、ここからははやても回復運転とまではいかないでも通常の走りはするだろうと思った。現に大宮までは先行列車に当たって何度かスピードを緩めながらも快調に走っていた。しかし、大宮から先は列車がつかえているため、大宮から東京方面へは在来線をご利用くださいという案内があった。大宮では2時間遅れというのが微妙な時間だったので、これは東京まで乗り通さねばと思い、東京まではやてに乗って特急料金の払い戻しを受けようと思った。しかし、これがとんだ間違いで、大宮からはそれこそ在来線よりも遅い速度で走るというより長時間信号待ちのため各所で停車するという状態で大宮から上野まで1時間ほどかかってしまった。上野到着で既に特急料金の払い戻し云々の状態を越えていたので、上野ではやてに見切りをつけて、上野駅のみどりの窓口で払い戻しを受けて、山手線で東京へ出て、漸くの思いでのぞみに乗って帰阪した。東北新幹線にはこのような苦い思い出があり、ある意味においては忘れられない新幹線となっている。
なお、苦い思い出以降も東北遠征が何度かあり、05年年末の東北遠征では仙台空港から東北に入り、大船渡線に乗るために仙台~一ノ関まで東北新幹線に乗っている。この時乗ったのは各駅停車のやまびこだったが、間合い運用なのかE3系+E2系のこまちはやて編成を使用した列車だった。古川では正規列車のこまち・はやてに追い抜かれ、一瞬ではあるがE3系同士の追い抜き劇を見ることができた。この遠征では北東北の天候が荒れており、北上線を乗り潰して秋田方面へ出て男鹿線を乗り潰して秋田空港からバースデー割引で帰阪する予定にしていたが、低気圧の影響で大雪及び突風が吹き荒れる秋天候となり、秋田方面への遠征を断念して北上の宿で色々策を講じて、東北新幹線で仙台へ出て、仙台から常磐線の乗り潰しをすることにした。E2系やまびこで仙台へ出て意気揚揚と仙台駅に降り立ち、バースデー割引のキャンセルは痛いなと思いながらもとりあえず安全策を講じたということで、開放的に仙台駅で撮影に興じて常磐線に乗り込もうと思ったところで携帯電話をやまびこの車内に忘れたことに気づいた。仙台駅の忘れ物センターで問い合わせてもらい、とりあえず見つかり次第連絡を頂く(もう一台携帯を持っていて助かった)という手筈で、常磐線に乗り込み、途中で車内で携帯が見つかったという連絡を貰い、東京駅の忘れ物センターで受け取るということで段取りがついた。東北へ行くと忘れ物をするというジンクスがあり、山形ではマフラーを忘れて、着払いの宅急便で自宅へ送ってもらったことがある。苦い思い出は地震だけではなく携帯を忘れたという苦い思い出もある…そういったことも含めるとあまりいい思い出がない新幹線と言える。
いい思い出がない新幹線の割に、その年の正月には再度東北新幹線に乗っており、正月パスを利用して秋田からわざわざ在来線で盛岡まで出て、盛岡から指定が取れたはやてに大宮まで乗っている。東京までの指定を取っていたが、大宮で撮影をしようということで大宮で途中下車している。大宮からは上越新幹線に乗り換えてガーラ湯沢への乗り潰しをしてJR全線乗り潰しを達成している。その後は東北とは縁が切れた形になっていたが、私鉄で乗り残していた福島交通、山形鉄道、仙台空港鉄道に乗るために07年7月21日に遠征した時に、東京から福島までMAXやまびこに乗っている。3列非リクライニングシートの自由席に乗ったのは初めてと思われるが、狭苦しく堅苦しい車内だが、2階建てからの景色はよく、1時間ほどの乗車なら苦にはならんかなと思った。
