六祖壇経に曰く、「但だ心虚空の如くにして、空見に著せずんば、応用無碍、動静無心、凡聖情忘じ、能所倶に冺じて,性相如々にして定ぜざる時なし。」またいわく「汝、若し心要を知らんと欲せば、但一切の善悪、都べて思量すること莫れ、自然に清浄の心体に入ることを得て、湛然常寂にして、妙用恒沙ならん。」
即ち能所亡冺、一心の妙体を証せる境地は、枯木死灰、頑空無用なるにあらず、大死一番大活現成の境である。かの十玄談に「謂うこと莫れ、無心便ちこれ道なりと。無心猶ほ隔津、一重の関。」また曰く「萬法冺ずる時、全体現ず。」あるいはまた「明月堂前、枯木の華」。かの永嘉集に「依報と空不空、非空非不空と相応ずる時は、すなわち香臺寶閣、厳土化生す(初成仏より盡未来際、相続して變じて、純浄佛土となる、周円無際、衆寶荘厳し、自受用身、常に依って住す)」正法眼蔵に「古佛イワク、盡大地是眞實人體ナリ、盡大地是解脱門ナリ、盡大地是毗盧一隻眼ナリ、盡大地是自己法身ナリ。」
此等の文はみなこれ心印玄機の現成せる本地の風光をかたるものである。かの天上天下唯我独尊の語は、この心印体得の心境を表現せるものである。