宇治拾遺物語・今昔物語・心形問答などに不浄な写経をすれば地獄に落ちるとあります。
1,「宇治拾遺物語・敏行朝臣の事」
「これも今は昔、敏行といふ歌よみ(能書家・三十六歌仙、古今集に「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」等)は手をよく書きたれば、これかれがいふに随ひて法華経を二百部ばかり書き奉りたりけり。かかる程に、にはかに死にけり。我は死ぬるぞとも思はぬに、にはかにからめて引き張り率て行けば、我ばかりの人を、おほやけと申すとも、かくせさせ給ふべきか、心得ぬわざかなと思ひて、からめて行く人に、『これはいかなる事ぞ。何事の過によりかくばかりの目をば見るぞ』と問へば、『いさ、我は知らず。『たしかに召して来』と、仰せを承りて率て参るなり。そこは法華経や書き奉りたる』と問へば『しかじか書き奉りたり』といへば、「我がためにはいくらか書きたる」といへば、『その事の愁へ出で来て、沙汰のあらんずるにこそあめれ』とばかりいひて、異事もいはで行く程に、あさましく人の向ふべくもなく、恐ろしといへばおろかなる者の、眼を見れば電光のやうにひらめき、口は炎などのやうに恐ろしき気色したる軍の、鎧兜着て、えもいはぬ馬に乗り続きて、二百人ばかりあひたり。見るに肝惑ひ、倒れ伏しぬべき心地すれども、吾にもあらず引き立てられて行く。
さてこの軍は先立ちて往ぬ。我からめて行く人に、『あれはいかなる軍ぞ』と問へば、『え知らぬか。これこそ汝に経あつらへて書かせたる者どもの、その功徳によりて天にも生れ、極楽にも参り、また人に生れ返るとも、よき身とも生るべかりしが、汝がその経書き奉るとて、魚をも食ひ、女にも触れて、清まはる事もなくて、心をば女のもとに置きて書き奉りたれば、その功徳のかなはずして、かくいかう武き身に生れて、汝を妬がりて、『呼びて給はらん。その仇(あた)報ぜん』と愁へ申せば、この度は道理にて召さるべき度にあらねども、この愁へによりて召さるるなり』といふに、身も切るるやうに心もしみ凍りて、これを聞くに死ぬべき心地す。
『さて我をばいかにせんとて、かくは申すぞ』と問へば、『おろかにも問ふかな。その持ちたりつる太刀、刀にて、汝が身はまづ二百に斬り裂きて、おのおの一切づつ取りてんとす。その二百の切に汝が心も分れて、切ごとに心のありて、責められんに随ひて、悲しくわびしき目を見んずるぞかし。堪へがたき事たとへん方あらんやは』といふ。『さてその事をば、いかにしてか助かるべき』といへば、『さらに我も心も及ばず。まして助かるべき力はあるべきにあらず』といふに、歩み空なし。
また行けば、大きなる川あり。その水を見れば、濃くすりたる墨の色にて流れたり。あやしき水の色かなと見て、『これはいかなる水なれば、墨の色なるぞ』と問へば、『知らずや。これこそ汝が書き奉りたる法華経の墨の、かく流るるよ』といふ。『それはいかなれば、かく川に流るるぞ』と問ふに、『心のよくまことをいたして清く書き奉りたる経は、さながら王宮に納められぬ。汝が書き奉りたるやうに、心きたなく、身けがらはしうて書き奉りたる経は、広き野辺に捨て置きたれば、その墨の雨に濡れて、かく川に流るるなり。この川は汝が書き奉りたる経の墨の川なり』といふに、いとど恐ろしともおろかなり。
『さても、この事はいかにして助かるべき事ある。教へて助け給へ』と泣く泣くいへば、『いとほしけれども、よろしき罪ならばこそは助かるべき方をも構へめ、これは心も及び、口にても述ぶべきやうもなき罪なれば、いかがせん』といふに、ともかくもいふべき方なうて行く程に、恐ろしげなるもの走りあひて、『遅く率て参る』と戒めいへば、それを聞きて、さげ立てて率て参りぬ。大きなる門に、わがやうに引き張られ、また頸枷などいふ物をはげられて、結ひからめられて、堪えがたげなる目ども見たる者どもの、数も知らず、十方より出で来たり。
集りて門に所なく入り満ちたり。門より見いるれば、あひたりつる軍ども、目をいからかし、舌なめづりをして、我を見つけて、『とく率て来かし』と思ひたる気色にて立ちさまよふを見るに、いとど土も踏まれず。『さてもさても、いかにし侍らんとする』といへば、その控へたる者、『四巻経(金光明経)書き奉らんといふ願をおこせ』とみそかにいへば、今門入る程に、この科は四巻経書き、供養してあがはんといふ願をおこしつ。