仙台空港鉄道に初乗りは開業後しばらく経ってからの07年7月22日だ。同鉄道が開業する前から航空とのリンクで乗車しようと目論んでいて、よく利用するバースデー割引で利用しようかと模索していたら、ANAから旅割が売り出され、ちょうど夏の時期にチケットが取れそうな便があったので、2ヶ月前に購入という博打を冒して計画を立てた。2ヶ月前に当日の天候の予想などは立たないのは当たり前で、きっちり7月21日は雨模様、22日は曇りぎみとなってしまった。それでも前週は台風が来て全く話にならない状態だったので、それに比べたらマシだったし、22日は仙台では晴れ間も見えていたので十分鉄活動をできる状態だったので贅沢は言えない。
朝から板谷峠を越えて、福島から東北本線で仙台へ出て、夕暮れ時しか乗っておらず懸案事項と思っていた仙石線を乗り撮りして、松島から東北本線経由で仙台へ戻った。昼飯もろくに食わずに鉄活動に専念していたので、昼下がりではあったが、仙台でから揚げそばというけったいなそばを食した。おにぎりと一緒に頼んだら、出てきたそばを見てびっくり大きなから揚げが2つもど~んと乗っかっており、見ただけで満腹という代物だった。お腹も膨れたところで、再度鉄活動に戻り、仙台近郊の撮影として、長町と太子堂、名取で東北本線の撮影を行い、空港へ出向くのにちょうどよい頃合いを見計らって名取から仙台空港鉄道に乗車した。同鉄道の電車は全て仙台まで直通しており、長町までの移動に乗った電車は2両編成で空港利用以外の人も乗るので、結構な乗り具合だった。私が名取から乗った電車は夕方の離発着のピークに対応するためか4両編成で運転されており、余裕でかぶりつきができる程度の乗り具合だった。実際仙台空港に着いた時の降車状況をみると結構な数が乗っており、2両編成だったらかなりの混雑になっていたものと思われる。実のところ仙台空港に来るのはこれが2度目で、最初は05年12月に件のバースデー割引を利用して東北遠征を敢行しており、その際に大阪~仙台線を利用している。ここの時は空港からバスに乗って館腰の駅まで行き、東北本線で仙台へ出て、大船渡線乗り潰しのために仙台から一ノ関まで新幹線を利用した記憶がある。あの時空港鉄道があれば新幹線の無駄な出費は抑えられたかもしれないのでは…と思う。仙台空港には鉄道開業後もバス路線がたくさん残っており、仙台駅直行のバスなどもまだ運行されているようで空港鉄道とライバル関係を続けていくようである。仙台空港鉄道は利用動向を見る限り、開業フィーバーを考慮しても結構な利用があるようで、無用の長物と揶揄されることはないと思われる。
仙石線には03年12月末の東北遠征で乗車している。この年は暖冬で、山形ですら雪がなく、仙台にも当然ながら雪はなかった。寒いのは寒いが思ったほど寒くなかったが、仙石線沿線は暖流が流れているところなので、東北でも比較的温暖で雪はあまり降らないと思われる。私が乗った時には首都圏から205系の転属が始まった時期で、JR東日本としては異例とも思える2WAYシートが導入されたりして、JR東日本も変わったものだと驚いたものだ。私が乗ったのは103系で2WAYシート車は後の列車で使用されていたので、石巻で1本見送って帰りに乗ることにして103系かぶりつきの旅を楽しんだ。私が乗ったのは快速うみかぜで、仙台出発時点ではかぶりつきどころか、首都圏を彷彿させる大混雑だった。本塩釜を出るころには混雑も収まってきていたが、帰省ラッシュと相まってついに石巻まで席にありつくことはできなかった。夕方の乗車だったため、日暮れが早い東北ではすぐに外が暗くなり、面白くない道中を過ごした。石巻では折り返し2WAYシート車を待って、今度は仙台まで普通の旅となった。仙台を通り越してあおば通までの乗り潰しをして宿舎に入った。地理に不案内なのに思い切ってあおば通で地上に出てしまい、見事に夜の仙台の街で道に迷い、結局ぱっと目につく仙台駅に戻って、そこから地図に従って宿へ向かった。
2度目の仙石線も日が暮れてからの乗車となった。04年の東北遠征で太平洋側のローカル線各線を乗り潰して、石巻線の小牛田~女川間を乗り潰してから石巻まで戻り、石巻から仙台まで仙石線に乗った。日が暮れてからの乗車のため、不足がちな睡眠時間を補う場となっていたため、特に記憶には残っていない。この時はもうほとんどが205系に置き換わっていて、私が乗った電車も2WAYシートではない205系だった。
