(先に、「我見に二種あり。云何爲二。一は人我見。二は法我見。人我見とは、諸の凡夫によって説くに五種あり。云何爲五。一は修多羅に「如來の法身は畢竟して寂寞なること猶ほ虚空の如し。」と説くを聞いて、著を破せんがためなるを知らざるをもっての故に、即ち虚空は是れ如來の性なりと謂う。」と人我見の最初の第一番目を解説したが次に第二番目以降を説くと)二には修多羅に「世間の諸法は畢竟して體は空なり、乃至、涅槃や眞 . . . 本文を読む
法我見とは二乘の鈍根によるをもっての故に、如來は但だ爲めに人無我を説くのみなれば、説は究竟ならざるを以て、五陰生滅の法ありと見て、生死を怖畏し、妄に涅槃を取るをいう。云何が對治せん。五陰の法の自性は不生なれば則ち滅することあることなし。本來涅槃なるが故をもってなり。(復次に法の実体視というのは、声聞・縁覚という二乗の鈍根の者たちの持つ劣った考えである。彼らは色・受・想・行・識という衆生を構成する五 . . . 本文を読む
今日は叡尊が西大寺で土砂加持法会を始めた日西大寺光明真言会願文「南部州大日本国西大寺臥雲の沙門叡尊等至心合掌して異口同音に一切の仏宝に帰依し、一切の法寶に帰依し、一切の僧寶に帰依して而言さく。夫れ不空羂索毘盧遮那大灌頂光明真言は、我本師釈迦如来因位の昔、持念の時、無量無数の光明を放って三千大千の世界を照らし一切の魔軍を降伏し、一切の衆生を済度し、茲に神呪の力を藉りてもっぱら仏果の位を証す。かくのご . . . 本文を読む
自誓受戒記(叡尊)
1,はじめに・・・叡尊は鎌倉時代中期真言律宗(四分律・梵網戒を併せて修する)開祖。字は思円。謚号は興正菩薩。この興正菩薩叡尊が覚盛・圓晴・有厳と共に東大寺に於いて自誓受戒したのが嘉禎元年1236叡尊菩薩36歳の時。
・『感身学正記』には「(嘉禎元年1236)九月一日、各自誓、近事男となる(五戒を受ける)、二日沙弥となる(十戒を受ける)。三日、圓晴・有厳菩薩苾芻位に登 . . . 本文を読む
西大寺光明真言会願文「南部州大日本国西大寺臥雲の沙門叡尊等至心合掌して異口同音に一切の仏宝に帰依し、一切の法寶に帰依し、一切の僧寶に帰依して而言さく。夫れ不空羂索毘盧遮那大灌頂光明真言は、我本師釈迦如来因位の昔、持念の時、無量無数の光明を放って三千大千の世界を照らし一切の魔軍を降伏し、一切の衆生を済度し、茲に神呪の力を藉りてもっぱら仏果の位を証す。かくのごとくならば則ち 法界智の所依となる也。月大 . . . 本文を読む
史料綜覧 卷五 / 元弘元年九月四日条(1331)四日 後伏見上皇 入道尊円親王ヲシテ 五壇法ヲ六波羅北方ニ修シテ 戦捷ヲ祈禳セシメ給フ(この年後醍醐天皇は譲位に応じず、幕府に捕らえられた。幕府により皇太子量仁が即位して光厳天皇となり、後伏見上皇はしばらく院政を行っています。この後、元弘三年(1333年)、足利尊氏が後醍醐天皇に呼応して京都の六波羅探題を襲撃すると、後伏見上皇は光厳天皇・花園上皇と . . . 本文を読む
・日本紀略 / 寛弘三年九月四日癸卯条(1006)「四日癸卯 丹貴二社に奉幣す 祈雨に依る也 蔵人を使と為す」天皇は一条天皇。・日本紀略 / 治安元年九月四日丙子条(1021)「四日丙子 奉幣丹貴二社 依祈雨也」天皇は後一条天皇。 . . . 本文を読む