さて入りて、庁の前に引き据ゑつ。事沙汰する人、『彼は敏行か』と問へば、『さに侍り』と、この付きたる者答ふ。『愁へども頻りなるものを、など遅くは参りつるぞ』といへば、『召し取りたるまま、滞りなく率て参り候ふ』といふ。『娑婆世界にて何事かせし』と問はるれば、『仕りたる事もなし。人のあつらへに随ひて、法華経を二百部書き奉りて侍りつる』と答ふ。
それを聞きて、『汝は、もと受けたる所の命は今しばらくあるべけれども、その経書き奉りし事の、けがらはしく清からで書きたる愁への出で来て、からめられぬるなり。すみやかに愁へ申す者どもに出し賜びて、彼らが思ひのままにせさすべきなり』とある時に、ありつる軍ども、悦べる気色にて請け取らんとする時に、わななくわななく、『四巻経書き、供養せんと申す願の候ふを、その事をなんいまだ遂げ候はぬに召され候ひぬれば、この罪重く、いとどあらがふ方候はぬなり』と申せば、この沙汰する人聞き驚きて、『さる事やはある。誠ならば不便なりける事かな。帳を引きて見よ』といへば、また人、大きなる文を取り出でて、ひくひく見るに、我がせし事どもを一事も落とさず記しつけたる中に、罪の事のみありて功徳の事一つもなし。この門入りつる程におこしつる願なれば、奥の果てに記されにけり。文引き果てて、今はとする時に、『さる事侍り。この奥にこそ記されて侍れ』と申し上げければ、『さてはいと不便な事なり。この度の暇をば許し給びて、その願遂げさせて、ともかくもあるべき事なり』と定められければ、この目をいからかして、吾をとく得んと手をねぶりつる軍ども失せにけり。『たしかに娑婆世界に帰りて、その願必ず遂げさせよ』とて許さるると思ふ程に、生き返りにけり。
妻子泣き合ひてありける二日といふに、夢の覚めたる心地して、目を見あけたりければ、『生き返りたり』とて悦びて、湯飲ませなどするにぞ、『さは、我は死にたりけるにこそありけれ』と心得て、勘へられつる事ども、ありつる有様、願を起こしてその力にて許されつる事など、明らかなる鏡に向ひたらんやうに覚えければ、いつしか我が力付きて清まはりて、心清く四巻経書書き供養し奉らんと思ひけり。やうやう日比経(ひごろへ)、比(ころ)過ぎて、例のやうに心地もなりにければ、いつしか、四巻経書書き奉るべき紙、経師にうち継がせ、け掛けさせて、書き奉らんと思ひけるが、なほもとの心の色めかしう、経仏の方に心のいたらざりければ、この女のもとに行き、あの女懸想し、いかでよき歌詠まんなど思ひける程に、暇なくて、はかなく年月過ぎて、経をも書き奉らで、この受けたりける齢、限りにやなりにけん。遂に失せにけり。
その後一二年ばかり隔てて、紀友則といふ歌よみの夢に見えけるやう、この敏行と覚しき者にあひたれば、敏行とは思へども、さま、かたち、たとふべき方もなく、あさましく恐ろしうゆゆげにて、現にも語りし事をいひて、『四巻経書き奉らんといふ願によりて、しばらくの命を助けて返されたりしかども、なほ心のおろかに怠りて、その経を書かずして遂に失せにし罪によりて、たとふべき方もなき苦を受けてなんあるを、もし哀れと思ひ給はば、その紙尋ね取りて、三井寺にそれがしといふ僧にあつらへて書き供養せさせて給べ』といひて、大きなる声をあげて泣き叫ぶと見て、汗水になりて驚きて、明くるや遅きと、その料紙尋ね取りて、やがて三井寺に行きて、夢に見えつる僧のもとへ行きたれば、僧見つけて、『うれしき事かな。只今人を参らせん。みづからにても参りて申さんと思ふ事のありつるに、かくおはしましたる事のうれしさ』といへば、まづ我が見つる夢をば語らで、『何事ぞ』と問へば、『今宵の夢に故敏行朝臣の見え給へるなり。四巻経書き奉るべかりしを、心の怠りに、え書き供養し奉らずなりにしその罪によりて、きはまりなき苦を受くるを、その料紙は御前のもとになん。その紙尋ね取りて四巻経書き供養し奉れ。事のやうは御前に問ひ奉れとありつる。大きなる声を放ちて叫び泣き給ふと見つる』と語るに、哀れなる事おろかならず。さし向ひて、さめざめと二人泣きて、『我もしかじか夢を見て、その紙を尋ね取りて、ここに持ちて侍り』といひて取らするに、いみじう哀れがりて、この僧誠をいたして手づからみづから書き供養し奉りて後、また二人が夢に、この功徳によりて堪へがたき苦少し免れたる由、心地よげにて、形もはじめには変りてよかりけりとなん見けり。」