3度目の仙石線は山形鉄道、福島交通乗り潰しにリンクして、新しく開業した仙台空港鉄道の乗り潰しも兼ねて仙台地区の鉄道を再訪問する計画を立て、明るい時間帯に仙石線に乗ることにした。乗るだけでは芸がないので、仙石線らしい写真を撮って帰ろうということで、ネットなどで撮影地を検索して陸前大塚付近で撮影を試みることにした。駅自体が海に隣接しており、十分仙石線らしさが出るところだった。せっかくだから陸前富山~陸前大塚間の有名撮影地も訪問しようと予定を変更して陸前大塚から歩いて陸前富山方面へ向いて歩いた…これが間違いで仙石線に並行して走る国道を歩いても防波堤が邪魔で撮りにくいところだったり、あまりいい撮影地が見つからなかった。国道から離れたところに撮れそうなところがあったように思うが、国道からは入ることができず、結局陸前富山まで30分以上歩いて半端な写真を撮って終わりという結果になってしまった。リベンジに高城町で降りて、高城川橋梁で撮影をして何とか満足して、松島駅から東北本線で帰路に着いた。
JR東北本線福島~仙台間には3回ほど乗っている。東北遠征の際は、たいてい東北新幹線を使うか、日本海側経由を使うため、真っ向から東北本線に乗ることは少ない。とりわけ福島~仙台間は東北新幹線と諸に被るため乗車機会にはなかなか恵まれなかった。04年夏に南東北、西東北へ遠征した時に、急行きたぐにで新潟へ出て、新潟から磐越西線の乗り潰しをして郡山へ出て、一旦磐越東線~水郡線などを経て、再び郡山まで戻り、郡山から東北本線を北上したのが、福島~仙台間の初乗りである。この時は701系を延々と乗り継いで仙台をスルーして盛岡まで北上している。私は初乗り路線にはかぶりつきをするのが基本なので、ほとんど立ちっ放しで東北本線のほとんどを制覇した。この時の帰りに阿武隈急行などに乗って福島まで出て、福島から今度は東北本線を南下して東北本線を完全制覇している。
福島~仙台間には仙台シティラビットという快速が土休日に運転されているが、この列車を仙台や福島で見ることはあっても乗る機会には恵まれなかった。漸く乗る機会が訪れたのが、先日訪れた山形・福島・仙台遠征の時で、7月22日に山形から福島まで山形線ローカル列車で出て、福島から仙台まで快速仙台シティラビットに乗っている。同列車は719系のイメージが強く、かつては455系などが使用されているのを見たことがあったが、私が乗ったのは701系使用列車であった。仙台地区で701系快速は初めて見たが、ヘッドマークが付けられないのか、LEDの快速表示のみのため素気ない列車だった。快速としての走りはまずまずの印象だが、如何せん701系の走りは103系のそれに近く、最高速度で走るとモーターの唸りが物凄く、会話もままならない状況になる。701系は普通中心の運用として、快速にはJR東日本御自慢の?E721系を投入してほしいものだ。
山形新幹線には04年の正月にJR東日本の正月パスを利用して東北地区各線などの乗り潰しをした時に初めて乗っている。仙台に宿泊して、朝一の仙台始発のこまちで秋田まで行き、秋田から折り返し快速電車で新庄まで戻った。グリーン車も乗れるタイプのフリー切符だったが、切符の入手が年末に東京入りしてからだったので、新庄からのつばさは指定しか取れなかったので普通車指定席で東京まで乗り通した。G車でないのが残念と言えばそれまでだが、窓側の指定を確保できただけでも感謝しなければならない。自由席だったら新庄での短い乗り継ぎ時間を考えればたぶん座れていなかっただろう。車内は山形からかなり混雑して満席状態だったので身動きも取れず、ずっと車窓を眺めているだけだった。動いたとしてもフリースペースなどないので、トイレに立つ程度なので、ずっと座っていたとしても仕方ない。そういった意味ではかぶりつき好きにとっては新幹線の旅はつまらないところもある。在来線を130㎞/h前後の速度で飛ばして、米沢からの峠越えではさすがの“新幹線”も速度を落として峠を下って行く。急坂を下っていくため抑速していかなければならないのだろうが、新幹線としては如何にも物足りない走りだった。新幹線との結合部の福島は通り過ぎただけで、MAXとの連結なども見ずじまいだった。
