福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

金山穆韶師の「仏教における個体の観念」・・・9

2017-05-20 | 霊魂論
而も今宗には金屑貴しといへども眼に落つれば翳となるが如く(碧巖録、續傳燈録、槐安國語、毒語心経などにあります)、法身涅槃貴しといへども、これも執すれば法の病なりと観、此の法執を除かんがために、寂滅無相を主として説くものである。

金剛経には一切の相をみるものは菩薩にあらざる旨を説れ、圓覺経には「生死涅槃猶ほ昨夢の如し」と宣説し、思益梵天所問経に「諸佛の出世は衆生をして生死を出で涅槃にいたらしむるがためにはあらず、只生死と涅槃との二見を絶しめんがためなり」と説かれたるが、禅門は此の如く無所住の心に住し、言語道断、心行処滅の境を體するを宗となすものである。

即ち二は一によって有なり、一もまた守ること莫れ、二とはこれ真妄、一とはこれ自心なり、真妄の二つ既に除くときは、自心の一にも住すること無きを、解脱の大道となすものである。

所謂佛に逢へば佛を殺し、祖に逢へば祖を殺し、一切を殺し(「臨済録」にあります)本来無一物の心性を透得する道を明かすものである。

また信心銘に「眞如法界、他無く自なし」といへるが、眞如海中には生佛の假名を絶し、平等慧内には自他の形相なしとは、よく禅門の宗要を示せるものである。即ち禅門には解脱の境地に、個體の存在を認めざるものである。

初祖の達磨大師は廓然無聖といひ、二祖の慧可は覓心了不可得といひ(無門関 第四十一則『達磨安心』に「達磨面壁す、二祖雪に立つ、臂を断って云く。『弟子は心未だ安からず乞う師安心せしめよ』磨云く『心を将(も)ち来たれ、汝が予めに安んぜん』祖云く、『心を覓(もと)むるに了(つい)に不可得なり』磨云く、『汝が為に安心し竟んぬ』」とあります。)三祖の僧璨は、「至道無難、唯嫌揀擇」といひ、六祖慧能は「本来無一物」といへるがこれらは皆聖諦第一義は凡聖差別の相を絶する旨を明かすものである。

かくの如く衆生の人體は因縁生の假相にして眞諦眞如の法を眞實とし、人を遮して法に歸せんとするは、一般佛教の通説なるも、禅門の如きは、人を遮し、法に歸するに至れば、もとより一如の法にも住せず、寂然虚通、身心脱落の境を體するを宗となすものである。

かかる教義を真言密教においては凡夫の迷情を遮遺するを宗とせる遮情教となすものである。たとひ無相の相の如き一応表徳の説をなすも、これ理内の萬徳、空裡の影像、遮情中の表徳なれば、遂に遮情空に歸するのである。有空一如の菩薩の内証を明かすも毘盧遮那果體は有空を絶すればただ言断心滅の不可得の理に帰するを宗となすものである。
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