2,「今昔物語集・巻十四、橘敏行発願従冥途返語 第廿九」
今昔、□□□□□御代に、左近の少将橘の敏行と云ふ人有けり(歌人「藤原敏行」と混同したと思われる)。和歌の道に足れり。亦、極たる能書にてぞ有ける。然れば、相知れる人共の云ふに随て、法花経をぞ六十部許書奉たりける。
而る間、敏行、俄に死ぬ。「我は死ぬるぞ」とも思はぬに、忽に怖し気なる者共走り入来て、「我れを搦めて引張て将行けば、天皇過に行はるとも、我等許の者を此く搦めて将行くは、頗る心得ぬ事也」と思て、搦めて将行く人に、「此れは何なる錯に依て、此許の目をば見るぞ」と問へば、使答て云く、「我れは知らず。只、『慥に召て来』と有る仰を承はりて、召て将参る也。但し、汝は法花経や書奉たる」と。敏行の云く、「書奉たり」と。使の云く、「自の為には、何許か書奉たる」と。敏行の云く、「我が為にとも思はず。只相知れる人の語に依て、二百部許は書奉たらむ」と。使の云く、「所謂る、其の事の愁に依て、召さるるなめり」と許云て、他の事を云はずして、歩び行く間に、極て怖し気なる軍共の甲冑を着たる、眼を見れば電の光の如し。口は焔の如し。鬼の如くなる馬に乗て、二百人許来会へり。此れを見るに、心迷ひ肝砕けて倒れ臥ぬ心地すれども、此の引張たる者に痓められて、我れにも非で行く。
此の軍共、敏行を見て、打返て、前に立て行く。敏行、此れを見て、使に、「此れは何なる軍ぞ」と問へば、使の云く、「汝、知らずや。此れは、汝に経誂へて書かしめし者共の、経書写の功徳に依て、極楽にも参り、天上人中にも生まるべかりしに、汝が其の経を書くとて、精進に非ずして、肉食をも嫌はず、女人とも触ばひて、心にも女の事を思て書き奉りしに依て、其の功徳に叶はずして、嗔の高き身と生れて、汝を嫉むで、『召て我等に給へ。其の怨を報ぜむ』と訴へ申すに依て、此の度は召さるべき道理に非ずと云へども、此の愁に依て、非道に召されぬる也」。
敏行、此れを聞くに、身を砕が如くに思えて、亦云く、「然て、我れを得てば何にせむとて、此くは申すにか有るらむ」と。使の云く、「愚にも問かな。彼の軍の持つる刀釼を以て、汝が身をば先づ二百に切り割きて、各一づつ取らむとす。其の二百切に、汝が心、各切毎に有て、痛み悲まむとす」と。敏行、此れを聞くに、堪難き心、譬へむ方有らむや。悲びて云く、「其の事をば、何にしてか遁るべき」と。使の云く、「更に我が心に及ばず。況や、助くべき力無し」と。
敏行、更に歩む空無くして行くに、大なる河流れたり。其の河の水を見れば、濃く摺たる墨の色にて有り。敏行、「怪しき水の色かな」と見て、「此れは何なる水の墨の色にては流るるぞ」と使に問へば、使の云く、「此れは汝が書奉たる法花経の墨の、河にて流るる也」と。亦云く、「何なれば、此く墨にては有るぞ」と問ふに、使、「心清く誠を至して、精進して書たる経は、併ら龍宮に納まりぬ。汝が書奉たる様に、不浄懈怠にして書たる経は、広き野に棄置つれば、其の墨の雨に洗れて流るるが、此く河に成て流るる也」と。此れを聞くにも、弥よ怖るる心限無し。敏行、泣々く使に云く、「尚、何にしてか此の事は助かるべき。此の事教へ給へ」と。使の云く、「汝ぢ、極て糸惜けれども、罪極て重くして、我れ力及ばず」と。
而る間、亦使走り向て、「遅く将参る」と誡め云へば、其れを聞て、此の使共、滞り無く前に立てて将参ぬ。
大なる門有り。亦、引張たる者、亦、枷・鏁を蒙れる者、員知らず。十方より将参れり。集て所無く満たり。門より見入れば、前の軍共、眼を嗔からかして舌舐づりをして、皆我を見て、「疾く将参れかし」と思たる気色にて徘徊ふ。此れを見るに、更に物思えず。