山形新幹線にはそれ以来乗っていないが、板谷峠越えは普通電車でじっくり見てみたいという思いがあったので、機会があればもう一度訪れようという思いはあった。その機会はしばらくなかったが、個人的に目標としている乗り潰しが佳境に入り、JRはすべて制覇し、私鉄も残りわずかということで、山形鉄道や福島交通の乗り潰しを計画し、そこに板谷峠を越えるルートを組み込んで乗りに行ったのが07年7月21日、22日の南東北遠征だ。福島交通からの乗継ぎ時間が少なかったことと食料の調達に時間を要したこともあって山形線電車には発車数分前に乗り込むことになり、何とか席にありつけたという感じだった。車内は18きっぱーと思われる旅行者風や鉄風の人が多く、数少ない電車だけに山へ入る前の庭坂までの地元利用者も結構いた。庭坂までは新幹線との合流部以外は特に見るべきものはなかったが、庭坂からの山岳区間は改めて険しく、厳しい線路条件だと再認識した。次の電車がないため米沢まで乗り通し、乗り継いで赤湯から山形鉄道の乗り潰しに向かったが、何か消化不良を感じ、山形に泊まった翌
朝、仙山線で仙台入りする予定を変更してもう一度朝一の山形線電車に乗り、途中峠駅で途中下車して、1時間後の次の電車で福島まで行くというルートに変更した。峠駅で降りたのは前日に峠の力餅の立ち売りをしていたのが印象に残っていたからだ。降りてみて失敗したと思ったのは全く撮影には向かない100%トンネル内の駅で、駅の出入り口もカーブしているため、明かり区間を行く撮影ができないということだ。後で確認したところ撮影には板谷の方が向いているということがわかり少し後悔している。とりあえず全く人がいないホームに一人降り立ち、719系下り普通、上りつばさ、下りつばさの3本の列車を苦肉の策で流し撮りしたりして峠駅を堪能した。次の上り普通が来る前に山の中から民宿の送迎と思われる車が2台ほど現われ、お客を降ろしていった。それとともにいつの間にやら峠の力餅の売り子のおばちゃん(前日車内から見たのはおっちゃんだったように思うが…)も現れた。電車とのマッチングを何とか撮ろうと到着した電車とおばちゃんが入った写真を撮ったが…。峠駅へ行かれる方は山形か福島に泊まって朝一の電車で同駅で降りて小1時間ほど楽しむのがベストだと思います。くれぐれも2番目の電車に乗って降りないように…ハイキングや登山好きの方なら次の電車が来るまで山を駆け巡るにはいい時間になりましょうが。電車の本数が極端に少ないので、気を付けるべし。
07年7月21日午前中に福島交通を雨の中乗り潰し、福島発12時54分の山形線普通電車で赤湯へと向かう。山形線には新幹線で一度乗車していたが、普通列車で乗るのは初めてだ。板谷や峠など興味深そうな駅があったが、時間と次の電車がないので下車を断念して米沢まで乗り通す。米沢までは719系だったが、米沢で701系に乗り換えて赤湯へ。どちらの標準軌仕様の車両でよく飛ばすが、車内などは何ら狭軌の車両と変わらない。赤湯からは山形鉄道で荒砥までの乗り潰しとなる。待ち時間に駅構内で山形新幹線つばさの撮影を行い時間を潰す。天気が良ければ山形鉄道乗り潰し後に赤湯近辺の田園地帯に繰り出して撮影をしようかと思っていたが、生憎の天気のため撮影は断念して早々に山形の宿に引きこもることにした。
