日本の政治家が敏速に動き、発達障害者支援法が実際の制定より30年早くできていれば、今回の悲惨な事件は起きなかった可能性は高い。子どもの生きづらさに対する理解が多少なりとも深まり、子どもの得意不得意を見極めた上で、親の価値観の押し付けではなく、個性にあった教育等、選択肢は広がっていたかもしれません。何故、議論がされてこなかったのか?そう考えれば、数か月後には忘れされてしまうようなくだらない2000万円不足云々など議論を国会で吹っ掛けけてくる野党は危機感が欠如していて国民の敵ですね。親族間殺人が半数を占める社会では発達障害者支援はもはや喫緊の課題なのです。
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日本の「子殺し」「親殺し」等の「親族間殺人」は殺人事件の約半数を占めている。
2003年に至るまでの過去25年は40%前後で推移してきていたが、その後10年間で約10%の上昇傾向をたどって以降、その傾向は続く。2018年の殺人事件のうち親族間殺人はほぼ半数の47.2%となった。未遂も含めるとその数字はさらに55%前後に上がる。
FBIの発表している2014年のアメリカの数値を見ると親族間殺人は14.3%。ただこれは約半数が関係性が把握されてない数字で、判別したものだけに限ってみると26.2%だ。
しかしその数値と比較しても日本の親族間殺人率は相当に高いものとなっている。特に、平成後半の15年で比率が上がった要因とは何か。一体「日本の家族」にどんな変化が起こっているのか。
親族間の殺人といってすぐに思い浮かぶのは児童虐待であろう。
熊澤元農水事務次官の事件の衝撃が続く中、5日後の6月6日には札幌市に住む21歳の母とその交際相手である24歳の男が子を衰弱死に至らせた疑いで逮捕されている。
物理的にも精神的にも圧倒的優位にある親が抵抗できない幼い子を殺してしまう事件はあとを絶たない。
一方で今回の元農水事務次官の事件はそれとは位相が違う事件に見える。それはテレビを通じて流された熊澤英昭容疑者の様子に象徴される。練馬警察署から警視庁に移送される際の熊澤英昭容疑者の姿は、息子を自ら殺害した凶悪事件の犯人とは見えないほど、落ち着いたものだった。
もちろん、高齢となった親に対して暴力を振るう息子に対し「やらなければやられると思った」というのだから英昭容疑者が相当に追い込まれていたことは確かだろう。
一方で、小学校の運動会に乗り込んでいって危害を加えるといったことはどこまで現実的だったのか。エリートの親にありがちな押し付けや先回りがここでも行われたのではないかという疑念に対しては、もはや検証することもできないのだが……。
男性の育児や地域コミュニティへの参加等を研究しているある専門家は、元事務次官は川崎登戸事件の報道に接した際に「正義スイッチ」が入ったのでは、と指摘する。
つまり、「このままでは自分たちが殺される」と言った恐怖から、自分が子どもに対して殺意を持つことに対して多少なりとのためらいや罪悪感を持つことを、「社会のため」「他人を犠牲にしてはならない」「人様に迷惑をかけることを回避しなければ」という「社会正義」に置き換える。
この「正義スイッチ」を押すことによって、40代半ばに至っても定職に就かず家庭内暴力を振るう息子を「認めることができず」「恥ずかしいと思い」「いなくなってほしいとさえ願っている」といった自分を正当化し、殺人という蛮行にも肯定的な意味を持たせることが可能になる。
つまり、「理屈」が立つことで自分のプライドも保つことができたからこそ、決行できたのではないか、と。
それは最後まで自分の「理想の息子」とは遠く離れた現実の息子を、受け入れることができなかったことでもある。
もちろん、愛情を持って育てたことに違いがないだろうが、その愛が子どものためというよりも、親の自己愛の延長線上か否かを子どもは敏感に感じ取っていたからこそ、親子関係はねじれ、こじれ、事件に至ったのだろう。
熊澤英一郎さんは自らがアスペルガー症候群であったと言っている。それが妥当かどうかの判断を持ち得ないが、生きにくさを感じていたことは間違いないだろう。
平成期、子どもたちの育ちをめぐる環境の中で最も進歩した分野が、いわゆる高機能自閉症、アスペルガー症候群、ADHD、LDといった軽度発達障害の分野だ。
主に心の問題だとされていた自閉症も、脳神経の分野が深くかかわっていることがわかるなど、その医学的進歩は目覚ましいものがあり、また、支援プログラム等の研究も広がった。
2005年には発達障害者支援法が成立した。その進歩の受け皿となるべき療育体制は15年経った今も十分とは言えないが、社会の理解も含めてそれ以前に比べれば格段の違いだ。
現在、20代後半の人々はギリギリ、この支援法の成立の恩恵を受けられた世代になる。法の制定前後から文科省のモデル事業等も行われ、対象の児童生徒には試行錯誤ながらも支援の手が差し伸べられるようになった。
しかし、1975年生まれ、「ポスト団塊ジュニア」と言われる熊澤英一郎さんの世代に対してはこうした支援どころか、生きづらさを抱える子どもたちの存在に対しての理解もそもそも「発達障害」に関しての認識も薄かった時代に多感な時期を過ごさなければならなかった。
発達障害者支援法が実際の制定より30年早くできていれば、英一郎さんの家族も含めて、子どもの生きづらさに対する理解が多少なりとも深まり、子どもの得意不得意を見極めた上で、親の価値観の押し付けではなく、個性にあった教育等、選択肢は広がっていたかもしれない。
発達障害児に最も大切な時期は、義務教育ではカバーできない幼児期と、義務教育を終えて社会に出るまで、つまり高等学校期であるともされる。
しかし、熊澤英一郎さんの場合のように、中高一貫教育で友人等の環境も変わらない中でその大事な時期を迎えなければならなかったことは、二重三重にねじれた中で生きざるを得なかったことを示してもいる。