而るに、敏行、使に云く、「尚何が為べき」と。使、「四巻経を書奉らむと云ふ願を発せ」と、窃に云ふに、今門を入る程に、敏行、心の内に、「我れ、四巻経を書て、供養し奉て、此の咎を懺悔せむ」と云ふ願を発しつ。其の程に将入て、庁の前に張居へつ。
政人有て、「此れは敏行か」と問へば、使、「然也」と答ふ。「訴へ頻也。何ぞ遅く将参る」と云へば、使、「召取たるに随て、滞無く将参たる也」と答ふ。政人の云く、「彼の敏行、承はれ。汝ぢ、娑婆にして何なる功徳か造たる」と。敏行、答て云く、「我れ、更に造れる功徳無し。只、人の語ひに依て、法花経を二百部書奉たりし」と。政の人の云く、「汝ぢ、本受たる所の命は、今暫く有るべしと云へども、其の経書奉たる事、不浄懈怠なるに依て、其の訴へ出来て、此く召されぬる也。速に彼の訴申す輩に、汝が身を給て、彼等が思ひの如く任すべきなり」と。
敏行、恐々申さく、「我れ、『四巻経を書き供養し奉らむ』と願を発せり。而るに、未だ其の願を遂げざるに、此く召されぬれば、只此の罪贖ふ方有らじ」と。政の人、此れを聞きて驚て、「然る事や有る」と、「速に帳を引て見よ」と行へば、大なる文を取て見るを、敏行、髴(ほのか)に見るに、我が罪を造し事、一事を落さず注し付たり。其の中に、功の徳の事交らず。其れに、此の門入つる程に発しつる願なれば、奥の畢に、「四巻経書き供養し奉らむ」と注されにけり。
文引畢つる程に、「此の事有けり。奥にこそ注されたれ」と申し上れば、「而るにては、此の度は暇免し給て、其の願を遂げしめて、何にも有るべき事也」と定められぬれば、前の軍、皆見えず成ぬ。政の人、敏行に仰て云く、「汝ぢ、慥に娑婆に返て、必ず其の願を遂げよ」と云て、「免されぬ」と思ふ程に活れり。
見れば、妻子泣き悲み合へり。二日と云ふに、夢覚たる心地して、目を見開たれば、「活にたり」とて喜び合たり。願を発せる力に依て免されぬる事、明なる鏡に向たる様に思えて、「我れ、力付て清浄にして心を至して、四巻経を書き供養し奉らむ」と思ひけり。
而る間、漸く月日過て、心地例の様に成て、四巻経を書奉るべき料紙を儲て、経師に預けて、打ち係させて、書奉らむと企つる間、尚本の心色めかしくて、仏経の方に心入れずして、此の女の許に行き、彼の女を仮借(けそう)し、「吉き歌を読なむ」と思ふ程に、冥途の事皆忘て、此の経を書奉らずして、其の受けたりけむ齢の程にや至けむ、遂に失にけり。
其の後、一年許を隔てて、紀の友則と云ふ歌読の夢に、敏行と思しき人に会ぬ。敏行とは思へど、形貌譬ふべき方も無く、奇異に怖し気也。現に語りし事共を云ひ立てて、「四巻経を書奉らむと云ふ願に依て、暫の命を助て返されたりと云へども、尚心の怠に、其の経を書奉らずして失にし罪に依て、喩ふべき方も無き苦を受る事量無し」。「『其の料紙は君の御許にぞ有らむ。其れを尋ね取て、四巻経を書き供養し奉るべし。事の有様は君に問ひ奉れ』となむ、大音を挙て泣々く宣ふと見えつる」と語るを、友則聞て、亦我が夢を語て、二人指向て泣く事限無し。
其の後、神を取出でて、僧に渡て、夢の告に依て尋ね得たる由を懃に語る。僧、紙を請け取て、誠の心を至して、自ら書写して供養し奉りつ。
其の後、亦、故敏行、同く二人の夢に来て、告て云く、「我れ、此の功徳に依て、堪難かりつる苦、少し免れたり」と云て、心地吉気に、形も初見しには替て喜たる気色にてなむ見えける。
然れば、愚なる人は、遊び戯れに引かれて、罪報を知らずして、此如くぞ有けるとなむ、語り伝へたるとや。
3,「心形問答」(菊池寛)
今は昔、叡山の西塔の宿坊で、青年の僧侶達が集って、写経について論を戦わしたことがあったが、この話はその時に、例証として話されたのである。
昔、仏教が盛んであった時に、写経と云うことは、たいへんな功徳とされていた。今でも、安芸の厳島には、平家一門が献納した紺地金泥の法華経が残っている位である。
が、その時の議論では、いくらありがたい経文を写しても、その写す当人が、斎戒沐浴《もして、念々に信心の真をふるい起し、一字一画にも、念仏するのでなければ、写経の功徳はあり得ないと云うのであった。その例として敏行朝臣のことが話されたのである。