山形鉄道は単行気動車での運転で、車内は小さな子供連れのお母さんの姿が目立ったが、赤湯出発時点ではかなり空いていた。混みだしてきたのは宮内を出たあたりからで、下校の高校生が大挙して乗り込んできた。今泉では米坂線との連絡がないためか、思ったほど乗り降りはなく、宮内からの高校生をなんぼか降ろす程度であった。南長井でまた高校生が大挙して乗ってきて、長井で案外乗り降りがなく、そのまま降りていく一方で終点の荒砥に到着した。荒砥は立派な駅舎があり、委託と思われるおっちゃんが集札業務とか駅に併設された資料館の管理をしているようだった。駅には紅花の植木があちこちにあり、黄色や紅色?の紅花が鮮やかに咲いていた。
荒砥からは芸もなくそのまま赤湯まで折り返し山形鉄道に乗った。荒砥からの乗車は少なかったが、長井から大量に乗ってきて、南長井から下り同様高校生が大量に乗りこんできた。今泉では米沢線上りと連絡していたこともあり、高校生の下車が目立った。宮内でも下り同様の乗降があり、終点赤湯では山形線乗り換えは少なく、赤湯下車が多かった。赤湯では山形新幹線上下列車を見送って、普通電車で山形まで行き、山形では即効宿に引きこもり、前日からの疲れを癒して次の日に備えた。
昔話が続いてきたが、ここらで最新の乗り潰しを書いてみようかと思う。まずは乗りたてほやほやの福島交通から…。7月21日、22日に南東北の乗り残した私鉄の乗り潰しへ向かうべく仙台空港鉄道が開業した3月頃から計画を入念に立て、博打とも思えるANAの旅割予約を2か月前に済ませて遠征を実行した。2か月前に当日が雨が降るとは思ってもみなかったので、当然ながら雨天決行。旅割のキャンセル料は恐ろしく高いので、花よりも実を取り、乗り潰しに専念するということで撮影は半ば断念しての強行軍となった。しかも、悪いことに計画では大阪から急行きたぐにに乗り、新潟から白新線~羽越線~米坂線と乗り継いで今泉に出て、山形鉄道を潰してから福島へ向かって福島交通を攻める行程を組んでいたが、1週間前に発生した中越沖地震により信越線が不通となり、当然ながら急行きたぐにも長期運休ということで計画が白紙に戻った。通常なら旅行を取りやめるところだが、旅割の件もあったので、ルートを変更して実行することに…うまい具合にサイバーステーションを当たってみるとサンライズ出雲の指定に空きが出ていたので、速効チケットをGETして、東京回りで旅程を組んで南東北征伐へと出陣した。
20日深夜に大阪駅に着き、日付が変わった21日の0時34分のサンライズ出雲に乗車。週末だけに満席だったが、個室の入り具合は今一つだったよう。指定券だけで乗れるのびのび座席と個室とは言え、暴利と言える寝台料金がかかる個室寝台では人気の差が出て当然と言えよう。横になれるというメリットだけを追求すればのびのび座席はかなり使える代物と言える。但し、枕がないという欠点はあるので、この席を利用される方は枕を準備するか、枕代わりの物を持参しなければならない。
東京到着後は新幹線で福島へ 飛ぶ。18を使用するつもりで、東京から在来線を乗り継ぐことも考えていたが、サンライズが10分程度遅れたことと、福島での余裕時間を考えて清水の舞台から飛び降りて新幹線に乗った。18も福島~山形間で一部途中下車して使用するだけなので如何にも勿体無いが、私鉄乗り潰し優先なので仕方ない。福島まで乗ったMAXやまびこは指定席こそ満席だったが、自由席はほんまに指定満席か?というような乗り具合だった。リクライニングしない3-3シートは好きになれないが東海道山陽からは消えてしまった2階建ての眺望は捨て難いものがある。