敏行朝臣は、歌よみとしても高名であったが、手蹟が非常に見事であったので、いろいろな人から法華経の浄写を頼まれた。みな死んだ人々の供養のためであった。永い間には、二百部ばかりも書いたであろう。五十を越した頃に、ふと風邪の心地で、五日ばかり床についた。
そんなに重態と云うのでもなく、まだ死ぬなどとは、われも人も思っていなかったが、ある日、ふと気がつくと、身はひしくとからめられてうすくらがりの荒涼たる道を曳《ひ》かれて行くのである。一体どうした罪で曳かれて行くのか、四位の殿上人たるわれを、朝廷でも、こうは無残な取り扱いをせぬ筈だと思いながら、縄じりを取っている男達に、
「これはどうしたと云うのだ。何のとがで、こんな目に会うのだ。」と、問うた。すると、一人が、
「此方にも、ハッキリ判らない。たゞ、命令でお前を連れて行くのだ。」と、云ったが、他の一人の男が、それにつゞいて「お前は、法華経を書いたことがあるか。」と、云って訊いた。
「あゝ、書いたことがある。」と答えると、
「それは、自分のために書いたのか。」と、云った。
「いや、自分のために書いたのではない。人に頼まれて、二百部ばかり書いた。」と、答えた。
すると、その男は「どうも、その事らしい。お前は、それで訴えられているのだ。その事で、お前は判決を受けるのだろう。」と、云うのだった。
法華経を書いたことが、そんなにとがになるのかと、敏行朝臣は不安を感じながら、黙って曳かれて行っていると、急に後の方から、軍馬の近づく音がするので、振り返ると、鎧《よろい》かぶとを着て眼は電光のようにかゞやき、口は焔のように物すごい二百人ばかりの人々が乗り連れて、傍をすぎて行くのである。面をむくるさえ、恐ろしいような人達である。敏行朝臣は、きもつぶれ、倒れ伏しそうになりながら、われにもあらず、引き立てられて行くのだったが、その軍馬が行きすぎてから、「一体あの人達は何か。」と、云って訊いた。すると、男達の一人が「知らないか。あれこそ、お前を訴えた人達だ。あの人達は、お前の書いた法華経の力で、天にも生れ、極楽にも往生し、又再び人身に返るとしても、よほど立派な身分になれる人達だったのだ。ところが、お前が法華経を写すときの態度は、どうだったのか。お前は、一度だって、斎戒沐浴した事があるか。信心の心をいだいた事があるか。お前は、お経をかくときでも、魚をかいていたではないか。女に文を書いたその筆で、すぐお経を書いたではないか。女に触れた後でも、すぐお経を書いたではないか。いな女の事を思い浮べながら、お経を書いた事さえあるではないか。そんな態度で書いたお経が、何の功徳になると思うか。あの人達は、そのために何の功徳も受けられないで、あんな悪鬼|羅刹《らせつ》の身になってしまったのだ。そのために、お前を恨んで、こん度の訴訟になったのである。一体、お前はまだ地獄へ召さるべき定命ではないのだが、あの人達の訴えに依って、今度急に召される事になったのである。」と、云うのだ
った。それを聞くと、敏行朝臣は、心も凍り身も切られるように思った。「あの人達は、一体自分をどうしようと云うのだろう。」と、訊いて見た。すると、その返事は、「馬鹿な事を訊くものではない。あの連中が、その握っている太刀刀でお前を二百あまりに切りさいて、その一片ずつを分けて、お前を責めようと云うのだ。その一片ずつに、お前の心も別れて行って、責められる毎に、うき悲しい目を見る筈だ。たとえ方もないほど苦しいだろう。」と、云うのである。「何か助かる方法はないか。」と訊いたが「いや、それはわしらにも分らない。」と、云う返事だった。歩いてゆく空もなかった。又しばらく行くと、大きい川があった。その水を見ると、まるで墨のように真黒だ。怪しい水の色かなと思って「どうして、こんな色をしているのか。」と訊くと、「知らないのか、これこそ、お前が書いた法華経の水が流れているのだ。」と、云う。「どうしてか。」と丶云って聴くと、「心の真《まこと》を致して清く書き奉ったお経は、すぐ王宮に収められるが、お前がしたように、心きたなく、身汚らわしく書いたお経は、そのまゝ広き野原に捨てられるのだ。だからその墨が雨に打たれて、かく川に流れて来るのだ.、この川の水は、お前の書いたお経の墨である。」と、云うのだった。
敏行朝臣は、恐ろしさに身もだえしながら、「何か助かる法があるか、どうか教えて頂きたい。」と云ったが「可哀そうだが、これは尋常の罪ではないから、どうにもならないのだ。口には述べられず、心にも考えられないほどの罪なのだ。」と、云うのである。今は云うべき事もなくなって、トボトボと曳かれて行った。おそろしげな異形の者が走って来て「遅いぞ」と、叱咤するので、男達は「いそげいそげ!」と、せき立てるのだった。やがて、大きな門に着いた。見ると、敏行朝臣と同じように、曳き張られている者が、沢山到着している。中には、くびかせをつけられているもの、高手小手に、結びからめられているものなどが、十方より集って来ている。門の中へはいると、先刻逢った二百人あまりの人々が、敏行朝臣の到着を見て、いまにもつかみかゝらんばかりに、ひしめいているのである。朝臣の足は、地に着くどころではない。「何か助かる方法はないか。ぜひ、教えてほしい。」と、血の涙を出しながら頼むと、男共の一人が、「きゝめがあるか、どうかは保証せぬが、四巻経をかくと云う願を起してみろ。」と、耳の傍でさゝやいてくれた。敏行朝臣は、溺るる者のわらをも掴むばかりの気持でこのとがをつぐなうために、四巻経をかこうと云う願を発したのである。
やがて、庁の前に引き据えられた。判官のような人が、「お前が敏行か。」と、云って訊いた。
「さようで。」と、返事をすると、「お前は、まだ定命が尽きたと云うのではないが、お前が法華経をかいた書き方が、汚わしいので、そのための訴訟で、お前は急に呼びよせられたのだ。訴えた者の願いの通り引き渡すことにするから。」
との判決であった。庁を囲んでいる二百人あまりの人々の間に、ドッと歓声が上った。敏行朝臣は、ふるえながら、抗弁した。
「たしかに、それは悪うございました。ただ、その罪をつぐなおうつもりで、四巻経を書いて供養する願を発しましたが、その事を仕遂げないで、召されたのが残念でございます。」と、云った。すると、判官は驚いて「そんな願を起しているのか。それが、本当とすれば、不憫である。帳を調べて見よ。」と、書生らしい男に云いつけた。その男が、大きい帳面を持ち出して調べ出した。敏行朝臣の一生の行事が、細かく書かれている。罪業のみ多くして功徳になるような事は、ちっともない。書生らしい男は、たずねあぐんでいたが、おしまいの頁の、しかも最後の行に書かれているのを見つけて、「ございます。」と、返事をした。
すると、判官は、「それは不憫な事である。ともかく今度だけは、許してやろう。その願を遂げさせてから、ともかくも計らう事にしよう。」と、云った。判決がくつがえされると、今まで敏行朝臣にとびかゝろうと、手につばきしていた連中の姿が、ふっと消えた。「ではたしかに娑婆世界に返して願をとげさせよ。」と、云う声がしたかと思うと、ふと眼がさめた。気がつくと、妻子や眷族《けんぞく》が、不安そうに自分を見守っていた。
「お気がつきましたか、昨タからひどい熱で、うとうとして居られました。お加減はいかゞですか」
と、云うのであった。さては、夢を見ていたのであると思ったが、地獄にいた有様が、鏡にかけたようにあまりにハッキリしているので、夢ではなく、本当に半分は死んで地獄に行っていたのではないかと考えた。
それから、十日ばかりで病気は恢復した。そして、病気が恢復すると共に、心清く四巻経を書こうと思い、四巻経を書く用紙を、経師に作らせ、径さえ入れさせた。
が、折から弥生節の頃で桜が咲き始めていた。敏行朝臣は、自分の本復祝をかね、友達の歌人どもを、十人ばかりも、花見の宴に招待した。そうした催しの準備や、疲れで半月ばかりも、無駄に過した。弥生の半になった。病気以来、久しく打ち絶えていた、小侍従と云う、中宮に仕えていた女房の許を尋ねて見ると、たいへんな恨みようで、病気になっても、消息位はくれそうなものである、病気というのは、嘘であろう、外に、新しい女が出来たのであろうと、しつこくいつまでも口説かれた。最後に、十日の内に三の日と、七の日には必ず訪ねると云う約束まで、させられた。外に、もう一人女があった。家には、もちろん北の方がいる。こうなると、女に触れないで、起き出ると云う日は、月の中に幾日もない。その上、月の中に歌会が三、四日はある。その前日は、歌を考えねばならない。