福島までは何とか空模様も持ってくれていてドン曇りという感じだったが、福島に着いて、少し山形新幹線の撮影などをしていると雨が降り出し、本命の福島交通に乗る頃には土砂降りになっていた。雨に降られては撮影もままならないが、とりあえず屋外での撮影は無理なので駅撮りだけで我慢して、飯坂温泉までのミニトリップを楽しんだ。終点が温泉地だけに観光客が多いのかと思っていたら、以外にも地元の利用者が大半を占めており、予想以上によく乗っていた。利用者層も高校生やお年寄りだけでなく、幅広い利用者層が見られ、県庁所在地福島近郊の足として役割を担っている印象があった。こういった利用者の動向をみるとくりはら田園鉄道や近々廃止になる三木鉄道などのようにJR線でも都市から離れた近郊の駅から発着しているという路線よりも、福島交通のように県庁所在地級の都市に中心役を構えて郊外へ路線を延ばしている路線は強いなと思う。各都市にはモータリゼーションなどから廃止に追い込まれた私鉄路線も多いが、農村部を走るJRの赤字ローカル線と比べれば利用者も多かっただろうし、立て直す余地もなんぼかあったと思われる。福島交通も安穏とはしていられないだろうが、利用者を維持していく素地は十分にあると思われる。福島市民と一体となった鉄道として末長く活躍をつづけてほしいものだ。
JR羽越本線は97年夏の北海道第1次遠征の際に特急白鳥を乗り通して乗り潰しを達成している。その遠征の帰りもトワイライトに乗っているので1往復したことになる。但し、どちらも暗闇の中の道中となり、しばらく昼間の羽越線に乗ることはなかった。
久しぶりに羽越本線に乗ったのは、2003年末の東京新潟東北遠征の時で、新潟から白新線経由で新発田へ出て、新発田から羽越本線で坂町まで行って、米坂線の乗り潰しをしている。この区間は直流電化区間だが、村上にデッドセクションがあるため、そこを通過する電車は交直両用電車が必要となる。特急はそれに対応するため485系を使用しているが、普通は高価な交直両用車は贅沢ということか、気動車が走っている。私が乗った列車もキハ110系を使用していた。この時は羽越本線はついでに乗った程度だったが、次の2005年末の遠征時は東北遠征の乗り潰しがメインではあったが、羽越本線にもかなりお世話になっている。
2005年夏の東北・北海道遠征では帰りに秋田から日本海2号に乗っているが、すっかり日が暮れた後の道中で、なおかつB寝台下段が取れたものの、合席となった年配の旅行グループンのおばちゃんに上段が怖い云々言われて席を交換せざるを得ない事態となったため、秋田から大阪まで上段寝台にこもりっきりの道中となってしまった。夜とは言え景色が全く見えない道中程厳しいものはないと痛感してしまった。
2005年末遠征では急行きたぐにで新潟まで出向いて、新潟から白新線経由で新発田まで行き、新発田から羽越本線に入って鶴岡まで乗っている。新潟から村上まで115系普通で直通し、村上で羽越本線気動車列車に乗り換えている。この時はちょうど直前に羽越本線でいなほが脱線事故を起こしており、鶴岡~余目間が不通となっていた。目的は余目から陸羽西線の乗り潰しをすることだったので、不通区間は代替バスに乗って余目まで行った。雪と鶴岡駅の折り返し線不足などから列車は1時間以上遅れて、代替バスも列車よりもかなり時間がかかり、陸羽西線で予定していた列車には乗れなかった。こんな時期に予定を立てたのが悪かったのだが、改めて列車が通常通り走るありがたさが身にしみた。この後、陸羽西線~陸羽東線と渡り歩いて、北上に宿泊して、翌朝北上線の乗り潰しをして、横手から奥羽本線を北上して秋田へ至っている。秋田から再び羽越本線に乗って、今度は南下していき、羽後本荘から由利高原鉄道の乗り潰しをしている。同鉄道乗り潰しの後も羽後本荘~秋田間で羽越本線ローカル列車の旅を楽しんでいる。かつての羽越本線は50系客車列車の天下だったようだが、今は見る影もなく701系が大きな顔をして走りまわっている。沿線は海沿いを走るところでは防風対策が各所に見られ、脱線事故が起きてもおかしくはない環境のところを走っているのがよくわかった。