その上、以前法華経を書いた時は、みんな人から頼まれたので、ちゃんとした礼物があった。みんな、何日が命日だから、その前日までにと云うように、期限付であった。やんごとなき人から、頼まれる時の礼物は、砂金の時もあり、絹のときもあり、武家などは見事な馬などを曳いて来た。敏行朝臣は、中務大輔をしていたが、その月給よりは、写経の礼物の方が、ずーと上廻っていた位である。
が、今度は自分の功徳のために書くのである。自分の罪障消滅のために書くのである。そうなると、礼物どころか、催促してくれる人さえいない。
その年の夏を過ぎても、まだ一行も書いていなかった。その間に、法華経の浄写を、二、三回頼まれたが、さすがにそれを引き受けなかった。いつか見た夢が、本当だとすれば、さすがにこの上の罪障を重ねる気にはなれなかったのだ。
が、四巻経の方は、相変らず手がつかなかった。その内に、秋が来た。藤原公任が、大井川で三船の遊びをしたが、同じ歌よみの船に乗り合わせていた、左大臣頼通の未亡人と、知合になった。未亡人の歌を敏行が激称したからである。
三月目に、未亡人から歌がとゞけられた。もちろん、恋歌である。敏行は、二日がかりで返歌を考えた。そう云う贈答が、その年中つゞいた。その翌年になって、敏行は初めて、女の許に通ったが、お互いに中年の恋であるだけに、はげしい情熱がもえたぎって、その年一杯は恋愛三昧と恋歌の贈答に過ぎてしまった。四巻経のことなどは、すっかり忘れられてしまった。たゞその料紙が、しろじうと書斎の一隅に積まれていたが、敏行は見るたびに、少しはいやな気がするので、おしまいには到頭庫の中に、しまわせてしまった。
敏行は考え出した。いつか見た夢は、結局一場の夢であり、法華経が貴いお経である以上、それを写すことが罪障りになるわけではないと考えたのである。
敏行は、いつかの病気が恢復してから十年位生き延びたが、歌よみと恋愛とで夢のように暮してしまった。
たゞ、最後の死床に就いた時、さすがに四巻経を書かなかった事が、気になったと見え、友人の紀の友則に、ざんげして、用意して置いた料紙を三井寺にいる知り合の聖の許に送って、自分のために、四巻経を書いて貰うよう、くれぐも頼んだと云うことである.
敏行朝臣の話は、これで終ったが、それを聴いていた、一人の僧侶が云った。この男は、大和の前司(元の国司)の末子で、七郎小院と云われてまだ十七、八の少年であったが、「敏行朝臣が見た夢は、それは心の迷いである。どんな態度で、写そうとも、法華経を写すことが、罪障になるわけはない。お経は、お経そのものが尊いので、その写し方によるものではない。たとえば、仏像は、仏像そのものが尊いので、それを作った仏師や、それを造らせた願主が、悪鬼であろうと、夜叉であろうと、かまうことはない。」と、云った。
その説には、随分反対が多かったが、七郎小院は思い切った顔付になり、「では話す、これは自分の恥になることだが……」と、云って次のような話をした。
「自分の家は、仏法に帰依しているので、代々一人は出家することになっている。自分が、今出家しているように、自分の父の弟も出家して、この西塔にいたのである。もう、二、三十年も前の事であるし中途で破戒無残な事があって、山を逐われたから誰も知っている人はいないだろう。
山にいるときは、お経などはあまり読まないで、武々しい事を好んで僧兵の一人になっていた。ただ、それだけならば、山を逐われる訳はないのだが、女犯も冒したし、もしかしたら、盗賊もしたのかも知れない。到頭、山を逐われて、故郷の大和へ帰って来て、自分の父に世話をかけていた。父は、国司である手前、さすがに山を逐われて帰って来たとも云いかねて、一通りの修業は済んだように、世間へは披露した。そして、小さい御堂を造ってやった。が、叔父は、そこでお経をよむどころか、近所のあぶれものを蒐めて、博奕ばかりをやっていた。そして京都で馴染んだらしい女を引き入れて一しょに暮していた。
そのうちに、叔父について悪い評が、いろいろ伝えられた。叔父の一党が、夜追剥ぎをやっているとか、叔父の前に物売りに行った商人が、品物だけ取られて突き出されたとか、よからぬ噂ばかりである。
自分の父は、それを心配して、しばしば叔父を呼んで注意した。ところが、叔父はとうとうたる雄弁家で、自分についての噂や非難を忽ち煙にまいて、手のつけようがないのである。父も扱いかねた末に考えた。これは、早速に本尊を安置するのがよい、尊い仏像を安置したならば、どんな叔父でも、その前で、ばくちを打つわけもないだろう。悪い仲間は、はゞかって出入をすることが、稀になるだろうと思ったのであろう。それで、仏像を彫む費用として、父は紅白の絹二十反ずつを叔父に与えたのである。そして、かまえて二カ月の間に仏を造り奉れと云いつけた。叔父はほくそ笑んで、それを承諾した。
そして、その頃奈良で一番名高い左近丞と云う仏師を呼んで来た。そして、父から貰った紅白二十反の絹を見せて『三尺の薬師如来を作りたいと思うが、賃はこの紅白の絹各二十反だ。』と云った。紅白の絹各二十反と云えば、莫大な礼物である。仏師が、即座に承諾して、この礼物を持ちかえろうとすると、叔父は云った。『いや、これを今渡して、お前の造り方が遅れたりすると、ついわしもお前を責めることになる。そう云ういさかいがあっては仏を造り奉る功徳がなくなる。だから、これには封をして、わしもさわらないことにする。だからお前は、此処へ来て仏を造ってくれ、そして出来上ったら、即座にこれをみな持ってゆくことにしてくれ。』と云った。仏師は、少しうるさいと思ったが、叔父の云う通りにすることになって、毎日御堂へ通って刻み始めた。が、叔父は朝タの食事は出そうとしない。『お前は、自分の家で造る場合に此方から食物をはこぶわけはない。此方で造る場合にも食物は自分持は当然だ。』と云うのである。日数が経ってようく仕上る頃になると、仏師は漆や金箔が必要になって来た。それで、仏師は叔父にせめて、漆代をつぐなうだけでも絹を賜りたいと云った。すると、叔父は『貰う物は、一度に沢山貰った方がいゝので、少しずつ貰うことなどは、きわめて馬鹿々々しいことだ。』と、云って、やらないのである。
仏師は、止むを得ず、漆を借りて、箔を借りて、仏像を完成した。
いよいよ、眼も入れて、今日こそ完成の日になって、お礼の衣を頂こうと云うことになった。
すると、叔父は、「承知した。が、完成を祝って一度御馳走をしよう。今迄物を食わせなかったのは、本意でなかったのだから、今日こそ思い切って御馳走をしよう」といい家にいた二人を使いにやり、自分も酒をとゝのえて来ると云って家を出て行った。
後に、叔父の妻だけ残ったが、急に馴々しく仏師に、笑みかけて、『永い間の御苦労で、ございましたでしょう。少し、お肩など、もみましょう。』と、云って近寄って来るのである。叔父の妻は、京生れだけに、さすがに美しかったのである。仏師は、恐縮して辞退したが、妻はしつこく寄って来て、肩をもみ腰をもみ、おしまいには前へ廻って二つの腕をとって、さすりなどするのである。
その時であった。何時の間に帰っていたのか、叔父は仏師の前に、立ちはだかると、『人の妻を、まぐとは怪しからぬ!』と、早くも太刀を抜きはなしているのである。理非曲直を弁ずる暇もなく、仏師は驚いて飛び出すと、叔父は『人の妻をまぐものあり、やあやあ、おうおう。』と、どなりながら、仏師を追っかけ廻し、刀をふりおろすのである.仏師は命からぐで逃げた。立てかえたうるしの代金も、はくの代金も仏師の損になった。
それを聴いた父は、叔父を叱った、が叔父はいつもの雄弁で、仏師が実際自分の妻を犯そうとしたのだと云って屈しなかった。ただ、自分の父は後で『そんな破戒無残なやり方で仏を作ったとて、何の功徳になろう。その仏像も、それを作らした男の心がうつって、今に夜叉のような顔になるだろう。』と嘆じていた。
が、事実は、今奈良で名高い利生院の薬師如来(瑠璃光山利生院大福寺。延文元年(1356)に勅旨により平安京に移される。本尊薬師如来は聖徳太子の御自刻)と云うのは、叔父の造らせたこの御像で、参詣の善男善女を、惹きつけると云う点では、奈良で随一である」と、云った。